にらめっこ(前編)

だらだらと雨が降り続ける、肌寒い天気が2週間ほど続いた。だから、再び晴天が戻って来たときは無条件で心が浮き立った。天気がいいだけで最高の気分になる。あまりに気分がよくて、普通なら断るような雑用も進んで引き受けたし、グリムにちょっと高いツナ缶を買ってあげたりもした。
………そう、わたしは浮かれすぎていた。


だから、こんな 『 穴 』 に落ちるのだ。


「………なぜ?」

わたしは穴の中から、呆然と空を見上げている。
今わたしがいるのは、全長2メートル以上もある深い縦穴の中だ。人間が2人やっと入れるほどの狭さで、閉所恐怖症の人であればパニックを起こしてしまうかもしれない。穴から這い出ようと何度もチャレンジしたが、壁面を掴んだそばからボロボロと土が崩れていくので、このまま脱出チャレンジをし続ければいずれ土に埋まってしまうだろう。

空はまだ晴れ渡っている。15時あたりを迎えた頃だろうか。時折空を横切る鳥を眺めながら、現実逃避してしまいそうになる。「このままだと、助けが来ずに夜を迎えてしまう」という現実に。

大きな声を出してみたり、土の中に混ざっていた小石や枝を放ってみたり、いろんなことをした。けれど、そんなわたしのSOSに気づく者は誰もいない。

それもそのはず。現在わたしがいるのは学園裏にある森の中。この森に生えている薬草をいくつか取ってきてほしいとクルーウェル先生に頼まれたのだ。大変気分のよかったわたしは、もちろんこのお使いを嬉々として引き受け、薄く差す木漏れ日、風が木々の葉を揺らす音、青々とした緑の香りを楽しみながら、森の中を散策していた。

そうしたら、突然深い縦穴に落ちたのだ。

高さがあるこの穴を這い出ることは至難の業だった。しかも、穴に落ちたとき足をくじいた。ジンジンと痛む足、辺り一面の土壁―――ほの暗い空間に一人放り込まれた心細さは尋常じゃなかった。

何度目かの壁登りに挑戦するも、崩れる土壁に足を取られ尻餅をつく。
時間の感覚がなくなっていたから、どれほどの時間が経ったのか分からない。けれど、空は少しずつ様相を変えていた。
こんな状況になってしまったあまりの理不尽さに悔しくて、悲しくて、恐ろしくて、疲れて、ちょっと泣いた。しかし、一粒涙が流れると、それが引き金となって次から次へと涙がこぼれ落ちる。なるべく汚れていないほうの手で目を拭おうとしたが、どちらの手も土で汚れていた。仕方なく、わたしは両手を握りしめたまま、はらはらと涙を流し続けた。


「えぇ〜〜〜っ?どーいうことぉ?」
突然聞き慣れた声がして顔を上げた。自分が鼻をすする音に気を取られ、足音が近づいてきたことにまったく気がつかなかったようだ。
そこには驚いた様子でこちらを覗き込んでいるフロイド先輩がいた。ハットをかぶり、ストールを身につけた寮服スタイルなので、これからモストロラウンジを営業するところなのだろう。

「助けてください!!」
恥も外聞もなくわたしは叫んだ。窮地を救ってくれる人物が現れたのだ。これを逃してしまってはたまらない。
「え、てか何で小エビちゃんが落ちてんの?これ、ジェイドのために作った落とし穴なんだけど」
フロイド先輩はだらりとしゃがみ込むと、水槽に入った金魚を眺めるがごとく、楽し気にわたしを見下ろした。
「あの、わたし、クルーウェル先生に薬草を取ってくるように頼まれて、そうしたら急にこの穴に落ちて…」
「ふーん。つーか、小エビちゃん泣いてる?泣くほど怖かった?ウケる」
そう言ってフロイド先輩はわたしに向かって手を差し出した。助けてくれるんだ、そう思って胸に安堵感が広がる。わたしは自分の手を伸ばし、フロイド先輩の手を握った。その瞬間、信じられないことが起こった。
彼は被っていたハットをその辺に投げると、この縦穴に”自ら飛び込んできた”のだ。

「……………えっ?」
フロイド先輩が飛び込んできたことにより、穴の中はいよいよギュウギュウになった。彼の腰骨が腹のあたりに当たる。わたしは半ばパニックになりながら呆然と彼の顔を見上げていた。
「なんかさージェイドが最近、この森でキノコばっか取ってくるわけ。モストロラウンジの新メニューに使おうとか何とか言ってさ。でもオレ、別にキノコそこまで好きじゃねーし、連日キノコ料理とかすげぇ迷惑なの。だからぁ、ちょっと痛い目見せてやろうと思って落とし穴作ったんだけど……」
フロイド先輩がにっこりと笑った。笑い顔自体は目尻が下がって優しい顔つきになるのに、唇の間から見えるギザギザとした歯のせいで、優しさと恐ろしさのアンバランスさを生んでしまう。
「なんと、ジェイドじゃなくて、小エビちゃんが釣れちゃいましたぁ〜」
そう言って楽し気に笑い声を上げるけれど、正直わたしはそれどころではない。せっかく現れた救世主は、わたしの手を引き上げるでもなく同じ穴に入ってくるような狂人だった。立派な寮服を汚してしまうことも厭わないほどの、狂人っぷりだ。

「全然、笑い事じゃない!!」
気づけばびっくりするくらい大きな声を上げていた。
「……うっせー。なに怒ってんだよ、絞められてぇの?」
絞めたけりゃ絞めればいいと思った。わたしは構わず言葉を続ける。
「こんな、もう…!で…出られないじゃないですか、どうするんですか!!」
「大丈夫だってぇ、オレ、マジカルペンだって持ってるし。だから、今は楽しもうよ〜」
フロイド先輩は、ね?と小首を傾げる。わたしはフロイド先輩の胸ポケットに素早く視線を走らせた。そのポケットに収まったマジカルペンに手を伸ばそうとすると、簡単にその手を取られてしまう。

「なんで、先輩、出たくないんですか?!」
「出たくねぇよ、たのしーもん」
わたしは怒りを通り越して呆れてきた。こういう状況を楽しめるのは、人魚という種族ならではの思考なのか、それともフロイド先輩の性格の問題なのか。それから彼はわたしの手に自分の指を絡ませながら「そうだ」と言った。
「小エビちゃん、オレとゲームしよう」
「だから、今はそんなことしてる場合じゃ…」
「いいのぉ?小エビちゃんが勝ったら、ここから出してあげるのに」
ぎゅ、とわたしの指を絡めとった彼の大きな手に力が入る。本気を出せば、わたしの手なんて簡単に捻り潰してしまいそうだ。
「大丈夫、簡単なゲームだから、ね?」
語尾を上げ、心底楽しそうにわたしを誘う。しかし、もう手段なんて選んでられない。日は傾き、空はすでにオレンジがかってきている。

「分かりました」
わたしは早口で答える。
「それじゃあ、早くやりましょう。もたもたしてると暗くなる」
「あはっ、いーよぉ」
フロイド先輩はわたしの手を握っていない方の手でマジカルペンを取り、軽く振った。すると、ペンの魔法石にぼうっと柔らかい明かりが灯る。おかげでフロイド先輩の顔がより鮮明に確認できた。そうして、明かりの灯ったマジカルペンを再び胸ポケットにしまうと彼は目を細め、微かに口の端を吊り上げながら言った。
「じゃあ、はじめよっかぁ」


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