「こんなところで何をしている」
地面ばかり見ていたので、突然人間の声が聞こえたことに思いのほか動揺してしまう。慌てて顔を上げると、その勢いのまま実験机の端で強く頭を打つ。ジワリと広がる痛みに耐えつつ声の主を探すと、すらりとしたパンツ姿の足が目に入った。そこから徐々に上を見上げると、両手を組みこちらを見下ろしている鋭い眼光の男にたどり着く。
「うわ、じゃ、ジャミル…先輩」
「なんだ?その反応は」
彼が顔をしかめると、表情の鋭さと冷たさがさらに増す。オーバーブロットを経験して以来、ジャミル先輩は自分の感情を抑えることを辞めたようだ。不愉快なことは不愉快と、言葉や表情に素直に表すようになった気がする。
「そんなことより、さっきから地に這いつくばって何をしている」
「あ、いえ、あの……大丈夫です」
「どうした、何を隠している。見せてみろ」
必死で笑顔を浮かべるも、ジャミル先輩は大人しく帰ってくれそうにない。わたしは諦めて、自分の体で隠すようにしていたその残骸をそうっと彼に見せた。すると、ピクリと彼の片眉が動く。
「ほう、これはまた派手に……」
粉々になった試験管や瓶、薬品が混ざり合い、ちょっとした砂場のようになっているそれを見下ろしながら、ジャミル先輩が呟いた。
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放課後、廊下を歩いているとクルーウェル先生が速足でこちらに向かっているのを見つけた。彼はとても急いでいる様子で、わたしを見つけると薬品一式が入った段ボール箱を手渡し、「仔犬、悪いがこれを実験室に持って行ってくれないか」と頼んできたのである。どうやら彼はこれから職員会議らしく、実験室に寄る暇がないらしい。わたしは特に用事もなかったので、快くその申し出を引き受けた。
段ボール箱は自分の足元が見えるか見えないかという、両手にちょうどおさまるくらいの大きさだった。それほど重くはなかったが、中でガラスのぶつかり合うカチャカチャという音がするし、乱暴に運んではいけないだろう。だから、努めて慎重に運んだ………はずなのに。
先生から受け取った鍵でドアを開け、実験室に入った。悲劇はそのあとすぐに起った。どうやら足元に、前回の授業で誰かが片付け忘れた実験用具が転がっていたらしい。わたしはそのゴツゴツとした何かに足を取られ、盛大に転んでしまう。しかし、地面に倒れ込むその瞬間まで、この段ボールを死守しなくてはいけないという気持ちがあった。だから、床に思いきり膝や腹、顎を打ちつけようとも、段ボール箱から手を離すようなことはなかった。
とはいえ、段ボール箱が床に勢いよく叩きつけられる勢いで、何本かの薬品瓶や試験管が外に飛び出して行った。パリンッという軽やかな音が、わたしの中で大きな絶望を生む。痛む体をなんとか奮い立たせ、その惨劇が広がる方へと足を運ぶ。そこには、粉末状・液体状の薬品が混ざり合い、見た目も臭いも完全に”ヤバいこと”になっていた。恐らく薬品は4瓶、試験管やビーカー、フラスコなどを合わせて5本くらいダメにしてしまったようだ。
わたしは換気をすべくすぐに窓を開け、掃除に使えそうな道具を探した。けれど実験室で見つかったのはボロい雑巾が2枚のみ。これでどうやって片付ければいいのだ…と今の今まで、途方に暮れながら掃除をしていたのである。
―――そんなときにジャミル先輩がやってきた。
「とりあえず君は立った方がいいな」
ジャミル先輩は腰をかがめ、わたしに右手を差し出す。その手を握ろうとして慌てて手を引いた。
「…どうした?」
「いえ、その……」
先輩は黙ってわたしの手を掴み、自分の目の前まで持ってくる。そして思いきり眉根を寄せた。
「薬品に触ったな、かぶれてるじゃないか」
「はい……」
「まあ、こんな状況なら仕方ないか。それにしても、オンボロ寮の監督生がなぜこんなことを?」
