夜のすべては本当のこと

お手洗いを済ませて廊下に戻ると、微かに誰かの声が聞こえた。耳を澄ますと、その声は廊下の奥から聞こえてくる。気になって廊下を進むと、その声が何を話しているのかも徐々に鮮明になってくる。

「だから……だって!……だよ。そう…………うん、ごめん。…え?……なの?……いや、だって……」
聞き覚えのある声が、途切れ途切れに聞こえる。そうしてわたしは、ようやく廊下の終点までたどり着く。そこには大きな窓があり、窓の向こう側はちょっとしたテラスになっているようだった。

そのテラスでは、ぼんやりとした間接照明の下、一人の男性がスマホを耳に当てて電話している。窓が半分ほど空いているせいで、こちらにまで声が漏れていたようだ。
「あー……オッケー、じゃあもう別れよ。今までありがとね」
男性は感情のこもっていない声でそう告げたが、次の瞬間には「じゃあね、お疲れ〜」と場違いな明るい挨拶を付け足す。すると電話の相手は明らかに逆上したようで、甲高い喚き声がスマホから溢れた。しかし、そんなことなど気にせず、男性はスマホの画面をタップする。瞬時に喚き声が姿を消した。

そんな光景を無遠慮に眺めていたわたしは、まさか相手がこちらを振り向くとは思っておらず、大きな溜息をつきながら体を反転させたその男性とばっちり目が合ってしまったのだ。
「……えっ?!か、監督生ちゃん…?!」
そう声を上げた男性はわたしのよく知る人物―――ケイト先輩だった。
「あ、ええっと……こんばんは」
わたしは努めて自然に挨拶をしたつもりだったが、口元は間抜けなくらいに引きつっていた。ケイト先輩の見られたくないであろう姿を、こっそりと盗み見るような真似をしたことが、気まずくて仕方なかったからだ。

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ケイト先輩は廊下に戻ることを辞めたようで、かわりにわたしを手招きした。わたしは恐る恐るテラスに出てみる。空気は澄んでおり、辺りはとても静かだ。頭上には点々と星が輝いている。
「えーっと、どうして君がここに……?」
ケイト先輩は無理矢理に笑みを浮かべながら尋ねた。
「エースとデュースとグリムで映画を観ていたんです。あの、明日は土曜日で学校がないから、夜に集まってみんなで映画を観ようって、ホラー映画を観まくろうって、前から約束をしてて…」
「ああ、そーいうことね。それでうちの寮に来てたんだ」
「はい」
2人の間に数秒の沈黙が流れる。
「……で、オレが電話で修羅場ってるのを見つけちゃったわけだ」
「…すみません」
「いや!別に責めてるわけじゃないんだけど…!ただその…格好悪いところを見られちゃって、さすがのけーくんも恥ずかしいっていうか……」
あははっと乾いた笑い声を上げるケイト先輩に、ますます申し訳なくなる。

「ま、さっきのやり取りを聞いてたら分かると思うんだけど、オレ彼女と別れちゃってさ」
「…はい」
「なんていうか、オレってほんと上手くいかないんだよねー。こーいうの」
それからわたしの方に顔を向けたケイト先輩は「ねぇ」と続ける。
「オレと彼女、付き合ってどれくらいだったと思う?」
「えっ?うーん…半年?いや、1年……とか?」
「ぶっぶー、ハズレ!正解は……”2ヶ月”」
「2ヶ月?」
「そ、2ヶ月。まぁ、オレにしては続いた方かな〜。ちなみに一番短くて3日だから、彼女と続いたの」
再び笑い声を上げるケイト先輩は少し自棄になっているようで、いつもの先輩らしくなかった。

「今回もさ、くだらない喧嘩の末に…って感じなんだけど。そうなるとオレ、どうでもよくなっちゃうんだよね、彼女のこととか。だからお互いのためだと思って別れようって言うとさ、そうじゃない!って相手にもっと怒られちゃうの。冷たいだの、思いやりがないだのって……じゃあけーくんはどうすればいいわけ?」
なんと答えていいか分からず、必死に最適な言葉を探していると、「って、こんなこと監督生ちゃんに聞いたってしょうがないか!」とケイト先輩は笑った。


