そんな悪夢のような授業から1週間が経ったある放課後のこと。
教室で課題を終え、寮に戻ろうと夕日に照らされるメインストリートを歩いていると、運動場の方向からわたしを呼ぶ声が聞こえてきた。見ると、箒を片手にラギーが走ってくる。
「寮戻るんスか?だったら、このあと食堂で一緒にメシ食いません?オレ、そろそろ部活終わるんで」
息を切らし、汗を光らせながらそう言うラギーは人のいい笑みを浮かべている。しかし、わたしが返事に渋っていると、「まさか、こないだの飛行術の授業のこと、まだ根に持ってるんスか?」と口を尖らせた。
「わたしをからかった罪は重いよ」
「だって、怯えてるナマエくん、かわい……ああーーっもうあんなことやらないッスから!ね?だからメシ、行きましょうよ!」
ラギーは結構しつこい性格だ。このまま永遠に引き留められるのも面倒くさかったので、仕方なく食堂に行く誘いに乗る。すると「じゃあ、その辺で適当に待っててくださいッス!オレ部活戻るんで!」と言い、あっという間に運動場へ戻ってしまった。
それから、どれくらい彼を待ったのか分からないけど、大した時間ではなかったと思う。芝生の上で図書館で借りた本の第一章を読み終えるよりも前に、彼が走ってくる音を聞いた。
「お待たせ……っと、読書中だったッスか?」
見上げると、運動着に身を包んだままのラギーがわたしの本を覗き込んでいる。
「ふーん、その本面白かったらオレにも貸してほしいッス」
「図書館のだから自分で借りてね」
ラギーはわたしの手を引いて、立つのを手伝ってくれた。
「いやー今日もレオナさんスパルタだったな〜。めちゃくちゃ疲れたッスよ〜」
頭の後ろで手を組みながらそう愚痴るも、口調は軽やかだ。なんだかんだ、部活が好きなのだろう。
「夢中になれることがあってすごいね」
口にしてから、これは嫌味に聞こえたかもしれないと思った。純粋に部活に打ち込めるラギーがすごいと言いたかっただけなのに。言い直そうともう一度口を開きかけたとき、「ナマエくんにはないんスか?」とラギーが言った。
「ナマエくんには夢中になれること、ないんスかね」
「あー……そうだね、ないのかも」
元来熱しやすい性格ではないので、一つのことに打ち込んだ経験もない。否定の言葉を伝えると、ラギーは「ふーん」と言いながらやけにジロジロとわたしの顔を見た。
「オレにはもう一つあるッスよ、マジフト以外で夢中になれること」
なんだろう、お小遣い稼ぎが好きと聞くし、アルバイトだろうか。そう思いながら、「なに?」と一応尋ねてみる。
「ナマエくんッス」
「は?」
「だーかーら、オレはナマエくんに夢中なんだって言ってるんス!!」
「なに?冗談?」
「これが冗談に聞こえるッスか?!」
ラギーは怒ったように眉をしかめ、わたしを睨む。だってわたしに”夢中”だなんて言われも、どういうことかまったく分からない。
「わたしをからかうのに夢中ってこと?」
「……それ、わざとッスか?オレがナマエくんのこと好きなの知ってるでしょ?」
ラギーは心底呆れた顔で溜息をついた。
「え?そうなの?」
「マ、マジで言ってんスか?ナマエくん、鈍すぎでしょ……」
「だってラギーが今までわたしにしてきたのは、とてもじゃないけど好きな人にするような行動には…」
「………はあ、アンタって人は本っ当に男心を分かってないッスねぇ」
ラギーは突然足を止めると、わたしと対峙するように真正面に来た。そして、にいっと口角を上げるとこう言った。
「ラフ・ウィズ・ミー(愚者の行進)!」
突然体が言うことを聞かなくなる。自分の体じゃなくなった、そういう感覚だ。目の前でラギーが両手を広げた。すると、わたしの手も同じように左右に広がる。
「ナマエくんが言う、”好きな人にするような行動”ってさぁ…」
「な、なに、なになに!!」
ラギーが足を踏み出し、わたしも同じ歩幅で足を出した。案の定わたしたちの体は密着し、広げた両手は互いの背中に優しく添えられた。
「こういうことを言ってるんスか?」
互いの体を抱きしめ合うわたしたち。少なくともわたしにとってこの行動は不本意なのだけど。
「オレは恋人になる前からこういうことするの、失礼だなと思ってやらなかったんスよ?なのに、ナマエくんがオレの気持ちを信じてくれないから…」
ラギーがわたしの体を抱きしめる力を強める。すると、わたしの腕の力も同じように強まった。
「ごめん、ごめんって、信じるから!だからもう、やめて!」
「やめないッス。オレ、完全にヘソ曲げちゃったんで」
耳元で、空気が抜けるようなラギーの笑い声が聞こえる。しかし、わたしからすると全然笑えない状況だ。
「夕飯の前にナマエくんを食べちゃったっていいんスからね」
「怖いこと言わないで」
「あれ?また勘違いしてる?“食べる”って、もちろん”ベッドの上で”って意味ッスよ?」
「………」
「ねぇ、ナマエくん」
ラギーが耳元で話し続ける。
「オレのこと、意識するって約束してよ」
「…えっ」
「まあ、オレのこと好きになるって約束してくれたらもっと嬉しいんスけど」
不意に、わたしの両手がラギーの背中から滑り落ちた。いつの間にかラギーにかけられた魔法が解かれていたらしい。けれど、ラギーは変わらずわたしの体を抱きしめたままだ。
「分かった」と言うと、彼はようやくわたしを解放した。そして「そんじゃ、メシ食いに行きますか」と何事もなかったかのように歩き出す。若干拍子抜けてしまうも、わたしも黙ってその隣を歩いた。
「あれれ?もしかしてナマエくん、照れてるんスか?」
「……うるさいなぁ」
「ほんと、可愛い人ッスねぇ。だからオレは…」
「もういい、黙って」
強い口調で言葉を遮ると、ラギーは嬉しそうに笑顔を浮かべる。
「こりゃ、思ったよりも早くオチてくれるかもしれねぇな……」
「はぁ?」
「っと、独り言ッス」
食堂に向かいながらも、わたしの頭は混乱していた。ラギーに抱きしめられたときの体の温かさ、耳元で聞こえた彼の声、それらを忘れたいと思えば思うほど、繰り返し思い出してしまう。そんな恥ずかしさを隠すようにわたしは不機嫌な調子を装っていたが、反対にラギーは大変ご機嫌な様子で闊歩していたのだった。
☞拍手☜