視線の温度

ルーク先輩がわたしを見る目は、ひどく冷たい。そう気づいたのは、いつからだったろうか。
この世のあらゆるものに美点を見出すことを得意としているルーク先輩は、どんな人やモノに対しても敬意と愛情を込めた賞賛の言葉を送る。しかし、例外もある。それがわたしだ。わたしが視界に入った瞬間、ルーク先輩からは幸福に満ち溢れた表情が一切失われる。冷たいエメラルドグリーンの瞳に小さな光が灯り、唇は一文字に結ばれる。今やそんな冷たい目にも慣れてしまったのだけど。

別に不満を覚えているわけではない。ただ”違和感”を感じるだけ、少しの”疑問”を覚えるだけ。わたしのことが嫌いなら、それでいい。でも、一体どこが嫌いなのか…ちょっとだけ知りたかった。しかし、そんな疑問を本人に投げつけられるわけがないから、わたしは今日も冷ややかなルーク先輩の視線を背中に感じるだけだ。

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その日、わたしは両手いっぱいの教材を持って廊下を走っていた。こんな姿、教員やどこぞの寮長に見つかれば、たちまち叱られるに決まっているのだけど、そんなことを気にしている暇はなかった。なぜなら、わたしは破ってはいけない約束を破りかけていたからだ。

その約束とは―――モストロ・ラウンジでのアルバイト、である。
きっかけは、わたしが魔法薬学の実験でアズール先輩のネクタイを汚してしまったことだった。実験服に守られていなかった制服のネクタイ部分にべっとりと緑のシミがついてしまったとき、わたしはどんなに震えあがったことだろうか。そしてこの失敗の代償として、わたしは3日間モストロ・ラウンジでバイトをするようにと命じられた。
なぜ3日間なのか?モストロ・ラウンジでは、わたしがネクタイを汚してしまった日の翌日から3日間、期間限定メニューを出す予定だったそうなのだ。だからいつもより客足の増加が見込まれるとのことで、人員を増やすのにもってこいのタイミングだったのである。当然、わたしはこの代償を受け入れた。アズール先輩に借りを作って、ろくなことがないことは重々承知しているからだ。

しかしそのバイト初日に、今まさに、遅刻しそうなのである。
理由は、エースやデュースと受けていた補習授業が思いのほか長引いてしまったからだ。そもそもなぜ補習授業なんかに…という背景は、割愛させてもらう。(トラブルメーカーのクラスメイトたちに付き合わされた、とだけ言っておこう)
だからわたしは、こうしてモストロ・ラウンジに全力ダッシュで向かう羽目になった。もう最悪だ。普段運動なんてしないものだから足はもつれそうだし、両手から滑り落ちそうな教材たちを抱きかかえるのにも必死だしで、わたしは周りをよく見ずに走り続けていた。


―――だから案の定、廊下の角を曲がってきた人物と盛大に衝突してしまった。
教科書やプリントがフラワーシャワーのように舞う中、「キミ、大丈夫かい!?」という声を聞いた。みっともなく尻餅をつきながら、その声がした方を見上げると、こちらに手を差し出している一人の人物がいる。
「あ、ルーク先輩……」
わたしが呟くと、相手は目を丸くして表情を強張らせた。ついでに体も固まってしまったようで、差し出された手も石像のように微動だにしない。わたしはその手を取らない方がいいだろうと瞬時に判断し、とりあえず散らばった教材たちを集めることにした。

わたしが床に膝をついてプリントなどを集めていると、ルーク先輩も黙ってそれを手伝いはじめた。ありがたいことではあるけれど、気まずくてたまらない。だって、例のあの”冷たい視線”が時折わたしを射るからだ。嫌なら早く立ち去ってくれて構わないし、怒鳴り散らしてくれれば、それもすべて受け止める心づもりだった。
「はい」
小さく落ち着いた声でそう呟き、ルーク先輩が綺麗に揃えたプリントをわたしに手渡してくれる。
「ありがとうございます」
それを受け取ったあと、さりげなく彼の表情を盗み見た。やはりルーク先輩は無表情で、冷たい瞳と強く結ばれた唇がそこにあった。

「あの、しっかりと周りを確認せずに廊下を走っていて、強くぶつかって、本当にごめんなさい」
わたしは教科書やプリントを抱きしめたまま、ルーク先輩に深く頭を下げた。自分を快く思っていない相手に謝罪することほど居心地の悪い行為はないが、100%わたしが悪いので誠心誠意謝罪する。
「いや、キミに怪我がないのであれば、構わないよ」
返ってきた言葉は優しいが、やはりその声に感情はない。それからわたしたちの間に、妙な沈黙が流れた。

