間もなく夕暮れ時を迎えようという頃、わたしは身長190pを超える巨大男と狭い縦穴に納まっていた。彼の膝小僧はわたしの腿に、また彼の骨盤はわたしの腹あたりに位置する。高身長かつスタイルのいいフロイド先輩と、平均的な体型の自分とでは、哀れなほど体格差が出る。だから、彼の顔を仰ぎ見続けると首が痛くなった。
それにしても、こんなに狭い穴にぬるりと入ってくるなんて。ウツボって狭いところが好きなんだっけ、そんなことを考えながらフロイド先輩の胸元でぼうっと光を放つマジカルペンを見つめた。
「んじゃ、オレとにらめっこしよ、小エビちゃん」
唐突に今回のゲーム内容が発表された。あまりに疲れすぎていて「にらめっこ…」と馬鹿みたいにオウム返しをしてしまう。
「そ、今回はねー2勝先取でいいよ」
わたしがぼんやり彼を見上げていると「2回オレを笑わせてってこと」と言い直してくれた。
無理だ、と思った。
今はフロイド先輩を笑わせる気力も体力もないし、そもそも人を笑わせられるような技術もない。もうじゃんけんとかでいいじゃないか。わたしが何も答えず俯いているとフロイド先輩がごそごそと体を動かすのを感じた。
ほどなくして彼の手が脇の下に伸びてくる。そして、こともなげにわたしを持ち上げた。
「え、」
それから彼は少しだけしゃがむようなアクションをする。といっても、この狭い穴の中でしゃがむなんて到底できないし、やはり彼が折ろうとした膝は、途中で土壁に引っかかってしまう。そうして引っかかりを利用しながら、狭い穴の中でいい具合に空気椅子を実現させたフロイド先輩は、傾斜がかった自身の腿の上に、わたしを乗せた。
「はい、これでいーい?」
視線が同じ位置になったことに対して満足かどうか問うているのだろうが、それよりもこんな大胆な姿勢を強いられたことに動揺する。わたしは肘を曲げながらもフロイド先輩の両脇の土壁に手をつき、これ以上体が密着しないように努めた。とはいえ、相手との顔の距離は20cmもない。これが明るい空間だったら、肌の隅々まで観察されてしまいそうだ。薄暗い穴の中でまだよかったと思う。
「ほらほらぁ、小エビちゃん早く面白い顔してよ〜」
「え、も、もう……?」
いつの間にゲームがはじまっていたらしい。フロイド先輩は口を一文字に結んだまま、じぃっとわたしの顔を眺めていた。黙っていると彼は一層何を考えているのか分からず、少々不気味に感じる。
にらめっことは、互いに睨み合い、どちらかが先に笑ったら負け…という趣旨のゲームだ。ただ、フロイド先輩のルールだと互いに笑かし合うのではなく、どちらか一方が相手を笑わせにかかるスタイルらしい。
だから、本来ならわたしがおかしな顔をする努力をしなければならない。でも、こんな状況でおどけた顔をするなど到底無理だった。わたしは痛いほど感じるフロイド先輩の視線から逃れるように、わずかに顔を俯かせる。するとフロイド先輩が「え〜〜?」と不満げな声を上げた。
「小エビちゃん、ノリ悪ぃー」
「仕方ないでしょう、にらめっことか…そんなことする気分になれません」
「じゃあ、選手交代ー。オレが小エビちゃんを笑かしたげる。ルールは同じ、2回小エビちゃんを笑かしたらオレの勝ちね」
そう言って彼がニヤリと笑うので、慌てて自分の顔を引き締める。
フロイド先輩はしばらくわたしの顔をニヤニヤと見つめ続けるだけだった。こうやって見られると、笑ってしまうというより恐怖を感じる。ああ、これなら負ける心配はなさそうだなと思った。
突然、彼が顔を近づけた。相手との距離は10cmにも満たないだろう。とんでもない圧を感じ、顔を逸らしたくなるが「逸らしたら負けだよ」と察しのいいフロイド先輩から牽制される。
こんなに長時間、フロイド先輩と見つめ合ったことなんてない。オッドアイの瞳に見つめられると、だんだん変な気分になってくる。その気分の大半は”恐怖”に支配されているのだけど、その中には一種、アドベンチャーゲームを楽しむような奇妙なドキドキも含まれていた。
顔がまた、近づいた。相手との距離はもう5cm程度だろうか。近すぎてフロイド先輩の顔面に焦点が合わない。だけど、互いの視線だけはかち合っている。
これが”にらめっこ”の距離でないことはたしかだ。それにフロイド先輩は一向にわたしを笑わそうとしない。奇妙な時間だけが流れ、わたしの心臓はいつもより格段に速く鼓動している。
「あの……」
本当ににらめっこする気、ありますか?そう言おうとしたところで、フロイド先輩の眉が困ったように八の字になった。そして抜けるような、滑らかな声で「おやおや……」と言った。
―――無理だった。
わたしは瞬時に顔を背け、吹き出す。ジェイド先輩の真似だ。しかも、この至近距離で真似をされると、微妙に焦点が合っていないことも相まって完全にジェイド先輩にしか見えなかった。それに加えて、微妙にクオリティの低い声物真似。そのちぐはぐさが妙に笑いどころを刺激された。
「はい、小エビちゃんの負けぇ」
「こ、声はズルいですよ!」
「でも笑ったじゃん、じゃー2回戦行くよぉ」
