動物になった日

狩人のご馳走の前日譚
※ルーク視点


初めて彼女を見たとき、随分と「感情表現」の乏しい人間なのだなと思った。喜怒哀楽が顔に表れにくく、良く言えば冷静沈着な落ち着いた人柄、悪く言えば無表情で不愛想とも取れる。

彼女は我が寮の寮長であるヴィルの前でも、表情に変化を見せなかった。
ある日、一人中庭を散歩している彼女を突然ヴィルが捕まえた。ヴィルがその顎を掴んでも、目を丸くするだけで動揺した様子はない。
「ねぇ、アンタ。ちゃんとスキンケアはしているの?」
ヴィルがその美しい顔をしかめながら尋ねると、彼女はバツが悪そうに視線を逸らす。
「いえ、その…化粧品なんて高価なもの、買うお金がないものですから…」
その答えを聞いて、ヴィルは大きなため息をついた。それからこちらを振り返り「ルーク」と私の名を呼ぶ。
「なんだい、毒の君(ロア・ドゥ・ポアゾン)」
「この子の肌に合う化粧品、全部見繕ってちょうだい。アタシの部屋にある試供品から選んで良いわ」
「試供品って、ヴィルのスポンサー会社から送られてくるあの品々のことかい?」
「ええ、そうよ。どうせアタシは自分で作った化粧品を使うもの、丸ごとあげたって構わないわ」
「なるほど。では、私がトリックスターのビューティーアドバイザー役を引き受けよう」
私たちの会話を聞いていた彼女は、そこで初めて顔を曇らせた。

「アンタ、今暇なの?だったらルークと一緒にうちの寮に来なさい」
「あの、そういうのは悪いので、ちょっと……」
「暇なのね?じゃあルーク頼んだわよ。アタシは今から用事があるから、あとで合流するわ」
「ウィ!任せてくれたまえ」
こんな経緯から、彼女を我が寮に連れて行くことになった。私としては、謎の多いトリックスターを間近で観察できるまたとない機会を与えられ胸が躍っていたが、当の本人は始終しかめっ面をしていた。その愛らしい顔が不機嫌に歪められると、年相応の幼さが際立ち、私はそんな彼女を素直に可愛らしいと思った。

私とトリックスターが直接言葉を交わしたのも、このときが初めてだ。「これまでに肌トラブルを感じたことは?」「洗顔後につっぱりを感じることはあるかい?」私がどんなに質問をしても、彼女はすべて「NO」と答える。これでは一向に彼女の肌質が分からないため、私は手袋を外し、断りを入れてからその肌に触れた。それでも彼女は動揺することなくされるがままだった。

本当に不思議な人間だと思った。やや乾燥気味の彼女の肌に合った化粧品をいくつか選ぶと、使用方法や手順を伝える。聞く耳を持っているのは形だけで、こちらにまったく心を開いていないことが伝わってきた。それに苛立ちを感じることは一切なく、むしろ私はますます「ナマエくん」という人間に興味を抱いてしまったのだ。


手放しで彼女を喜ばせるものは一体何なのか―――そんな疑問を持った私は、それ以来ひたすら彼女を観察するようになる。そうして私は辿り着いた。ナマエくんを心から喜ばせるものに。

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昼時の大食堂、横長のテーブルにクラスメイトのムシュー・ハートとムシュー・スペード、そしてムシュー・毛むくじゃらと共に、トリックスターが着席している。彼らは手を合わせると、各々食事をはじめた。
そのとき、私は衝撃を受けた。ナマエくんの唇が、優しい弧を描いているのだ。

ナマエくんの昼食メニューは、香ばしいバターのかおるオムライスだった。ふわりとした黄金色の卵の上には、酸味と甘みの調和が絶妙なケチャップソースがかけられている。卵、チキンライス、ケチャップをバランスよく乗せたスプーンが、彼女の口の中に吸い込まれていく。小さな口を精一杯大きく開け、獲物を迎え入れる仕草は、ある意味官能的でもあった。

