コンコン、と小さくドアをノックする音が聞こえた。
時刻は22時50分―――もういい時間だ。こんな時間に訪ねてくる人間のことを、非常識と言っても差し支えないだろう。けれど、そんな非常識人間になってまでこのオンボロ寮にやって来るとなれば、相手はよほど込み入った事情を抱えているに違いない。
と、そこまで考えて玄関のドアをゆっくりと細く開けた。
「夜分遅くに失礼します、監督生さん」
その貼りつけたような完璧な笑顔を視界に捉えた瞬間、わたしは開きかけていたドアを迷いなく閉めた。
「おやおや……無言で閉め出されるなんてあんまりです、悲しいです」
いまだに相手の声が聞こえるのはなぜか。それは、このニコニコとしたとんでもなく長身の男が、その細く大きな足をドアと壁の間に差し入れ、一方的に会話を続けているからだ。わたしは一言「お引き取りください」とだけ言った。
「なぜです?僕はあなたに会いに来たのに」
「そんなこと頼んでいませんが」
「相変わらずつれませんねぇ」
「ちょ、ちょ、っと……!」
相手の男は、今度は手を差し入れ馬鹿力でドアを開けようとする。全体重をかけてドアを閉めようとするも、力に負けてずるずると体が押されてしまう。圧倒的な劣勢。グリムに応援を頼まなきゃと後ろを振り返った瞬間、ひと際大きな力に押されてわたしはひっくり返った。
幸い柔らかい玄関マットの上に倒れたため、身体的なダメージはほぼない。しかし、冷たい革靴の音をさせて中に入ってきた大男に見下ろされる気分は最高に最悪だった。
「お怪我はありませんか?」
しゃがみ込み、手を差し出してわたしを起こそうとする男を、ひっくり返った姿勢のまま睨みつける。
「帰って、ジェイド・リーチ」
しかし、そんな殺気だったわたしなど歯牙にもかけない様子で、彼は微笑んだ。
「いいえ、絶対に帰りませんよ」
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つまりこの男、ジェイド先輩はオンボロ寮に押し入ってきたわけである。寮主であるわたしの許可なく入り込むのだから、これは”侵入行為”に近いだろう。談話室のソファに腰かけ、優雅に足を組み、ニコニコとこちらを眺める姿がなんだか不気味で、「何用ですか」とわたしはぶっきらぼうに尋ねた。
「何用…と言われれば、そうですね。あなたに会いに来た、それだけのことです」
「こんな時間までわたしをからかって楽しもうって言うんですか?」
双子のリーチ兄弟はこの学校の生徒たちから恐れられている存在だ。多くの生徒は予想だにしない行動をとるフロイド先輩の方を恐れるが、何を企てているか分からないジェイド先輩も始末が悪い。
わたしはこの世界の学校で生活していくうちに、このリーチ兄弟に目をつけられるようになる。多くの場合は、フロイド先輩にしょうもない悪戯をされるだけで済むのだが、なぜか最近になってジェイド先輩が頻繁にわたしに接触してくるようになった。しかも、接触するときは決まって一人。双子の片割れを引き連れてくることはないのだ。
主な接触方法は、わたしにお菓子を与えようとしてくることである。モストロラウンジで余ったケーキ、自分が作ったクッキー、購買で買ったキャンディー、それらをわたしに与えようとする。なお、わたしはそのどれもに口をつけたことがない。だって何が入っているか分からないし、彼が純粋な善意でわたしに食べ物を与える人間だとは思えないからだ。
だからわたしは、フロイド先輩なんかよりソロで接触してくるジェイド先輩の方が断然怖かった。
「僕の言葉をなかなか信じてくれないようですね」
ジェイド先輩は少しだけ眉を下げて微笑む。
「信じられるわけがないですよ」
「嘘を言ったことは一度もないんですが、ナマエさんには」
そう言うと、彼は立ち上がってこちらにやってくる。火のついていない暖炉の前に立っていたわたしは、慌てて移動を試みた。しかし、歩幅の大きいジェイド先輩は二歩歩いただけでわたしのもとまで移動できてしまい、そのまま行く手を阻むように暖炉に手をついた。
「僕とお話ししましょう、ナマエさん」
「嫌です」
「どうして?」
「あなたのことを信用していないから」
「信用?では、僕があなたに何かすると思っているんですか?」
微かに首を傾け、わたしを見下ろす仕草はこちらを馬鹿にしているようだ。
「さあ、どうせまたお菓子でも食べさせに来たんでしょう」
悔し紛れにそう言うと、「なるほど」と彼は少しだけ目を見開いた。そしてポケットに手を入れたあと、その手を出し素早くわたしの唇に押しつけた。何かがコロリと口の中に入り、パニックになる。
