エペルが”男”だと知ったのは、彼と随分親しい間柄になってからだった。親しい間柄というのは、もちろんクラスメイトとして懇意にしている一人、という意味なのだけど。ただ、わたしは彼のことをずっと自分と同じ”女”だと思っていたもので、その衝撃的な事実には大変ショックを受けた。けれど、ショックを受けたのはエペルも同じだったようだ。
「なぁ、お前。なんか勘違いしてねぇか?」
授業中、実験器具をジャックと一緒に片付けていると、不意に彼がそう言った。
「なんのこと?」
「あのな、エペルは男だぞ」
真顔でジャックが言う。
「ジャックが冗談を言うなんて珍しい」
「冗談じゃねぇよ、事実だ。このままだとエペルがいたたまれなくなるから、この際教えてやろうと思ってな」
「嘘だ、あんなに可憐で可愛らしい人が男なわけないよ」
わたしがそう言うや否や、背後でガシャンと何かが割れる音がした。振り返ると、そこには驚いた顔でこちらを見ているエペルがいた。彼の足元には粉々になったビーカーがある。
「わ、エペル大丈夫?」
「………」
彼の大きく開かれた瞳は、静かに伏せられる。
「ど、どうしたの?」
「……男だよ」
「え?」
「僕、男だよ」
彼はその形のいい唇をわななかせながら言った。今にも泣きそうな、悲しみに満ちた表情で、そんなエペルの顔を見るのは初めてだった。そしてわたしは情けないことに、彼に何も言葉をかけることができず、ジャックが「だから言っただろ…」と呆れたようにつぶやいた。
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その日から、わたしとエペルは今までのような関係でいられなくなった。彼にどう接すればいいのか、分からなくなってしまったのだ。
それに、わたしは後悔していた。これまで同じ女だと思って彼の肩や手に触れたり、顔を寄せたりと、気軽な気持ちでじゃれ合ってきたこと。相手の気持ちも知らずに馴れ馴れしい振る舞いをしたことは、確実に彼を傷つけていただろう。
クラスで見かけるエペルも、あの日以来、元気がない。ときどき彼は、わたしに話しかけるように息を吸ってこちらを見る。けれどそのたびに、彼と話をする勇気がないわたしは、逃げるように教室を出てしまう。
そんなある日、わたしはクルーウェル先生の授業で盛大に実験を失敗してしまった。この日もエペルのことばかり考えて、気が散っていたのだ。
「ほぉう…?俺の授業で上の空になるとは、いい度胸だ」
モクモクと怪しい煙を上げる、明らかに”失敗作”の毒薬が入ったわたしの窯を覗き込みながら、クルーウェル先生が言った。
「罰として、この毒薬の生成方法についてレポートを10枚書いてこい。提出期限は明日の12時までだ。いいな!」
わたしはがっくりと項垂れながら頷いた。
それから今の今まで、わたしは図書室に入り浸っている。この学校はいろいろな授業があるけれど、中でも理系の授業がわたしは苦手だ。だから、普通の生徒なら数時間で書き上げてしまうであろうこのレポートも、わたしにとっては大変荷が重い作業なのだ。
深く溜息をつきながら、分厚い本の中ほどに視線を落としていると、隣で静かに椅子を引く音がした。音がした方を見ると、そこには遠慮がちにこちらを見ているエペルがいた。
「あっ……ごめんね、驚かせた、かな」
「い、いや、ううん……」
「その、困ってるんじゃないかって気になって、様子を見に来たんだ。だって君、この授業…苦手でしょ?」
柔らかく笑うエペルに心臓がドキリとする。こんなに可愛らしく笑う人だけど、彼は男なのだ。そのギャップが変にわたしを緊張させる。
「ありがとう、実は…すごく困ってたの」
「だろうね、ずうっと手が止まってたもん」
エペルは笑いながらわたしの手元のレポートを覗く。顔を覆うすみれ色の髪はいつ見ても美しい。
「…まず、ここの公式が間違ってるよ」
「え、どこ?」
「正しくは、こう」
エペルがわたしからペンを取り上げると、綺麗な文字で正しい公式を書き直してくれる。
「ふふ…これじゃあ、レポートの間違い探しからはじめないと、ね」
「ごめん…」
「ううん、手伝いたくてここに来たんだから、気にしないで」
こうしてわたしはエペルの力を借りながら、レポートを作り直すことになった。
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レポートが完成する頃にはすっかり日が落ちていて、図書室にいる生徒もまばらになっていた。
「ねぇ、まだ時間ある?」
完成したレポートを一つにまとめ、筆記用具を片付けていると、エペルがそう尋ねる。
「あ、うん、大丈夫だよ」
