鬼ごっこ

動物にはみな、”狩猟本能”がある……というのを、もとの世界の授業で習った気がする。肉食動物が動くものを”獲物”と捉えて襲ってしまう本能なのだとか。たとえ空腹でなくても、程よいターゲットがいれば襲ってしまうらしく、「コワ…」と思った覚えがある。

とはいえ、しょせんこれは”肉食動物”の話であり、現実世界で人間が狩猟本能に駆られて人を襲うことなどない。だからそのときは、「人間に生まれてよかった〜」なんて考えながら、教科書の下部にあるページ数をシャーペンで塗りつぶしたりして遊んでいたっけ。


しかし、この世界に来てから状況が変わった。
ナイトレイブンカレッジに通う生徒たちは、どこかが少しずつ変わっている。一見普通の人間に見えても、人間の姿を借りているだけ、という生徒もいるのだ。だから、わたしの”常識”や”一般論”がここでは一切通用しない。「変な人」がいて当たり前の世界。

―――その結果、こんなことになっている。
わたしは今、リーチ兄弟というウツボの双子の兄弟に目をつけられている。なかでも、弟のフロイドの方に異常に執着されているのだ。

彼がわたしを追いかけてくるそのさまは、絶対に”狩猟本能”に駆られていると思う。たぶんわたしが逃げなければ、彼もさほど興味を示してくることはなかったのだろう。けれど、不思議なことばかり起こるこの世界になかなか順応できなかったわたしは、恐怖のあまり逃げ出してしまった。だから、彼の狩猟本能にスイッチが入った。そして現在、最悪な状況が続いている。

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「あれ?監督生、オマエこんなとこでなにしてんの?」
放課後、こそこそと木の陰に隠れながら自寮に向かっていると、後ろからやって来たエースに声をかけられる。
「あ、エース…」
「なんか落とし物でもしたのか?」
「う、ううん、そういうわけじゃ…」
「そういや、グリムが置いて行かれた〜ってオマエのこと探してたぞ。オマエったら、授業が終わってすぐ外に出ちゃうからさぁ」
「ああ、それには理由が……」
理由がある、と最後まで言えなかったのは、エースのはるか後ろにあの男を見つけたからだ。

ゆらゆらと体を小さく揺らしながら、小首を傾げ危うい雰囲気をかもし出しながら歩いている、背の高いあの男。リーチ兄弟の片割れ、フロイド・リーチだ。彼はわたしの姿を見つけると、にぃっと口を横に広げる。唇の間からギザギザの歯がのぞき、わたしは総毛立つ。


「小エビちゃん、いたぁ〜〜」
「ごめんエース、また今度」
「えっ?あ、おい…!」
戸惑ったようなエースに別れを告げて、わたしは教科書を小脇に抱えて走り出す。フロイド先輩の楽しそうな笑い声が後ろから追ってきた。
「今日は鬼ごっこかぁ、いいよぉ。捕まえたら、ぎゅ〜〜って絞めたげる」

彼はわたしを泳がせるように、わざとのろのろと追ってくる。あの長い足をもって本気で走れば、あっという間にわたしを捕まえられるというのに。
まるで彼は”狩り”を楽しんでいるかのようだ。か弱い獲物で遊ぶのはそんなに楽しいのか。遊び、いたぶることに飽きたあとは、残酷に食い荒らすくせに。

わたしは校舎を飛び出し、図書館の前を走り抜け、植物園に忍び込む。園内の小さな木製の橋を渡ると、フロイド先輩がドアを開け中に入ってくる音がした。
「小エビちゃ〜ん、出ておいで〜」
フロイド先輩が楽しげな声を上げるも、ここで素直に出て行く馬鹿はいない。わたしは足を忍ばせながら園の奥へと進む。熱帯雨林のような背が高く、葉の大きい植物が増えてきたため、彼の目をくらますことができるかもしれない。

「んーこっちな気がする」
フロイド先輩が方向転換をしたのか、先ほどよりも声が近くなり焦る。すると、足元に伸びていた”蔓”につま先が引っかかり、つまずいてしまった。そして、小脇に抱えていた教科書がバサバサと音を立てて地面に落ちる。
「あれれぇ…?」
案の定、フロイド先輩の足音が近づいてきた。わたしは慌てて見知らぬ植物の群生地に飛び込む。それは綿のようなフワフワとした花弁をつけた花と、艶のある大きな葉がついた植物だった。それらはわたしの体を丸ごと隠してくれたように思うが、正直相手の目をくらませるかどうか自信はない。