「映画、面白かった?」
いつの間に取り出していたのか、ケイト先輩は手に持ったスマホを操作しながら尋ねる。
「あ、はい。わりと昔に流行ったホラー映画を観てるんですけど、デュースとグリムの反応がいちいち面白くて」
「あははっ!たしかに、デュースちゃんとグリちゃんは大げさな反応しそう〜」
それから彼は画面をタップしていた手を止め、再びこちらを見た。

「ねぇ…ナマエちゃんってさ、うちの学校の生徒と付き合ったりとか、そういうの考えたことないの?」
「え?そうですね、誰もそんな風に意識したことはないというか……」
「ふーん。じゃあ、好きな人もいない感じ?」
「ええ、まあ……」
わたしがそう答えるや否や、ケイト先輩は黙ってわたしの肩に手を伸ばした。そして、ゆっくりと自分の方に引き寄せる。
「実はけーくん、今フリーになったばっかりなんだけど〜…」
どうかな?と、わざとらしいくらいに低い声で囁かれる。しかし、わたしの鼓動の速さはびっくりするくらい変化がなかった。

「あれっ?もしかして、全然効いてない?」
わたしに反応がないからか、ケイト先輩はおどけた調子で肩から手を離した。彼の言動の何もかもに違和感があり、気づいたときには彼の名前を呼んでいた。
「ケイト先輩」
「ん?」
「どうしてそんな…したくもないことをするんですか?」
「……へ?」
「本当は別に、わたしを口説きたかったわけじゃないんでしょう?その…彼女さんとも、付き合いたくは、なかったんじゃないですか。はじめから」
ケイト先輩は目を大きく見開き、身じろぎもせずこちらを見つめている。
「したくないことは、しなくていいですよ。そんなケイト先輩に誰もガッカリしませんし、嫌いにもなりません」
だから、と言葉を続けようとしたが、それは失敗に終わる。
わたしの腕を引っ張ったケイト先輩が、その勢いのままわたしの口を塞いだからだ。ただ唇を押しつけ合うみたいなキスにはロマンチックさのかけらもなく、雰囲気のあるテラスというロケーションと大変不釣り合いだった。

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この金曜の夜に起きたテラスでの出来事を機に、わたしに特別変化が訪れるようなことはなかった。あのあと、わたしは普通にエースとデュースの部屋に戻って映画を観たし、その翌週もいつも通りみんなと授業を受けた。そして、そんな日常生活の中でケイト先輩と遭遇することはほとんどなかった。

もし彼に遭遇したとしても、わたしは少しも取り乱さなかったと思う。なぜなら、わたしはあのときのことをただの”事故”だと思っていたからだ。そもそも、自棄になっていた彼に余計なことを言ってしまったのはわたしだ。痛いところを突かれたケイト先輩は頭に血がのぼり、思わずあんな行動を取ってしまったのだろう。わたしをちょっとびっくりさせてやろうっていう、そういう気持ちもあったかもしれない。だからわたしは彼を責めるつもりはないし、お互い気に病む必要もないと思っていた。

しかしそんな考えに反して、あの出来事からちょうど1週間が経った金曜日に、わたしはケイト先輩に呼び出されることになる。


日がやや傾きはじめた夕暮れどきに、わたしは待ち合わせ場所である中庭を訪れた。ケイト先輩の授業の関係でこの時間と場所を指定されたのだ。近くのベンチに座りながらオレンジ色を濃くしていく空を見上げていると、件の相手が小走りでやって来た。
「お待たせ!ちょっと授業が長引いちゃって、ごめんね」
「いえ、気にしないでください」
それから彼は手に持っている教科書や実験着を抱えたまま、わたしの隣に座る。
「えと……今日はその、かんとく……ナマエちゃんに、お伝えしたいことがありまして…」
「はい、なんです?」
ケイト先輩はひとつ唾を飲み込むと、わたしの方に体を向け、深く頭を下げた。

