わたしはどこまでも愚鈍な人間だった。
ハイスクールを卒業してすぐこの店で働きはじめたが、相変わらず注文は間違えるし、レジの釣り銭計算もまともにできない。半年経った今も常連客の顔を覚えることができず、「いつもの」なんて言われると何のことだが分からず固まってしまう始末。結局、つい最近入ってきたばかりのアルバイトの子にフォローされて、わたしはすごすごとキッチンの奥へ戻っていくしかなかった。
だから、わたしがホールスタッフとして採用されたにも関わらず、業務の拠点が客の顔の見えないキッチンになったのは当然のことだし、毎日ピリピリとする洗剤の刺激に耐えながら皿洗いをしたり、料理の簡単な盛り付けをするといった業務しか与えられないのも当然のことだった。
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自家焙煎の珈琲豆を使った珈琲が人気な、そこそこ繁盛しているカフェ―――それがわたしの職場だ。もともと食べることも、珈琲を飲むことも大好きだったから、この店から内定をもらえたときは天にも昇るような気持ちだった。けれど、実際に働いてみるとわたしは自分でも呆れるほど仕事ができなかった。特に、常連客が多いこの店で”人の顔を覚えるのが苦手なこと”は致命的である。
しかし、これほどポンコツなスタッフであるにも関わらず、わたしは奇跡的にクビにならなかった。いつも氷のように冷たい目でわたしを睨む店長の慈悲深さに感謝を覚えたが、単純に社員定着率を下げたくないという店側の魂胆だったらしい。だからわたしは周りに疎まれながらも、轟音のような音を立てて珈琲豆を焙煎するマシンと肩を並べながら仕事をするしかなかった。
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そんなある土曜日のこと。代り映えのない日々を送っていたはずのわたしの生活に、ちょっとしたハプニングが起きた。
そのときは16時を回った頃―――店が最も忙しくなるランチのピークを越え、客足が落ち着いていたため、数人のスタッフが休憩に出ているときだった。キッチン内にわたし以外の人間はおらず、店内に流れる静かなジャズミュージックに耳を傾ける余裕さえもあった。
わたしはキッチン奥の小さな丸椅子に座り、スタッフが注文を取り間違えたことで提供されずじまいになってしまったブレンドコーヒーを啜っていた。捨ててしまってもいいのだが、もったいない精神が働いてしまい、こういうものは無理をしてでもいただいてしまう。そうして冷めてもなお香りのいい珈琲を味わっていると、ホールに通じる入口から、見たこともない男の顔がひょっこりと現れた。わたしと男は数秒見つめ合ったが、彼は私服だったし、どう考えてもこの店のスタッフではない。なぜ部外者がキッチンなんかに?まさか強盗?と、持っていた珈琲カップを取り落としそうになったところで「僕の兄弟はこちらに来ましたか?」と彼が言った。
「は……?」
思わずそう言葉が漏れ出てしまうわたしに、彼は不愉快な顔をすることなくニッコリと笑ってキッチンに入ってきた。巨人だった。ちょっと跳ねてみれば、キッチンの天井に頭をぶつけてしまうだろう。わたしを見下ろす顔は不気味なほど整っており、そのオッドアイはひと際特徴的だった。
「突然申し訳ありません。僕はこちらで珈琲豆を注文していた者で、本日の13時頃に僕の兄弟が受け取らせていただく予定だったんです。ですが、待てど暮らせど兄弟が帰ってこないもので…まだこちらに商品があるのではないかと思い、伺いました」
「あ、あぁ、そういうことでしたか…ええと、あの、お名前は」
「リーチです」
「は、はい、リーチさんですね」
うちの店にわざわざ珈琲豆を買いに来る客は意外と多い。この”リーチ”という客もそうだ。毎週土曜に豆を買いにくるため、そのタイミングに合わせて朝一番に豆を焙煎するようにしている。しかし、いつもはホールスタッフが受け渡し対応をするので、わたしがこの”リーチ”という客の顔を見るのはこれが初めてだった。
”リーチ用珈琲豆”はすぐに見つかった。紙の手提げ袋に入ったまま、キッチンの奥に追いやられている。
「ありました、どうぞ」
「あぁ、よかった。ありがとうございます」
彼らには月末にまとめてお代を請求するので、店の中でお金のやり取りをすることはない。(愚図なわたしでもできる、珈琲豆を渡すだけの簡単なお仕事だ)手提げ袋を受け取った彼は腰を折ってお礼を言ったあと、こう言葉を続けた。
「あの、この店の珈琲豆はいつもあなたがブレンドされているんですか?」