「じゃあ、外に出て少し話さない?」
いつかは彼と話すときが来ると思っていたこともあり、わたしはその誘いに応じた。
外に出ると、少し強い夜風が頬を撫でる。先に立って歩くエペルの姿は儚げで、今にも風に飛ばされてしまいそうだった。
「なんか、風…強いね」
「そうだね、…って、わ!」
「……イッテェ!」
突然突風が吹き、小石や小枝が吹きつけて来たため、わたしたちは慌てて顔を覆う。しかし、エペルの口から予想外の乱暴な言葉が飛び出したので、思わず彼の顔を確認してしまう。
「あっ……!え、えっと、痛いなぁ…なんて、あははっ」
エペルが慌てた様子で口調を正す。
そうして結局わたしたちは、ある程度風をしのげそうな外廊下で話をすることになった。
「あの…ね、君が前にジャッククンと話していたことなんだけど…」
「あ、あれは…!あのときは失礼なことを言ってごめんなさい…。だけど、やっぱり怒ってるよね」
「…ううん、怒ってないよ」
エペルは困ったような顔で微笑んでいた。
「ただ……ナマエサンには、僕のことちゃんと知ってもらいたいなって、思ったんだ」
そう言って彼は一歩わたしに近づく。
「僕、本当はこんなフリルシャツなんか着たくない」
エペルとわたしの背丈はちょうど同じくらいなので、距離を詰められてもさほど威圧感を覚えない。
「寮長や寮生のみんなみたいに、おしとやかに話すのも苦手だ」
いつの間にか、彼がゆっくりと手を伸ばしていた。
「…俺が憧れてるのは、ジャック…クンみたいな、男らしい人間だ。だから頑張ってトレーニングもしてる」
突然右手に温かさを覚え飛び上がりそうになる。エペルがわたしの右手を握っていた。
「だから……俺は女に間違われるごどが一番嫌いなんだ」
目と鼻の先にエペルの綺麗な顔がある。しかし、その顔は明らかに”怒っている”表情だった。
「ただ間違われるのが嫌なんじゃねぇ……君だから、ナマエサンだから、嫌…なんだ」
エペルはそのままわたしの指に自分の指を絡ませる。わたしより少し大きいエペルの手は滑らかでぬくもりがあった。
「ナマエサンは、僕のこと…女友達だと思ってたんでしょ。女だと思われていたのはショックだけど…でも、仲良くしてくれたのは嬉しかった」
彼はなおも距離を縮めようとするので、わたしは少しずつ後ずさる。やがてわたしは壁際まで追い詰められた。
「だって僕、ずっと君のこと、可愛いなって思ってたから」
「か、可愛いだなんて、それはエペルの方が……」
「……おい、まだ俺のごど女みてぇだの、めんこいだのさるのか?」
トーンダウンしたエペルの声に思わず首がすくむ。彼にとって女の子と見紛うほど可憐だ、ということは一切誉め言葉ではないのだ。
だから、謝ろうと思った。もう二度とこんなことは言わないと、約束しようと思った。けれど、なぜか口を開くことができなかった。
「ナマエサンさ、警戒心がなさすぎるよ」
エペルが唇を離しながら言う。
「そんなに無防備だと、今みたいに唇を奪われちゃうんだから、ね」
「え、えっ……?うそ…」
「僕だって男なんだ。好きな子が目の前にいたら、キスもしたくなるよ」
耳元で囁くエペルの声があまりに色っぽくて卒倒しそうになる。そして、このままだと本当に襲われかねないと体が察知している。そうだ、この身の危険を感じるのは、彼が間違いなく”男”だからなのだ。
「も、もうあなたのこと、可愛いとか、女の子みたいだなんて、言わない。絶対に!」
「本当?約束だよ」
「わかった、約束する!」
「ああ、でも…もしまた君が、さっきみたいに僕を可愛いだなんて言ったら…」
再びエペルの顔が近づく。その目はキラキラしていてあどけないのに、その奥には獲物を狙うようなギラギラした輝きもあった。
「…さっきみてぇに、俺が男だって思い出させでけるよ」
「……っひ」
「…なーんてね」
エペルは顔を離すと可愛らしくにっこり笑った。けれど、もう彼を”可愛い”だなんて思えない。見た目はどうであれ、彼の中身は可愛いとはかけ離れた正真正銘の”男”だ。
「じゃ、風も強いし、寮に戻ろうか」
エペルが指を絡ませたままのわたしの右手を握り直しながら言う。「うん」と頷くと、彼は嬉しそうに手を引きながら、オンボロ寮まで送ってくれた。
「それじゃあ、おやすみ。また明日」
最後に彼はいつもの穏やかな笑みを見せてそう言った。けれど、玄関のドアを閉めた瞬間、わたしはその場にへたり込む。エペルの怒った顔と笑った顔、そして触れた唇の感触が繰り返し思い出され、うるさい心臓を両手で押さえながら、しばらくその場を動くことができなかった。
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