「先週、いきなりキスしちゃってごめんなさい!!」
ああ、そのことか、とちょっとだけ拍子抜けてしまった。1週間も前のことだし、わたしの中ではすでに過去の出来事となっている。
「そのことでしたら、全然お気になさらず。わたしもまったく気にしていないので」
「えっ?うそ、逆に気にしてくれてないの…?!」
「え?」
「え?!」
わたしとケイト先輩は互いに、意味が分からない、という顔で見つめ合う。

「ケイト先輩はあのこと…気にしてて、ほしかったんですか?」
「あったりまえでしょ!?あのタイミングでしたのは、正直悪かったなって思うけどさ…でも、まったく気にしてないっていうのは、逆にショックなんだけど…」
「だ、だって、あのときケイト先輩は怒っていたんでしょう?それで、つい勢いで…」
「怒ってた?オレが?!いやいやいや、そんなわけないじゃん!たとえ怒ってたとしても、その勢いでキスなんかしないよ!!あのときオレは、純粋に君がいいなって………!!」
そこまで言ってから、ケイト先輩は慌てたように口をつぐんだ。そして小さく溜息をつき「思ったよりめちゃくちゃな展開になっちゃった…」と拗ねたような顔で呟く。

「あの、信じてもらえないかもしれないけど…オレね、あのとき、めちゃくちゃキュンとしちゃったんだ」
「あのとき?」
「ナマエちゃん、”したくないことは、しなくていい”って言ってくれたでしょ。あのときね、ああ、この子はオレのことちゃんと見てくれてるんだって、嬉しくなっちゃって…それでつい、」
「キスを……?」
「……っあああぁ〜〜〜どうしよう、オレめちゃくちゃ格好悪いじゃん!!勝手に盛り上がって、一人で突っ走って…オレほんとダサすぎ……」
こんなに感情を表に出す”素”のケイト先輩を見るのを新鮮だと思う反面、わたしは自分がとんでもない事実を突きつけられていることにやっと気づいた。

「え?あ……そういうこと、ですか」
わたしが一人納得していると、ケイト先輩が信じられないという顔でこちらを見る。
「待って待って、今気づいた感じ?それワザとじゃないよね?ナマエちゃんが鈍すぎて、いい加減泣きそうなんだけど」
「ご、ごめんなさい。今気づきました。ケイト先輩、わたしのことが好……」
「あーー!!そこまで口に出してくれなくていいから!!」
ケイト先輩はその柔らかい髪を片手でくしゃりと握ると、恨めし気な顔をこちらに向ける。
「…オレにこれだけ恥ずかしい思いをさせたんだからさ、ちゃんと責任取ってよね」
「と、言いますと…」
「けーくんとのキス、ちゃんと気にしてよ。で、オレのこと意識してよ」
「えぇ、そ、そんな…」
「あーーもういい、今ここで意識させてあげる」
わたしの返事も待たずにケイト先輩の顔が近づく。咄嗟に顔を逸らそうとしたものの、シャツの襟首を掴まれてしまい逃げ場を失った。

唇の柔らかさがリアルに感じられるほど、優しいキスだった。その繊細な行為が恥ずかしくて体中が熱くなる。
「どう?オレのキス、いい感じだった?」
エメラルドグリーンの瞳が楽し気にわたしを見つめている。一瞬のうちに形勢逆転となり、強引にケイト先輩のペースに引き込まれていた。
「嫌じゃなければさ、もっと…しない?」
しない、と答えたいのに、答える前に再び唇が重なった。1週間前は何も感じなかった彼のキスに、びっくりするくらいの速さで心臓が反応を示していた。

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※こちらは夢企画サイト「Bianca様」へ提出した作品になります。


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