ドキッとして、思いのほか刺々しい「えっ?」という声が出た。
「季節や天候に応じて、ブレンド内容を若干変えているでしょう」
「無断で……ですけど」
「素晴らしい、その目利きはあなたの才能です。いつも美味しい珈琲をありがとうございます」
突然の称賛にわたしは体が硬直してしまったが、彼はそれ以上多くを語ることなくキッチンを出て行った。この店で働きはじめてから人に褒められたのは、これが初めてだった。
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翌週の土曜も、わたしは朝から”リーチ用珈琲豆”を焙煎していた。もちろん、今回も店が設定しているブレンド内容より若干豆の配分を変えている。カウンター近くにあるスタッフ用カレンダーを見ると、今日の日付欄に”13時 リーチ様”と書いてあるので、今度こそ巨人の彼、ないしは彼の兄弟が13時に珈琲豆を受け取りに来るのだろう。
受け渡しはどうせホールスタッフが対応するというのに、その日のわたしは何度も時計を見上げてはそわそわとしていた。しかしながら、13時を過ぎても例の珈琲豆が入った手提げ袋はキッチンの奥に置かれたまま。そうしてスタッフたちが休憩に出ている16時を回った頃、「すみませぇん」という間の抜けた声がホールから聞こえてきた。
恐る恐るキッチンを出ると、カウンターの前に巨大な男がいた。彼だ。途端にわたしの心臓は大きく波打つ。
「あ、おねーさん、オレ頼んでた珈琲豆取りに来たの。リーチでぇす、遅れてごめんね」
前回会ったときとだいぶ雰囲気が違うなと思いつつも、わたしは慌てて商品を取りにキッチンに戻る。それを持って再び彼のもとに行こうと体を反転させると、わたしの真後ろに彼が立っており、思わず悲鳴を上げそうになった。
「これで豆、焙煎してんの?デケぇ〜」
彼はわたしの後ろにある焙煎機を物珍しそうに眺めたあと、首を傾けるようにしてこちらを見下ろす。そしてわたしの手からひょいと手提げ袋を取り上げ「ありがとねぇ」と言って笑った。
そのまま彼が出て行ってしまいそうだったので、「あの」と慌てて声をかける。
「こ、このあいだは、ありがとうございました」
彼は今度こそ首を傾け、不思議そうな顔でこちらを見ている。
「あの、豆のブレンドのこと、気づいてくれて嬉しかったです。それに、人に褒められたのなんて久しぶりで…」
「………」
「あ、すみません、勝手にペラペラと。いつもご贔屓いただきありがとうございます。これからも、美味しい珈琲豆をご用意するので」
お礼に頭を下げようと顎を引きかけたが、顔が動かないことに気づく。彼の長い手がこちらに伸ばされ、その手のひらがわたしの顔を掴んでいた。長い指はわたしの両頬を容赦なく押し潰し、おかげで唇はタコの口のように奇妙に歪ませられている。
「なんの話?意味わかんねーんだけど」
ついさっきまで機嫌の良さそうな笑みを浮かべていたのに、その顔には苛立ちがありありと浮かんでいた。わたしは心臓が冷えるような思いで不機嫌な彼の顔を見つめる。
「あのさ、それジェイドでしょ。あんたみたいな奴におべっか使うの、あいつぐらいしかいねーし」
わたしの顔を掴む彼の手に力が入る。このまま顔を砕かれてしまうのではないかと、冷や汗が背中を伝った。
「そっか、あんた知らねーんだっけ。オレと会ったのもこれが初めてだよね。あのね、オレとジェイドは双子なの。オレはフロイド、んで、あんたが話したのはジェイド」
それから彼はわたしに顔を近づけ、口を真横に広げるような笑みを浮かべた。小さく鋭い何本もの歯が見えた。
「……ちゃあんと覚えてよね、おねーさん」
もごもごと口を動かしたものの、言葉にならない。そんなわたしに気づき、彼はやっと手を離してくれた。
「あ、ああ、あの、あの、し、失礼、しました」
謝罪の言葉を述べながら頭を下げるも、聞こえるのは遠ざかっていく彼の足音だけ。わたしはそのまま崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。彼に掴まれた顔、押し潰された頬がジンジンとして痛かった。
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あんな仕打ちをされたのにも関わらず、わたしはこのリーチ兄弟を見分けることができなかった。当然と言えば当然だろう。わたしは常連客の顔もまともに覚えられないような人間なのだ。