口の中のオムライスを、ひと噛みひと噛み味わうように咀嚼する。隣で同じメニューを食べていたムシュー・スペードと顔を見合わせると、彼女は「美味しいね」と微笑んだ。それから二口目の獲物を用意するため、スプーンをその黄金色の山に埋めた。

人形のように固まっていたその表情が、食事を進めるごとにほどけていく。時折友との会話に目を細めたり、逆に大きく見開いたり…体を揺すって笑うこともある。実に生き生きとしているのだ。

間違いない、ナマエくんの至上の喜びは”食べること”だ。しかも、彼女の食事は美しい。私の心臓を鷲掴み、視線を釘づけにさせるほどに。それから私は、その場から動けなくなるほどナマエくんの食事に見入っていた。彼女がデザートであるヨーグルトの最後のひとすくいを食べ終えるまで、ずっと。


以来、私は必ずナマエくんの食事風景を観察するようになった。彼女はいつも楽しそうに、幸せそうに、美味しそうに食事をする。また彼女の喜びは周りに伝播するようで、席を共にする彼女の友人たちも楽しそうに食事をするようになる。心温まる光景だった。

しかしほどなくして私は、彼女の食事風景に見入っているとき、自分が非常に動物的な感情を抱いていることに気づく。それを自覚したときは赤面してしまうほどだった。とはいえ、それは恥ずべきことというより、男として至極真っ当な感情であるとも考えられる。

食事をしているトリックスターを”食べたい”―――その感情に戸惑ったのは最初だけ。自分の中に湧き上がるそれをすんなりと受け入れた私は、より熱情を持って彼女の食事風景を観察するようになった。

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そしてある日、ついに私は自分のそれを抑えられなくなってしまった。ナマエくんが一人で昼食を取っている場面に居合わせたのも、私の衝動を突き動かした要因だろう。
その小さな背中に忍び寄ると、あまりに儚いその存在を抱きしめたくなる。が、まずは冷静に彼女の隣に腰を下ろした。だが最初、彼女は私の存在に気づいていなかった。

目をキラキラさせながらサンドウィッチにかぶりつこうとしている様子があまりに可愛らしく、つい声をかけてしまう。そこでやっと私の存在に気づいたようだ。瞬間、目の輝きや唇にたたえられた笑みがなくなる。その変化を残念に思うどころか、変わり身の早さに彼女の”本能”を感じゾクリとする。外部の者を受け入れない彼女の意志の強さと、その鉄壁をするすると溶かしてしまう「食事」という行為の偉大さに感服してしまった。

間近で見る彼女の食事は、クラクラするほど刺激が強かった。知らぬうちに生唾を飲み込んでおり、ナマエくんに不審な目で見られてしまう。私は自分の感情と体が徐々に離れつつあることに気づいていた。

最後、ナマエくんはデザートのヨーグルトを味わう。このヨーグルトが彼女のお気に入りであることは、これまでの観察過程で分かっていた。とろみのあるそれを舌で楽しむ姿に、私の体はいよいよ熱くなる。そして、彼女が柔らかそうな上唇の上にヨーグルトをつけたまま、食事を終えようとしたとき、私の理性の糸はぷつりと切れてしまったのだ。

そのときの自分は、まさに本能で動く野生動物そのものだった。
獲物を味わう瞬間、何にも代えがたい快感を覚える。ああ、私はずっと彼女に欲情していたのだと気づいた。出会ったときからずっと……誰の侵入も許さないあの冷めた瞳を見たときから、私はナマエくんの虜だった。

このままでは動物になってしまう。狩人である私が、理性のかけらもない動物に。でも、ナマエくんの唇の柔さを感じた瞬間、そんな動物になるのも悪くないと思ってしまった。


驚きと畏怖に満ちた瞳が私を捉えている。私の血は沸騰するようにますます熱くなった。もう一度、その唇を味わいたくなって顔を近づけた。しかし二度目の”味見”は失敗に終わる。

なぜなら、活きの良いこの獲物は思いきり私の頬を平手打ちし、あっという間に逃げ出してしまったからだ。


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