天気のいい日だった。
昼食を食べたあと、校舎の周りを適当に散歩していると、中庭の芝生の上に珍しい人が転がっていた。ラギー・ブッチ先輩が気持ちよさそうに昼寝していたのである。
彼とは特別親しい間柄ではなかったが、ときどき学園で起こるトラブルの解決に協力してくれたりするので、悪い人ではないんだろうなと思う。抜け目がなく損得勘定で動く性格がたまにきずだけど。
そんなラギー先輩は働き者で面倒見がよく、いつもサバナクロー寮・寮長であるレオナ先輩のお守りをしている。けれど、そんなラギー先輩でもこんな風に息抜きをすることがあるんだなと、興味深い思いで眠りこける彼を見下ろしていた。
小さく寝息を立てながら眠る彼の耳が、時折ピクピクと動く。やや厚みのある大きなその耳は猫科動物を彷彿とさせ、気づけばその耳に手を伸ばしていた。
もとの世界にいた頃、わたしの家では猫を飼っていた。野良猫上がりだったため、最初は素っ気なく噛みついてくるような猫だったけれど、毎日一緒に過ごすうちに、甘えた声ですり寄ってくるような猫になった。
懐かしいなあ、あの子を撫でたいなあ。また一緒にお昼寝がしたいなあ。そんなことを考えながら、その分厚い耳を人差し指と親指で軽く挟み、揉んでやるように優しく触った。うちの猫は、こうやって耳を触られるのが好きだったのだ。
しかし、そんな懐かしい気持ちはすぐに打ち切られる。
「ちょっ、ちょちょちょ!なにやってんスか?!」
気づけばラギー先輩がわたしの手を掴んでおり、ギョッとした顔でこちらを見ていた。わたしの指はもう彼の耳を挟んでおらず、さっきまで触れていた耳はピクピクと何度も角度を変えて動いていた。
「あぁ、すみません、つい……」
「いやいや、ついってなんスか?!めちゃくちゃビックリしたッスよ!!」
ラギー先輩は戸惑いながらも手を離してくれる。それから、わたしにつままれていた方の耳を自分の手で触り、毛並みを整えるかのように何度か撫でた。
「その…ラギー先輩の耳を見ていたら、もとの世界で飼っていた猫を思い出したもので…」
「猫ぉ?」
不愉快そうに眉を寄せ、首を傾げるラギー先輩。
「ったく、失礼ッスね。オレたちハイエナを、家畜同然のあいつらと一緒にしないほしいッス!」
そう言ってそっぽを向くも、なぜかパタンと大きく尻尾が揺れた。
「……ていうか、アンタも案外大胆ッスね。寝てる男の耳に気安く触るとは」
「すみません…」
「でも次触るときは、ちゃあんと対価を払ってほしいッス。たとえば、オレの好きなドーナツを持ってくるとかね!」
ラギー先輩は立ち上がると、大きく伸びをしてからこちらを向いた。
「アンタが来なけりゃ、寝すぎてレオナさんに怒られるとこだった。……起こしてくれてありがとうッス」
やや尖った犬歯を見せて笑うと、彼は校舎に向かって駆けていった。
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それから数日後、また中庭で昼寝をしているラギー先輩を発見した。しかし、今日は勝手に彼の耳に触れるようなことはしない。なぜなら前回「触るのなら対価を寄こせ」と彼に釘を刺されたからだ。
あいにくドーナツは持っていないけれど、先ほど購買部で買ったナッツクッキーは持っている。いざとなればこれを交渉材料に…そう考えていると、ラギー先輩がゆっくりと瞼を上げた。そして自分を見下ろしているわたしを見つけると、驚いたように目を見開く。
「びっ……くりしたぁ、まーたアンタッスか」
それから起き上がって「またオレの耳目当て?」と言い、シシシッと笑った。
「あの、今日はクッキーがありますけど」
「クッキー…?ああ、そうか。オレが対価を払えって言ったんだっけ」
なんとなくラギー先輩の隣に座ると、彼はまだ眠気がとれていないような顔で頭をかく。
「ナマエくん、そんなに実家の猫が好きだったんスか?」
「えぇ、まあ……」
「ふーん」
ラギー先輩は意味ありげに相槌を打つと、わたしに向かって右手を差し出した。
「…対価は先払いッスよ」
その手にクッキーの入った小袋を置きながら、なんて話が早い人なんだろうと思ってしまった。