「ただの飴ですよ」
ジェイド先輩はクスクスと笑いながら自身も口に飴を含んだ。口の中にじわりとミント味が広がる。本当にただの飴のようだ。しかし油断はできない。
それから彼は右手でわたしの頬を撫でた。滑らかなレザー手袋の人工的な感触と、黙ってこちらを見下ろす妙に湿った視線に鳥肌が立つ。
「一体どうしたんですか?何か目的があるならちゃんと教えてください」
わたしはジェイド先輩の手を払いのけながら、早口でそう言った。すると彼はゆっくりと目を細める。口元も緩やかに吊り上がり、細く尖った歯が見えた。
「ですから、僕はあなたに会いに来たんです。あなたの顔が見たくなって、居ても立っても居られなくなった」
彼はここに来てからずっと、この歯の浮くようなセリフを繰り返している。でもそのセリフの中に微かな違和感があった。その違和感を手繰り寄せようと、冷たくも見えるその整った顔に視線をうろつかせていると、一つの考えが思い浮かんだ。
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以前、図書館で課題を片付けているとき、エースがこんなことを言った。
「なあ、知ってるか?ウツボの発情期って夏らしいぜ」
エースがひどくつまらなさそうな顔でそんなことを言うので、いったんスルーしてしまった。だけど、デュースが顔をしかめながら「だからどうした」と言うと、エースがニヤニヤしながら話を続けた。
「分かってねぇなー。リーチ兄弟ってウツボなんだろ?ってことは、あの人たち夏に発情すんじゃね?」
デュースは理解をするのに一瞬時間がかかったようだが、すぐに顔を真っ赤にさせエースを殴った。
「そんな失礼な憶測をするな!!」
「え?デュースくん、なに想像してんの?!エッチィ〜!」
そんな馬鹿なやり取りを聞きながら、わたしは課題のレポートを書き続けていた。
―――つまり、ジェイド先輩がわたしに接触しはじめたときから、彼の発情期がはじまっていたのではないか?だから今こういう状況になっているのではないか?と、そう考えがまとまったのである。
だとすれば、これはとんでもなく恐ろしい事態だ。
わたしはすぐさま相手と距離を取ろうとするも、素早く腕を掴まれ「どうしたんです?」なんて微笑まれてしまう。
「あの、やめたほうがいいですよ」
「はい?」
「わたしなんか、やめたほうがいいです。たぶん、種族的にも上手く行かないと思いますし」
「………」
焦るあまり支離滅裂な言葉が次々と溢れてくる。それをジェイド先輩は黙って聞いていた。
「それに、えっと……それはたぶん一時的なもの…ですよね。ですから、今我慢すればきっと、わたしへのそれもなくなるはずですよ」
「………」
「だから、今日はいったん帰っていただいて。冷静に、ですね。そう、冷静になればなんてことないですから、きっと」
一息に言葉を吐き出し、はぁ、と一度深呼吸をすると少し気持ちが落ち着いた。しかし、黙り続けている目の前の男が急に恐ろしくなってくる。
そうっと見上げると、ジェイド先輩は相変わらずの笑顔でこちらを見下ろしていた。
「ナマエさんは、僕のことを心配してくださっているのですね」
「え?」
「ですが、問題ありません。僕の”これ”は夏を迎える前……そう、あなたと出会ったときからはじまっていたんです」
「これ、って……」
「まあ、この夏の気候に刺激を受けてしまった可能性は否めませんが」
ふふ、と困ったような笑みを浮かべたあと、彼の口から”ガリッ”という音がした。飴を噛み砕いた音なのだろうが、突然の不気味な音に驚いて肩が大きく跳ねてしまう。
「しかも、そんなにも僕らの生態を理解してくれているなんて。話が早くて助かります」
気づけば、腕を掴んでいた手がわたしの頬を包んでいる。そして、もう片方の手がわたしの脇の下を通り、優しく背中へと添えられていた。
「たしかに僕は、ずっとあなたに発情しているのかもしれません。だから、我慢できずここに来た」
「待っ………!!」
噛みつくように唇が重なった。熱い舌が口内に入り、わたしのミント飴をさらっていく。触手が口の中を撫ぜたかのような艶めかしい感触に頭がくらくらした。
「僕とひとつになりましょう、ナマエさん」
ジェイド先輩がそう言って、優しくわたしの手を引く。彼が向かっているのは間違いなくわたしの部屋だろう。しかし、彼から発せられる濃厚な色気に思考が停止してしまったわたしは、手を引かれるまま彼のあとに続いた。
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