「何かお困りですか?」
声がした方に顔を上げると、柔らかそうな銀髪の眼鏡をかけた男がニコニコとこちらを見下ろしている。一見人の良さそうな笑顔に見えるが、その正体は欲にまみれた銭ゲバであることを知っている。だからわたしはゆっくりと首を振り、彼の助けが必要ないことを伝えた。
「おや、僕が手を貸してあげようというのに、どうして断るのです?あなた、明らかに困っているじゃありませんか」
わたしの目の前には、図書館の書棚から持ってきたありとあらゆ本が積み重なり、ちょっとした山を作っている。懸命に調べ物をしているのは明らかだった。
彼はわたしの背後に回り込むと開いていた本を一緒に覗き込む。わたしは慌てて本を閉じたが、閉じる直前に相手に手を差し込まれ、本は口を閉じれなくなる。そうして、その手は再び本を開かせた。そのページには、とある毒薬の解毒剤に関する生成方法が書かれていた。
「毒でも盛られたんですか?」
ギシ、と音がした。いつの間にか彼が前かがみになり、机に片手をついている。本の内容をより近くで見ようとしているからだろう。すぐ真横に彼の顔があり、銀髪がわたしの頬をくすぐった。しかし、背後から覆いかぶさるようなこの体勢は、背中に彼の体温を感じるほど密着しているので、わたしは気まずさに身を縮こませる。また、わずかに感じる嫌な予感に背筋が少し寒くなった。
「……いえ、問題ありません」
「それは答えになっていませんよ」
彼は依然として本から目を離さない。わたしは焦りはじめていた。
早くどこかへ行ってほしい。なにも気づかないでほしい。お願いだから。
しかし、彼は突然なんの断りもなくわたしの後ろ髪をかきあげ、さらにはシャツの後襟を引っ張った。首の絞まる感覚と、さらけ出されたうなじに感じる肌寒さに驚き、叫びそうになる。
「ほう……一体だれがこんなことを?」
身をよじると、彼はあっさりとその手を離した。わたしが慌てて首元を手で覆う様子を、彼はじっとりとした目で眺めている。
「質問を変えましょう。あなたは毒薬を飲んだ、いや、飲まされたんですね?」
「………」
「あなたの体の反応を見るに、肯定せざるを得ないと思いますけどね」
再び自分のうなじに視線を注がれている気がして、わたしは肌が見えないようにシャツの襟をギュッと寄せた。彼は溜息をつくと、椅子を引いてわたしの隣に座る。
「早く解毒剤を飲まないと、その”まだら模様”は体中に広がってしまいますよ。現にあなた、額にも少し…」
顔に向かって伸ばされた手を咄嗟にはたいてしまう。直後、後悔した。
「あっ、す、すみません…」
「いえ、お気になさらず。毒を飲まされている状態なんですから、悠長におしゃべりをする余裕なんてありませんものね」
それから、彼は目を細めにこりとわたしに笑顔を見せる。
「それでは、僕があなたをお助けしましょう」
「えっ」
驚いて身を引くと、ドサドサと本の山が崩れた。静かな図書館で騒音を立てたため、ほかの席で勉強をしていた生徒たちから睨まれてしまった。
「で、でも、わたし、お金持ってません。それに、魔法も使えないし、差し出せるものは、なにも…」
「そんなに怯えなくても大丈夫ですよ。僕は今とても気分がいいので、今回は特別に”無料”であなたを助けてあげましょう。ですが、」
彼はずいと顔を寄せる。ややグレーがかったブルーの瞳に射すくめられ、わたしは無意識に唾を飲み込んだ。
「初回のみ無料となります。以後、僕の力を借りるときは、きちんと対価を用意するように。よろしいですね…?」
こんな押し売りするみたいな助けを受け入れる必要はなかったのだと思う。けれど、熱を帯びてきた体でいよいよ気分は最悪だったし、自分の手でこの毒を解けそうにないことにはとっくに気づいていた。だからわたしは、カラカラに乾いた喉の奥からやっとの思いで言葉を捻りだす。