ジェイドだと思って接するとフロイドで、フロイドだと思って接するとジェイドだった。ジェイドの方は「同じ顔をしてますからね、仕方ありません」と言い、わたしが見間違うことを意に介していないようだったが、フロイドの方はそう穏便には終わらない。わたしがジェイドと間違えるたび彼の機嫌は悪くなる一方で、それならもう店になんて来なければいいのに、彼はたびたびキッチンに姿を現した。
リーチ兄弟のどちらかが珈琲豆を受け取りに来る「土曜日」は、週を追うごとにわたしを憂鬱にさせた。彼らはいつの間にかわたしから直接商品を受け取るようになっており、決まってスタッフが手薄な時間帯を狙って店を訪れる。おかげで土曜の夕方が近づくと、わたしの胃は絞めつけられるような痛みを覚えるようになった。
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焙煎機の手入れをしていると、急に大きな影がわたしを覆った。振り返ると、すぐ近くに巨人が立っている。巨人越しに時計を見ると午後16時を過ぎていた。今日もリーチ兄弟の”どちらか”が来たのだ。
わたしは息を止め、ゆっくりと彼の顔を見上げる。怒られるかもしれないと思いつつも、その顔をじっくりと観察した。この双子の兄弟はどこからどこまでそっくりで、見た目だけだと容易に見分けることができない。けれど、わたしは最近やっとその”違い”に気づきはじめていた。
不機嫌に結ばれた唇。少し垂れた目元。やや猫背気味の脱力した姿勢。そうだ、今度こそ彼に違いない。
「い、いらっしゃいませ、ふ、フロイドさん」
口の中がカラカラに乾き、みっともないくらいに掠れた声だった。けれど、彼の顔が歪むことはなく、それどころかあっという間に満面の笑みがたたえられた。そして大きな手をわたしの頭の上に乗せると、ぐしゃぐしゃと乱暴に撫でまわす。脳みそが揺れそうなほど強く頭を撫でるので、肩に力を入れ、必死に頭を固定した。
「正解でぇす。やるじゃん、おねーさん」
彼は、フロイドは喜んでいる。ああ、よかった。これでもう、あの恐ろしい顔を見なくて済むんだ。そう思うと、涙が出てきそうだった。…しかし、安心するのは早かったらしい。彼は突然撫でるのをやめ、かわりにわたしの髪をぐしゃりと掴み頭を持ち上げた。
「……でもさぁ、いくらなんでも遅くね?こんだけ通って、やっと顔と名前覚えてもらうとか…オレちょー健気だし、ちょーかわいそう」
「それは、本当に…申し訳ありません」
「マジで申し訳ないと思ってんなら、オレに”お詫び”してよ」
彼はわたしの髪を掴んだ手を、自分の顔の方に近づける。わたしたちの顔は10pにも満たない距離にあり、あまりの恐怖にわたしはその吸い込まれるようなオッドアイを見つめ続けた。
「お詫びの印に、オレにチューしてよ、おねーさん」
そう言って彼はわたしの髪から手を離した。ガクリと体が崩れそうになったが、必死に体勢を立て直す。その間も彼から目を離さなかったのは、視線を逸らせば何をされるか分からないからだ。
「はやく」
彼はニヤニヤしながら、わたしを急かす。焦りと恐れで指先が冷え、心臓がバクバクと音を立てている。こんな無茶な脅しのような詫びを求められると、誰が想像しただろうか。絶体絶命とはこのことだ。
「ふ、フロイドさん、あの、お詫びは別の形で…」
「は?オレに命令すんの?」
見慣れた不機嫌な顔が姿を現し、わたしは口をつぐんだ。怖い。でも、従わないのはもっと怖い。口の中は乾ききっているのに、わたしは必死に唾を飲み下そうとした。そんな憐れなわたしの姿を見て、彼は「あはっ」と笑い声を上げた。
―――そのときだった。
「戻りました」「おかえりなさい」という数名のスタッフのやり取りが聞こえた。休憩に行っていたスタッフたちが帰ってきたのだ。
助かった、そう思ってしまった。……だが、それがまずかったらしい。安堵の表情を見せたわたしに、彼は見るからに苛ついた様子で舌打ちをする。それからわたしのシャツの襟を掴み、強く持ち上げた。つまりこれは胸倉を掴まれているということだ。つま先立ちになってしまうほどの物凄い力に気を取られていると、鼻先に鋭い痛みが走る。視線を前に戻すと、彼の顔がゆっくりと離れていくところだった。
「次会ったときに、ちゃんとお詫びしてよねぇ」
彼が長い舌で自分の歯列をなぞるその行為を見て、わたしは彼に鼻を”噛まれた”のだとやっと理解した。なんなんだこの人は。鼻先を触りながら後ずさる。すると彼は一際大きな笑い声を上げ、鼻歌を歌いながらキッチンを出て行った。その場には呆然とするわたしと、鼻先のわずかな痛みと、次に彼と会う土曜の憂鬱だけが残された。
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