熟れる

一目見たときから分かっていた。あの人とわたしは月とスッポンで、水と油で、相容れない関係なんだって。わたしは美しすぎるあの人が苦手、あの人はあか抜けないわたしのことが嫌いだ。そんなお互いの関係を分かりきっているだろうに、あの人はことあるごとにわたしを捕まえて、いろんな理由をつけて説教をした。それが彼の趣味なのだろうか?悪趣味だなぁと軽い頭痛を覚えながら苦笑いを浮かべる。そうやってヘラヘラしていると、やがて彼は「こいつには何を言っても無駄だ」という風に溜息をついてわたしを解放してくれる。何度目かの説教で、この法則を見つけたのだ。


そしてこの日も、あの人はわたしを見つけてつかつかとこちらにやってきた。ヴィル・シェーンハイトーーーその人は、美しい眉を中央に寄せ、優雅に腕を組むとわたしを見下ろす。
「こんにちは、ヴィル先輩」
わたしはキリキリと痛む胃痛に耐えながら挨拶をする。
「アンタ、その顔やめなさい」
「……顔?」
「その苦虫を噛み潰したような顔のことよ。アタシと話すのがそんなに嫌?」
「いえ、そういうわけでは……」
話すのが嫌なのは、むしろあなたの方でしょう。嫌なのに、どうして話しかけるんですか。湯水のように湧き出る疑問は腹の底に押し込める。
「それにしても今日のアンタ、顔色が優れないわね。体調が悪いの?」
「いえ、その……」
伺うようにわたしの瞳を覗くヴィル先輩のまつ毛は長く、ふわりと漂うコロンは彼のように凛とした香りだった。

突然彼は、長い指でわたしのこめかみ辺りに触れる。突然の出来事にわたしは大げさなくらいビクついてしまい、ヴィル先輩は不愉快そうにまた眉をしかめた。
「汗ばんでるわ、熱でもあるんじゃ……」
「だい、大丈夫です、から」
わたしはそうっと後ずさりするも、その分だけヴィル先輩は距離を詰めてくる。
「アンタ、やっぱりおかしいわ。保健室に行きましょう」
「ごめんなさい、わたしは本当に、大丈夫ですから」
「なにを謝ってるの?アタシはアンタの体が……」
突然刺すような胃痛に襲われ、膝から崩れ落ちる。頭から地面にダイブしなかったのは、ヴィル先輩がわたしの体を支えてくれたからだろう。

「ちょっと!全然大丈夫じゃないじゃない!」
額から一筋の冷や汗が垂れるのを感じるも、拭う気力は少しもなかった。口の端から情けない呻き声が漏れ、手の平で必死にみぞおちあたりを押さえる。息をするのも苦しく、目がチカチカとした。
そんな中、突然ふわりとした浮遊感を覚える。コロンの香りが強くなった。薄く目を開けると、柔らかなラベンダー色の毛先が揺れている。
「少しだけ我慢して、すぐに着くから」
わたしを見下ろす心配そうな瞳が、無理に微笑むように細められる。通り過ぎていく喧騒と体に感じる振動から、自分がヴィル先輩に抱えられているのだと察した。絶え間なく胃を攻撃する痛みに、彼の腕の中で胎児のように縮こまったわたしは、朦朧とする頭で「ヴィル先輩は力持ちだなぁ」なんて馬鹿なことを考えていた。

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口いっぱいに甘さを感じた。口内に何かを注がれているようだ。しかし、不思議と不快さはない。むしろ体がじわじわと温かくなって、体の底に残っていた痛みや不快さが解消されていくようだ。

誰か……複数の人間がそばで喋っている。何を話しているのかは分からないが、その会話の中で「ストレス」とか「鎮痛」とか、いくつかの単語を聞きとることができた。ただ意識は鈍くふやけているような状態で、寝ているのか起きているのかも分からなかった。

やがて話し声がなくなった。しかし人の気配はしており、また右手にほのかな熱を感じる。誰かがわたしの手を握っているようだ。相手の手はわたしよりも随分大きいようで、少し湿っている。

ギシ、と音が鳴った。体がちょっと揺れたような感じもする。まるで誰かがわたしのいる場所に乗り上がってきたみたいだ。それから、いい匂いがした。この香り、覚えがある。でも、思い出せそうで思い出せない。そんなもどかしい状態に微かな苛立ちを覚えたところで、”柔らかさ”を感じた。

柔らかさを感じた場所は、わたしの唇だ。しっとりとした何かがくっつき、そして離れた。それは一瞬のことで、この感覚は何かの間違いだったのではと思ったくらいだった。しかし、2回目の柔らかさを覚えたとき、それは確信に変わった。
―――誰かがわたしの唇に、何かを押し当てている、と。

気づけば先ほどよりも強く手を握られている。鈍い頭とはいえ、何かしらの異常事態が発生していると理解し、わずかな焦りを覚えはじめる。体よ動け、目よ開けと必死に命令をする。その一方で、まだ寝ていたい、というような甘いまどろみが寄り添ってくる。

ギシ、ともう一度軋む音がした。わたしは急に怖くなる。動け動け、開け開け、叫びたいほど強く命令した。すると、突然右手から熱が消えた。同時に瞼がゆっくりと持ち上がる。瞼の隙間から、わたしの上から何かが身を引くシルエットを確認できたような気がした。