慌てて顔を正位置に戻すと、またすぐ近くにフロイド先輩の顔があった。今回もこの距離で笑わすつもりなんだな、と腹に力を入れる。しかし、彼のことをじっと見ていると先ほどの物真似が思い出され、ときどきお腹が痙攣しそうになる。
そんな思い出し笑いに苦しむわたしを見て、フロイド先輩はニヤリと笑った。
「にぃらめっこしましょ、笑うと負けよぉ……」
フロイド先輩が楽しくてたまらないというように口ずさむ。そのとき、がら空きだった自分のわき腹に彼の手が触れていることに気づいた。しかし、顔を逸らしてはいけないと言われていることもあり、視線を外せない。
「あっぷっぷ」
「……っひ!!」
わたしは思わず片手で口を塞ぐ。それを咎めることなく、フロイド先輩は優しくわたしのわき腹をくすぐり続けた。
くすぐりに上手いも下手もないだろうと思っていたが、フロイド先輩は物凄くくすぐるのが上手かった。身をよじって逃げようにも、こんな狭い空間では無理なことだ。土壁に背中を押しつけ距離を取りつつ、両手でフロイド先輩の手を掴んだが、彼のくすぐりは止まらない。唇を噛んで笑いを押し殺す。
「あはっ、もう笑っちゃいなよぉ」
「ふっ、く…!」
そう言ってくすぐりスピードが上がった。人にくすぐられること自体久しぶりで、今のわたしの体には情けないくらい”こしょばい耐性”がなかった。目に涙が浮かび、じわりと汗をかきながら、わたしは我慢できず息を吐き出した。
「っは、あはっ…やめ、やめて、ください!!フロっ……やめて、ひいっ……はははっ!!!」
自分でもびっくりするくらい大きな声で笑ってしまった。それを見て、フロイド先輩もすごく嬉しそうに笑った。そして「笑った方がいいじゃーん」と言いながら、しばらくわたしをくすぐり続けた。(おかげでこちらは息ができなくなるほど笑い続けることになった)
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「よいしょ」
フロイド先輩はわたしを担いで穴を出る。日はすっかり暮れてしまい、空の端っこに夕日のオレンジ色が微かに残っている。
「あれぇ、だいじょーぶ?小エビちゃん」
ぐったりと地面にうずくまるわたしを眺めながら、フロイド先輩が楽しそうに訊いた。
「疲れました……」
笑いすぎて腹筋も喉も痛い。何だったら頭痛もする。おまけに体中土だらけだ。(それはフロイド先輩も同じだが)
フロイド先輩はそんなわたしをじっと見下ろしたあと、黙ってひざまずく。それから、まるで小さい子どもを抱きしめるかのようにわたしをその腕に引き寄せた。
「でも、楽しかったねぇ」
いつも力加減のおかしいフロイド先輩が普通のハグをしてくることに、一瞬思考が停止した。その後すぐ、楽しかった?このにらめっこが?マジで?と自問自答を行なう。
「楽しい、ですか」
「うん、楽しーよ」
「はあ……」
じゃあよかったですね、としか答えようがないが何も言わない。フロイド先輩が先に立ち、その後、彼の手を借りてわたしも立ち上がった。その薄汚れた寮服のままモストロラウンジで働くのかな、と思うと、わたしが悪いわけではないのに少し申し訳ない気持ちになる。
突然彼がペラリとわたしの制服のシャツをめくり上げた。当たり前のようにわたしの素肌を覗くフロイド先輩に、数秒遅れて「ちょっと!!」と怒号を飛ばす。
「オレの印、なくなっちゃったぁ」
残念そうにそんなことを言う。フロイド先輩に見られていた右腰部分に触れると、微かにでこぼことした感触があった。ああ、これは”脱出ゲーム”のときにつけられた傷だ。たしかに今では、そこにひっかき傷があった形跡をわずかにしか確認できない。
この人はこの傷のことを自分の「印」と呼んでいたのかと合点する。同時に自分が「印」をつけられていたことに少しゾクリとした。
「次はどこにつけよっかなぁ」
フロイド先輩がわたしの手首を掴み、自分のもとへ引き寄せる。散歩を拒否する犬みたいに踏ん張ったが、力が強すぎてかなわなかった。
フロイド先輩がわたしのうなじに触れた。危険を感じ、咄嗟に片手で首元を覆う。
「怖いの?だいじょーぶ、ちょっとだけだから」
ニコリと笑うフロイド先輩に、黙って首を振る。
「……手、どけろよ」
わたしが抵抗の意を示し続けると、彼は表情と声を一変させた。しかし、恐怖に震えながらもわたしは引かなかった。
「や、辞めてください、こんな…」
言葉を言い終える前に「やだ」とフロイド先輩の言葉が被さる。そして、首を覆っていたわたしの手を取ると、無防備になったわたしのうなじに顔を埋めた。
彼の柔く、温かい唇が首筋に当たり、緊張で体が固まる。
「なんで…」
思わずこぼれ出たわたしの言葉に、フロイド先輩がピクリと反応する。
「なんでかって?そんなん知らね」
そう答えるフロイド先輩は、いつも通りの口調なのに、いつも通りじゃない気がする。
「ただ、オレがナマエちゃんにそうしたいだけ」
そのあと、鋭い歯がゆっくりと肌に食い込んでいくのを感じた。
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