「お願いします、アズール先輩」
彼は満足そうにほくそ笑む。
「承知いたしました、ナマエさん」
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このあとわたしはモストロラウンジまで運ばれた。アズール先輩がジェイド先輩を呼び出し、運ばせたのだ。(それはちょっとした荷物を運ぶように、軽々と)毒が回っている状態を誰かに見られたくなくて最初は嫌だったけれど、気を利かせてくれたのか、ジェイド先輩はわたしの顔や体が見えないよう毛布にくるんでくれた。ただ、ジェイド先輩が何を抱えているのか周りの生徒には分からないから、余計に視線を集めてしまったに違いないけれど。
わたしが運び込まれたのはVIPルームと呼ばれる場所だった。ジェイド先輩はわたしを丁寧にソファに寝かせると、すぐに温かい飲み物を運んできてくれる。それから「ごゆっくり」と微笑んで部屋を出て行った。この頃にはもう体中がだるく、毒の影響である”まだら模様”は手の甲にまで広がっていた。最低最悪の気分だった。
体を這いあがるような寒気がしてきて、わたしはすっぽりと頭まで毛布にくるまる。死に至る毒薬ではなかったけれど、魔法耐性のないわたしが飲んだらどうなるかは分からない。何であんな無茶をしてしまったのだろうと、今になって後悔している。
きっと今の自分は、体中不気味なまだら模様に包まれ、目も当てられない状態なんだろう。恥ずかしい。怖い。もう誰にも見られたくない。もし解毒剤が効かなかったら?一生この気味の悪い姿のまま生きなければならないとしたら?悲観的なことばかり頭に浮かんでしまい、精神的にきつくなる。
そもそも、アズール先輩を信じて本当によかったのだろうか。騙されている可能性を捨てきれない自分がいる。でも、あの場面では彼を信じるしかなかった。
それにしても、わたしを助けるってどういうことだろう。代わりに解毒剤を作ってくれるということだろうか。ガタガタと体を震わせながら、考え続ける。何かを考えていないと不安に押し潰されそうになるのだ。
そうして、うつらうつらとまどろんでいると、ドアが開き人が入ってくる気配がした。そっと毛布をめくられ、入ってきた明るい光に顔をしかめる。
「お待たせしました、ナマエさん」
アズール先輩はわたしに背を向けていた。
「あ、ああ…あの……」
「そちらの解毒剤をお飲みください。苦くて少し飲みにくいのですが、そのぶん早く効きますよ」
テーブルの上には、深緑色の液体が入った小瓶が置かれていた。手に取り、蓋を開けると、苦みのある匂いが鼻孔をくすぐる。
「少しずつ飲むと余計にお辛いでしょうから、一息に飲むことをお勧めします」
わたしの気持ちを察したかのようにアズール先輩が言った。わたしは一つ唾を飲み込むと、瓶の入口に唇を当て、一気に液体を流し込む。
「……うっ」
「吐いてはいけません。息を止めて、どうにか飲み下すんです」
言われた通り、わたしは息を止め、その苦すぎる液体を何とか嚥下する。しかしその苦みはしつこく舌に残り、少し涙が出るほどだった。
「さあ、もうこれで大丈夫です。小一時間後にはもとに戻っているはずですから、それまでここでお休みください」
そう言うと、アズール先輩はマジカルペンを振って部屋の灯りを消した。薄暗くなったことを確認すると、彼はくるりと振り返る。そして横になったわたしに毛布を掛けなおした。
「あの、」
「今はゆっくりお休みください。解毒剤が効くまでの間に、僕は少し…野暮用に勤しみましょう」
薄く笑ったように見えたアズール先輩は、一度わたしの頭に手を置いた後、静かに部屋を出て行った。