数回瞬きを繰り返すと、段々と視界がクリアになってくる。
「よかった、気づいたのね」
声がした方に顔を動かすと、そこには美しいあの人がいた。膝の上で優雅に指を組んでいるヴィル先輩はいつもの澄まし顔だったが、その手元だけは落ち着きがなく、無意識なのか何度か指を組み替えていた。
「あの、わたし……」
「アタシが保健室に連れてきたの。さっき薬を飲ませたから、ちょっとは気分がよくなったかしら?このまま安静にしていればいいみたい」
「それは、その…ご迷惑をおかけして、すみません」
「いいのよ、アンタが謝る必要なんてない」
そう言ってヴィル先輩は優しく微笑んだものの、すぐにわたしから目を逸らした。やはり様子がおかしい。そしてこれも無意識なのだろうが、彼は少しだけ顔を俯けると人差し指で自身の唇に触れた。その瞬間、わたしは浮かび上がった疑問を口にせずにいられなくなった。


「もしかして、キス、しましたか?」


ヴィル先輩は自分の唇に触れたまま固まった。彼の額から血の気が引いているようにも見える。そしてわたしも、なんて馬鹿な質問をしてしまったんだ、と激しく後悔した。仮に彼がキスをしたんだとしても、こんなにストレートに質問をしていいはずがない。それも、このヴィル・シェーンハイトという男に対してなら、なおさらだ。

ヴィル先輩は静かに片手で顔を覆った。それを見て、いくつもの謝罪の言葉を頭に思い浮かべる。失礼なことを言ってごめんなさい、思い上がってごめんなさい、馬鹿なことを言ってごめんなさい……どの言葉から伝えようかと迷っていると、ヴィル先輩の口から信じられない言葉が零れ出た。
「……ごめんなさい」
その声は弱々しく震えており、これまで一度も聞いたことのない声色だった。わたしは口を半開きにした間抜けな顔で、彼の表情を伺う。やがて彼は顔を覆っていた手をゆっくりと下げた。そこには林檎のように頬を染め上げ、泣き出しそうな表情をしたヴィル先輩がいた。

「…アタシったら、本当に最低ね。そもそもアンタをここまで追い詰めたのもアタシ、毎日突きまわしてストレスを与え続けた張本人だって言うのに……ベッドで眠るアンタを見たら……もう二度と目を覚まさないんじゃないかっていう不安と、それでもアンタを愛しいと思ってしまう恋情で、もう、我慢できなくて……」
わたしは思考がショートしてしまったみたいに、悔しそうに歪むヴィル先輩の顔から目が離せなかった。だって、これまでわたしが抱いていた考えと辻褄が合っていないのだ。不安?恋情?なぜそんな言葉がヴィル先輩から出る…?

「あ、アタシが、くだらないプライドを持たずに、も、もっと素直に気持ちを、表していたら…こんなことには……っ」
みるみるうちにヴィル先輩の瞳に涙が溜まる。わたしは慌てて制服のポケットを探った。皺のついたハンカチが出てくる。
「あの……」
拒否されるかもしれないと思いつつ、そのみすぼらしいハンカチを手渡すと、ヴィル先輩は驚いたようにわたしの顔を見つめた後、恥ずかしそうにそれを受け取った。そしてそのハンカチで目の端を拭ったあと、きゅっと口を引き結び深呼吸をした。
「こんな言葉だけで許されることじゃないって分かってる。でも、謝らせてほしいの。アンタを傷つけて、それでいて勝手に唇を奪って、ごめんなさい」
そう言って彼はわたしに深く頭を下げる。まさか、ヴィル先輩に謝られる日が来るだなんて思っていなかったわたしは、いよいよ頭が混乱してしまった。


「す、すみません、ヴィル先輩。わたし、ちょっと、なにがなんだか……」
「……アンタらしいわね。じゃあ、はっきりと言うわ」
「え?」
「ナマエ、アタシはアンタが好きよ。狂おしいくらいに好き。…そう、寝ているアンタの唇を二度も奪うほどにね」
「………」
「これまでのこと、今回のこと、許してくれとは言わないわ。だけど、挽回するチャンスはほしいの。今度はもっと大切に、丁寧に、アンタを愛してみせる」
わたしは慌てて自分の左胸に手を当てた。心臓が飛び出てしまわないか不安だったからだ。澄んだ瞳で、それでいて射るような力強い瞳でわたしを見つめながら、愛の言葉を口にするヴィル先輩の渾身の告白は、あまりに刺激が強すぎた。

「あら…どうしたの?」
ハイスピードな脈拍速度を更新し続けるわたしに気づいたヴィル先輩が、すうっと目を細める。口元には不敵な笑みがたたえられていて、わたしはますますドキドキする。
「アタシの気持ちが届いた…ってことかしら?」
彼は空いている方のわたしの手を取ると、優しく持ち上げる。それから、まるでおとぎ話の王子様がそうするように、上品に口付けをした。そして、そのまま上目遣いでわたしを見上げる。その美しさと言ったら、言葉で言い表せないほどだ。この人こそ、完全無欠な人間なのだとクラクラした。

「ナマエ」
わたしの名前を呼ぶ声はひどく甘く、色っぽい。それに引き替え「はい」と返事をするわたしの声はどうしようもないほどヘロヘロで、情けなかった。
「好きよ、心からアナタを愛しているわ」
自分がこの人に全力で口説かれているのだと気づくには遅すぎた。今やわたしのほうが真っ赤に熟れた林檎のような顔色をしており、そんなわたしに追い打ちをかけるように、ヴィル先輩は愛の言葉を囁き続ける。「もうやめてください」そんな風に彼の言葉を押しとどめるとき―――それはわたしがヴィル先輩のとめどない愛情に取り込まれるときなのだと、熱い頭で考えていた。



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