そうしてわたしは、”対価”を払う代わりにときどきラギー先輩の耳に触れさせてもらうようになった。触れている間、ラギー先輩はなにも言葉を発しないが、突然思い出したように大きく尻尾が揺れることがある。たしか、動物の尻尾は感情を表すと言うし、やっぱり怒っているのかな…と心配になるも、彼から苛立ちを感じることはなかった。
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そんなある日、わたしはまた中庭でラギー先輩を見かけた。と言っても、今日はいつもの場所ではなく、木々の茂りが多い場所だ。最近は日差しが強いから、日陰の多い場所を選んだのかもしれない。
わたしの足音に気づいたのか、ラギー先輩はすぐに目を開ける。
「あぁ、ナマエくん」
ニカッと歯を見せて笑うと、跳ねるように飛び起きる。そして「今日もッスか?」と意味ありげな表情を見せた。
「あ…いえ、今日はなにも持っていなくて」
嘘ではなかった。いつもなら飴やチョコレートなど、簡単なお菓子を携帯しているのに、今日はそれらのストックを切らしていたのである。
「ふーん、そうッスか…」
ラギー先輩はわたしを見上げながら、ピクピクと耳を動かす。まるで「ほら、触りたいだろう?」とわたしを誘っているかのように。その動きがまた実家の猫を彷彿とさせる。温かい陽光の下、日向ぼっこをしているときの猫は、いつもこんな風に耳を動かしていた。
「じゃあ、別の形で対価を払ったらどうッスか?」
「別の形?」
「たとえば……そうだなぁ、オレの肩を揉む、とかね」
いやーレオナさんにこき使われて、肩こりがひどいんスよねー…と、彼は大げさに首を回す。
「肩揉み、だけでいいんですか?」
「もちろんスよ!人に肩を揉んでもらえるなんて嬉しいなぁ……シシシッ」
なんだかよく分からないが、肩を揉めば耳を触っていい、ということらしいので、わたしはありがたくその案に乗ることにした。
ラギー先輩の後ろに回り、その両肩に手を乗せる。意外と広い背中に少しだけ驚く。サバナクロー寮は背の高い寮生が多く、ラギー先輩は小柄に見えがちだが、むしろ彼こそ一般的な男子高校生の体型なんだろうなと思えた。
肩のツボを押すため、膝立ちをした体勢で、自分の両手の親指に力を入れようとする。しかし、そうして体重を乗せようとした瞬間、「あ、気が変わったッス」と言う声が聞こえ、ぐるりと視界が一転した。
柔らかい芝生を背中に感じ、密集した葉の間から青空が見えた。ラギー先輩はニヤニヤしながらこちらを見下ろしている。
「あの…肩揉み、は」
「それはもういいッス。その代わり、オレにもナマエくんを触らせてほしいッス」
「え?」
「だってズルいじゃないッスか〜。いつもいつも、ナマエくんばっかりオレのこと触って…」
視界で何かが揺れている。―――ラギー先輩の尻尾だ。右に左に、大きく揺れているらしい。
「オレだってナマエくんに触りたいッスよ、触らせてくださいよ」
ラギー先輩はわたしの顔の両脇に手をつくと、ゆっくりと顔を近づけてくる。そしてわたしの髪、首筋に唇が触れそうなほど近寄ると、動物じみた仕草ですんすんと鼻を鳴らした。
「や、やめてください!恥ずかしいですから!」
両手を使って抵抗しようと思うも、彼の手によってその手が抑えつけられていることに気づく。ラギー先輩はそのままわたしの左耳にまで顔を近づけていった。
耳元ですん、すんと彼が匂いを確認する音が聞こえる。そのあと、耳たぶにしっとりとした柔らかい感触を覚えた。しかも、その感触は一度や二度ではない。少しずつ移動しながら耳全体にまんべんなく唇を押しつけてくる。
悲鳴のような声が出そうになるのを必死で我慢し、そのくすぐったいような、気持ちのいいような絶妙な刺激に耐え続けた。
「どうだったッスか?」
耳元でラギー先輩が囁く。ビクリと体を強張らせると、彼は低い声で笑った。
「あのね、今までナマエくんがオレにしてたことって、こういうことだったんスよ」
いつの間にかラギー先輩の顔が目の前にある。彼の顔が少し上気しているように感じるのは気のせいだろうか。いや、気のせいだと思いたい。
「……オレのことを煽ったのは、アンタだからな」
唇に熱が重なり、視界がラギー先輩でいっぱいになる。こんなに長いと感じる昼休みは初めてだった。
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