彼はわたしのかぶれた手など気にならないかのように、思いのほか優しい力で手を引き、立ち上がらせてくれる。
「たまたま廊下でお会いしたクルーウェル先生に、用事を頼まれて…」
「ふぅん」
ジャミル先輩は探るような細い目でわたしのことを隅々まで観察する。すべてを見透かすようなその目に、まるで蛇に睨まれた蛙のごとく縮こまってしまう。
突然彼はわたしの顎に手を添えた。その無遠慮な動きに連動して、顎に鋭い痛みが走り「うっ」と呻き声を上げてしまう。
「どうやら、結構派手に転んだようじゃないか。痛いのは顎だけじゃないだろう。あとで保健室に行った方がいい」
「はい…」
負傷していると分かっているなら、わざわざ触らなくてもいいじゃないかと少し腹が立つ。そんなわたしを見てジャミル先輩は小さく溜息をつくと、「…まったく、俺はもう人の世話なんてしたくないんだがな」と呟いた。そして胸ポケットからマジカルペンを出し、”ヤバいこと”になっているそれに向かってペンを振った。
粉々になったガラスの容器たちは元の通りに形を成し、混ざり合った薬品はそれぞれ分離される。そして元いた薬品瓶の中に戻っていく。それはまさに一瞬の出来事。そのあまりに鮮やかな魔法を、わたしは呆けたように見つめるしかなかった。
「これで問題ないだろう」
ジャミル先輩は淡々とそう言うと、再び胸元にマジカルペンをしまった。そして、じいっとわたしの顔を見る。
「君、歩いてみろ」
「えっ?」
「歩くんだ」
「は、はい……」
言われた通り前に進もうと右足を出すと、ビックリするぐらい激しい痛みが膝に走り、ガクリと崩れ落ちそうになる。寸でのところでジャミル先輩が体を支えてくれたので、再び地面にダイブすることはなかったけれど。
「まともに歩けもしない、ってわけか。どれだけひどい転び方をしたんだ?」
「本当に、申し訳ないです……」
「こんなに俺に借りを作って、後でどうなっても知らないからな」
ジャミル先輩はぶつくさ言いながらわたしの右腕を自分の肩にかけた。そして、左腕をわたしの腰に回し、ぴったりと体を寄せるようにして歩き出す。
当然ジャミル先輩の方が背が高いので、ちぐはぐな動きになってしまう。けれど、この支えがあるのとないのとでは、歩行の安定さが大きく変わってくる。申し訳ないやら恥ずかしいやら、複雑な気持ちになりつつも、わたしはジャミル先輩の綺麗な髪が揺れる首元にしっかりと自分の腕を巻きつけた。
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「それじゃあ俺はこれで」
保健室まで送り届けてくれたジャミル先輩は、わたしのお礼も聞かずにすぐに背を向けた。けれど、何かを思い出したかのようにまたすぐこちらを振り返る。
「体の痛みを和らげるにはハーブティーを飲むといい。君の寮に茶葉はあるか」
「いえ、普通の紅茶しか…」
ジャミル先輩は何かを思案するように口元に手を当てると、やがて小さく笑みをたたえた。
「ふぅん、じゃあ今夜俺が持って行ってやろう」
「えっ?!そ、そんな、悪いですよ…」
「なに、俺がそうしたいというだけさ。……君に多すぎるほど借りを作ってやるのも、悪くないと思ってね」
不敵な笑みを浮かべるジャミル先輩に、一筋の冷や汗が垂れる。いつの間にかわたしたちは”貸し借り”の関係になっている。
「手当が終わったら、寮で大人しく待っているように、ミョウジ ナマエ」
低く艶っぽい声で名前を呼ばれ、心臓が跳ね上がる。
別に催眠魔法をかけられているわけではないのに、ジャミル先輩の視線や声には、わたしを射すくめ絡めとってしまうような力がある。もしかしたら、とんでもない人に助けられてしまったのかもしれない…そう思いながら、わたしは重い体をベッドの中に沈めた。
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