コツコツと革靴が地面を叩く音が近づいてくる。わたしは身じろぎをせず息を止めた。額から冷たい汗が流れる。体に力を入れていないと、震えてしまいそうになる。

何も悪いことはしていないのに、なぜこんなに恐ろしい思いをしなければならないのか。世の中は理不尽だ。でも、捕まったら何をされるか分からない。だって相手には常識も、一般論も一切通じないのだから。だったら、そんな異常者の手から逃げ続けるしかない。


……
………足音が通り過ぎた。
わたしは細くゆっくりと溜息をつく。助かった。あとは、フロイド先輩が出て行くのを見計らって、この場所から出よう。
しかし、安心するのは早かった。

「……え」
思わず小さく声が出る。空耳じゃない。先ほどの足音がまたこちらに戻って来たのだ。わたしは再び息を止め、体を強張らせる。
「やっぱここが怪しいと思うんだよねぇ」
フロイド先輩がこの茂った植物を通した目の前にいる。心臓があまりに大きな音で鳴るものだから、聞こえてしまうのではないかと心配になる。

突然ガサリと音がしてわたしの真横の植物が大きく揺れた。フロイド先輩が体を割り込ませ、両手で植物をかき分けているようだ。このまま広範囲に草木の間を探されてしまうと、わたしは呆気なく見つかってしまう。

わたしはこれでもかというほど体を縮こませる。来るな、来るな、来るな。わたしの隠れている植物までかき分けるな。両手を組んで祈り続ける。
「チッ、いねぇじゃん…」
もう一度大きく真横の植物が揺れたあと、制服を払うようなパン、パンという音が聞こえ、再び足音が遠ざかっていた。

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―――ガラララ、ガシャン。
ドアの開閉する音を耳にし、今度こそフロイド先輩が出て行ったことを確信する。信じられないほどの疲労感が全身に押し寄せ、しばらく立つことができなかった。

茂った植物をかき分け、這うようにして出て行く。全身にふわふわの花弁や葉がくっついていたが、払う元気もなかった。数メートル先に、わたしが放り出した教科書がまだ転がっている。よかった、フロイド先輩に持っていかれたりしていないようだ。

力の入らない手で1冊、2冊と教科書を引き寄せていると、”ジャリッ”という音がした。
「あはっ、やっぱりそこにいたんだぁ」
ぶるぶると震えながら声のした方を見ると、苔むしたレンガの積み上げられたオブジェクトの上からこちらを覗いているフロイド先輩がいた。
「う、うそ……で、出ていったん、じゃ………」
軽やかに地面に下り立つ彼を見て、わたしは腰が抜けたように動けなくなってしまう

「鬼ごっこって言うか、かくれんぼみたいになっちゃったね」
ゆっくりと近づいてくるフロイド先輩。今ならまだ間に合うかもしれないと最後の力を振り絞り、足に力を入れた。立ち上がり、大きく一歩を踏み出す。このまま出口まで走り抜ける。
……はずだったのだが、グンと体が引かれて喉が閉まる。
「でも、捕まえたからオレの勝ちぃ」
だらしなく笑うフロイド先輩の声がすぐ後ろから聞こえる。制服の後襟を掴まれ、わたしは身動きがとれなくなってしまった。


「ねぇ、絞めてあげよーか?」
フロイド先輩がわたしを覗き込みながら言った。ただでさえ首元が締まって息苦しいのに、彼の得意な”絞める”を行使されたら死んでしまうのではないか。わたしは目元に涙が浮かぶのも構わず、何度も首を横に振った。
「なぁに〜?絞めないでほしいの?じゃあオレにお願いして?」
舌先で自分の唇を湿らせながら彼が言う。一瞬見えた赤い舌が獰猛な肉食動物を想起させ、恐ろしくなった。

「絞め、ないで、ください…」
「もっと〜ちゃんとお願いして」
「ふ、フロイド先輩、絞めないで、ください…お願いします……」
じぃっとわたしの顔を覗いていたフロイド先輩は、突然爆発したように笑い出す。
「……あははははっ!ぷるぷる震えちゃって、かーわいい」
それからわたしの後襟からパッと手を離す。
「いいよぉ、今日は絞めないであげる。だからぁ、またオレと遊んでね」
約束だよナマエチャン、と顔を寄せられるので、はい!と裏返った声で返事をしてしまう。その刹那、そんな馬鹿な約束をしてしまったことに激しく後悔した。

それからフロイド先輩は、鼻歌を歌いながらふらふらと出口に向かった。もう”遊び”は終わりみたいだ。何度も地獄を見た最悪の鬼ごっこだった。彼がドアを開閉する音を聞いたあと、わたしはその場にぐったりと膝から崩れ落ちた。



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