そのとき、ルーク先輩の後ろから「あら」という声がした。
「これはまた、妙な組み合わせね。あんたたち、こんなところで睨み合ってどうしたの?」
彼の後ろから顔を覗かせたのは、ポムフィオーレの寮長・ヴィル先輩だった。
「あ、あの、わたしが周りをよく確認せず廊下を走っていたもので、ルーク先輩とぶつかってしまって……」
わたしが慌てて弁解すると、ヴィル先輩は「ふぅん。よかったじゃない、ルーク」と斜め上の返答をルーク先輩に送る。するとルーク先輩は明らかに動揺したようで「ヴィル!き、キミは何を…」と返した。
「だってそうじゃない?アンタ、普段はこの新ジャガに話しかけることもできないでしょ。それが新ジャガの方から来てくれるんだから…」
ヴィル先輩はそこまで言って、わたしたちの顔を見比べた。そしてルーク先輩に顔を戻すと、彼の頬をツンと人差し指で突く。

「…あのねぇルーク。そういう顔するの、やめなさい。緊張するのは分かるけれど、そんな難しい顔をしてると、いつまで経ってもこの子と仲良くなれないわよ」
それからヴィル先輩はわたしの方に顔を向けると、にこりと美しい笑顔を見せた。
「ルークってこんな男だけど、根はいい奴よ。じゃあ、あとはよろしく頼むわね」
言うだけ言って、ヴィル先輩は颯爽とその場を去っていった。そして残されたわたしたちには、以前と比べ物にならないくらい気まずい沈黙が生まれる。


「………ナマエ、くん」
先に口を開いたのはルーク先輩だった。わたしは飛び上がりそうなほど驚き、「はい」と上ずった声を上げてしまう。
「……恥ずかしながら、ヴィルの言っていたことは真実なんだ」
「は、はぁ」
「そして私は、その……キミに対して、そんなに難しい顔をしていたんだろうか?」
今、ルーク先輩はわたしが初めて見る表情を浮かべていた。彼の両頬は赤く(ポムフィオーレ風に言うと薔薇色)染まり、その形のいい両眉を困ったように下げ、心底恥ずかしそうにこちらを伺っている。そう、彼は今”照れている”のだ。

「…ええ、その、ルーク先輩はわたしのことが嫌いなんだと、思っていました…ずっと」
「……オーララ」
ルーク先輩のこんなにも弱々しい”オーララ”を、わたしは未だかつて聞いたことがない。彼は両手で顔を覆い、まさに『絶望』といった様子を呈していた。
「違うんだ、ナマエくん。私は…私は、キミのことで頭がいっぱいで……だからキミを前にすると、感情のコントロールが上手くできなくて、だから……」
「だからいつも、あんなに冷たい目でわたしを見ていた、ということですね?」
「ウィ……その通りさ」
わたしの知らないルーク先輩がそこにいた。いつも飄々と周りを誉めそやし、笑顔を振りまく彼だったが、意中(と自分で言うのもなんだが)の人物を前にすると、そんな笑顔ひとつ浮かべられないほど緊張してしまう。そんな不器用な一面を持つ人物だったのだ。

「ああ……許しておくれ、ナマエくん!これまでキミに不愉快な思いをさせていたこと、恐ろしい表情でキミを見ていたことを…!!」
「い、いえ、そんな、わたしはまったく気にしていませんから」
「…なんて心の美しい人なんだ、キミは……」
そのとき、このわたしたちの間に流れる妙な空気を切り裂くように大きなチャイムが鳴った。そのチャイムは、わたしが重要な『約束』に遅刻したこと――つまり”モストロ・ラウンジのバイトに初日から遅刻したこと”を思い知らせた。…なぜなら、このチャイムが鳴る前にモストロ・ラウンジに着いていなきゃいけなかったからだ。

「ルーク先輩、ごめんなさい!わたしモストロ・ラウンジに行かなきゃ!!」
「オーララ!引き留めて悪かったよ、トリックスター!」
「はい、ではまた今度!」
そう言って廊下の先を再び走り出そうとしたところで、左腕を強く掴まれた。驚いて振り返ると、ルーク先輩の顔がすぐ近くにある。
「それじゃあ、また……愛しのナマエくん」
彼はそう囁くと、形の良い唇を緩やかに上げ、わたしにウィンクを投げた。体に電気が走るような感覚がして、あっという間に顔に熱が集まるのを感じる。そんな彼の手を緩く振りほどくと、わたしは廊下を駆け出した。

背中にルーク先輩の視線を感じる。けれど、それは以前のような冷たいものではなく、むしろ今度は痛すぎるほどの”熱”をはらんでいた。ヴィル先輩のおかげであの冷たい目からは解放されたものの、明日からは今まで以上にややこしいことになりそうだな…そう頭の片隅で考えながら、わたしはモストロ・ラウンジに向かって必死に足を動かした。


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