紙飛行機(前編)

フロイドと別れた後のことを、ナマエはよく覚えていなかった。ただ疲れて、怠くて、フロイドに噛まれた場所が痛くて―――そのときのことを思い出すと、体中がぞわぞわし、一種恐ろしい気持ちになる。そんな混沌とした気持ちで森の出口に向かっていると、誰かが自分の名を呼びながらこちらに向かってくるのが見えた。2人のクラスメイトとオンボロ寮の相棒、そのいつものメンバーと相まみえた途端、ナマエの瞳から熱い涙が零れ落ちる。泣くつもりは全然なかった。なぜ泣かなきゃいけないのかも分からなかった。ただ、あまりに気持ちがぐちゃぐちゃだった。

エースとデュース、そしてグリムはギョッとしてナマエに駆け寄る。彼らは、いつまで経ってもクルーウェルのお使いから帰ってこない彼女を心配し、森まで探しにやって来たのだ。探し人は見つけたものの、その姿は土にまみれてボロボロ。おまけに涙も流しているものだから、2人と1匹が動揺しないわけがない。

「ど、どうしたんだゾ、子分!変なキノコでも食べて、腹が痛いのか?!」
グリムが慌てたようにナマエの肩に乗る。すると彼は違和感を覚え、すんっと鼻を鳴らした。鼻をひくつかせながらその匂いをたどると、そこには彼女のやや赤みを帯びたうなじがある。くっきりと何者かの”歯形”がついた、うなじが。グリムは思わず総毛立つ。

「お、おい!ナマエ、これ……噛まれたのか?!まさか、この森にモンスターが……?!」
グリムの怯え切った様子に、ナマエは慌てて首元を隠そうとする。が、その前にクラスメイトたちに問題の”痕”を見られてしまった。彼らも同様に驚きと恐れの混じった声を上げる。
「ごめん、これ、何でもないから」
「いやいやいや、何でもないわけないでしょ!もしかして本当にモンスターに襲われたわけ?それにしちゃあ、人間の歯列みたいな形だったけど…」
「そんなことより、今は早く監督生を保健室に連れていこう。そろそろ完全に日が暮れてしまうぞ」
こうしてナマエは保健室に連れられそうになったが、今回のことを大ごとにしたくなかったため、とにかく寮に帰らせてくれと仲間に頼んだ。


オンボロ寮で着替えを済ませたナマエは、談話室に戻る。しばらくの間は、仲間たちと一緒にエースの淹れた温かい紅茶を啜っていた。
「なぁ、ナマエ。これは僕の想像なんだが…」
ティーカップをティーソーサーに置いたデュースがおもむろに口を開く。
「その首の痕。もしかして、リーチ先輩に噛まれたんじゃないか?」
オレもそう思った…とエースが呟く。グリムはピッタリとナマエに体を寄せたまま黙っていた。

大切な友人たちには隠し事はしたくないと思い、ナマエは小さく頷く。息を呑むような沈黙が広がった。やがて、その沈黙を破るように口を開いたのはエースだった。
「あのさ、念のための確認なんだけど……フロイド先輩とナマエって、そーいう関係…」
「じゃない」
「…ですよねぇ」
エースが盛大な溜息をつき、デュースの眉間に深く皺が刻まれる。

「…じゃあ、恋人でもねぇのにナマエの首を噛んだってわけか」
「デュースくん、まあまあ、落ち着いて」
「ダチが傷つけられてんのに、黙ってられるわけねぇだろ!!」
「……おー怖っ」
首をすくめたエースがそのままナマエに視線を寄こす。
「そういやナマエ、前からフロイド先輩に絡まれてる、みたいなこと言ってたよな。なんつーか、こういうことってよくあったわけ?痕をつけられる、みたいな…」
エースの問いに対し、ナマエは以前も腰にひっかき傷をつけられたこと、またフロイドが”印”にこだわっていることなどを説明した。分かりやすいくらいにエースが苦い顔つきになる。

「こりゃまた、厄介な人に好かれちゃったな、ナマエ。あの人、独占欲丸出しじゃん」
ナマエは口の中で”独占欲”という言葉を反芻した。相手を自分だけのものにしたい、自分だけ特別でいたい、そういう欲求は友情・愛情関係なく発生するものだと聞く。フロイドが何かしらの感情を持って自分を独占したいと考えているのだとしたら、こうして”印”をつけられてしまうのも頷ける気がした。
しかし、それに納得していない人物もいた。

「……んなもん、関係ねぇだろ」
膝の上で両手を組み、これでもかというほど眉根を寄せたデュースは怒りが爆発する寸前だった。
「どんだけ相手を独占したいと思っても、やっていいことと悪いことがあんだろ。そうやって”印”にこだわるのは独りよがりだ、友情も愛情もはき違えてる。一方的に独占することが相手を傷つけるんだって分かんねぇなら、俺が思い知らせてやんよ!!」
「おーい、デュースくーん!戻って来ーい」
一人盛り上がりを見せるデュースをエースが止める中、始終沈黙を貫き通していたグリムがやっと顔を上げた。不貞腐れたような膨れっ面をしている。

「…オレ様もデュースの意見に同意するんだゾ」
「はぁ?!オマエまでなに言ってんだよ!」
「オレ様だって、子分を傷つけられて泣き寝入りするなんて嫌なんだゾ!」
何だかややこしいことになってきた、とエースとナマエはこっそり目を合わせた。ナマエは努めて明るい声で割って入る。
「心配させてごめんね、わたしは全然大丈夫だから。フロイド先輩もほら、ちょっとふざけてたっていうか…」
「いいや、無理しなくていいんだナマエ。僕たちはお前の味方だ」
「そうだゾ!そっくり兄弟の仇は、オレたちがとってやるからな!」
今やデュースとグリムはすっかりやる気になっている。1人と1匹は強く拳を握ると、同時に立ち上がった。

「よし!今からオクタヴィネルにカチ込むぞ!!」
「おう!そうするんだゾ!ほら、エースも行くんだゾ!!」
「はぁ〜〜?!ちょっと待ってよ、オレそーいうのマジで無理なん………」

―――そのとき、オンボロ寮への来客を知らせるブザーが鳴った。その場の誰もが驚いて口をつぐむ。玄関に向かおうとするナマエを、デュースが手で制した。
「僕が行く」
デュースは口を引き結ぶと、背筋を伸ばし玄関へ向かった。

細く開けたドアから客人を確認すると、デュースは大きく目を見開く。それから相手と二言三言、言葉を交わすと、一度ドアを閉め談話室に戻った。


「監督生」
デュースはやや緊張した面持ちでナマエを呼ぶ。その緊張がナマエにも伝播し、無意識に唾を飲み込んだ。
「今、オクタヴィネルの……」
デュースは一瞬そこで言葉を切ったが、覚悟を決めたようにその先を続けた。
「オクタヴィネルの、アーシェングロット先輩と、リーチ先輩たちが来ているんだ。どうする?」


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