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またうたた寝をしていたようだ。気がつくと、部屋に灯りが戻っている。起き上がってまず感じたのは、体がとてもすっきりとしていること。両手を目の前にかざすと、いつも通りの肌状態になっている。そうっとシャツの中を覗くと、体にはびこっていたあのまだら模様はどこにもなかった。
傍らのテーブルに紙が置いてあることに気づく。「起きたらホールにお越しください」と綺麗な字で書いてあった。わたしは毛布を畳んでソファに置くとVIPルームを出た。
「ああ、きちんと効いたようだ」
わたしの顔を見るなりアズール先輩はそう言った。言葉の割に余裕を感じられる。自分の作った解毒剤に余程の自信があったのだろう。
「本当に助かりました、なんとお礼を言ったらいいか…」
「お礼などけっこうですよ。初回は無料だと言ったでしょう」
その言葉に、ああ、アズール先輩は意外といい人なのかもしれないなぁと思いかけたところで「ですが、」と言葉を続けられる。
「あなた、随分と無茶をしたんですってねぇ?授業中にグリムさんがほかの生徒と喧嘩をはじめて、その仲裁をするために毒薬を飲んだんだとか」
「それは……」
「相手がなぜあなたに毒薬を飲むよう求めたのか、分かっていますか?」
アズール先輩はふぅ、と呆れたように息を吐くと「身体検査ですよ」と言った。
「毒薬を飲んだあなたの体をくまなく観察するため、飲ませたそうですよ。下品で教養のない男子生徒の考えつきそうなことだ」
わたしは文字通り言葉を失う。アズール先輩に助けてもらわなかったら、今頃わたしは……。
「これからはもっと警戒心を持つことですね。この学校に通う生徒は、まともな人間の方が少ないんですから」
腕を組み、少し怒った様子でわたしを諭すアズール先輩に頭を下げる。とはいえ、そんなわたしを助けてくれたんだから、彼はどちらかと言えば「まとも」な方の人間なのではないだろうか。
「その安心しきった顔……あなたは何か勘違いしているようだ」
「え…?」
「僕がナマエさんをお助けしたのはほんの気まぐれ。本来なら、無償で人に解毒剤を作ってやるなど死んでも嫌です」
彼は組んでいた腕を解くと、その手をわたしの首とシャツの間に滑り込ませた。
「今日は気分がよかっただけで、虫の居所が悪ければ、僕もあなたの体を………
……なんて、下品な真似はいたしませんが、代わりに法外な対価を求めていたかもしれませんね」
目が全然笑っておらず、わたしは怖くなって彼の手を無理やり押し戻した。
「とにかく、今後は安易に毒薬など飲まないことです。そして、簡単に人を信用しないこと」
そう言ったあと、彼は壁にかかっている時計を見上げた。ホールにぞろぞろと人が集まってきているところを見るに、そろそろモストロラウンジの開店時間らしい。邪魔しては悪いと思い、わたしはもう一度彼にお礼を言うと、出口向かって踵を返した。
「あ、ちなみにあなたに毒薬を飲ませた生徒ですが…」
振り返るとアズール先輩がこちらを見ている。口の端が吊り上がった企みのある笑顔は、貼りつけた営業スマイルよりも馴染んでいた。
「一週間ほど体中にハート模様が現れる魔法薬を飲んでいただきました。これに懲りて、ナマエさんにいやらしい真似をすることは、もうないでしょう」
一瞬言葉を失ったあと、わたしは口から笑いを抑えられなくなる。
「アズール先輩って、本当に、容赦がないですね」
「たまたま調子がよかっただけです、魔法薬作りの」
そう言ってのけるアズール先輩はすまし顔だ。
「また困ったことがあれば、いつでもご相談ください」
いつもならそんな言葉、はなから聞く気にもならないが、わたしは思わず頷いてしまう。アズール先輩をこんなにも心強い人間だと思ったのは初めてだ。ただ彼は「次からは有償ですが」と言葉を付け足すのを忘れなかったが。
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