誰にだって体調がすぐれない日はある。
その日は朝から頭が痛く、体が重かった。こういう日は何をやっても上手くいかないのだから、無理をしないに限る。必要最低限のことだけをこなすように努めた。
だから、いつもならエースやデュースたちと過ごす休み時間も、わたしはなるべく一人で過ごすようにした。彼らもわたしの体調不良を理解していたので「保健室に行けば?」と勧めてはくれるものの放っておいてくれる。干渉されすぎないくらいがちょうどいい。
そうして昼休みを迎えたわたしは、人気のない場所を探してふらふらと校舎内を歩いていた。すると、前方からひどく大きな男が歩いてくる。寮服をきちっと着こなしたジェイド・リーチだった。どうか絡まれませんようにと祈りながら俯き加減に歩いていると、すれ違う前に「おや」と声をかけられる。
「こんにちは、監督生さん。なんだか、ひどく顔色が悪いようですけれど」
ジェイド先輩はわざとらしく眉を潜め、わたしの顔を覗く。
「ええ、だから一人で休める静かな場所を探していたんです」
一刻も早く一人になりたかったわたしは、イライラとした口調で”構うな”という旨を伝える。いつもだったら絶対にこんな言葉を返したりはしないのだが、この日のわたしには余裕がなかった。
「なるほど、それは困りましたね。この学園内には、問題の多い学生たちがそこかしこに戯れていますので、静かな場所を見つけるのは簡単なことではないでしょう」
心底憐れんだ目でわたしを見つめるジェイド先輩に、ますます苛立ちを覚える。わたしはこれ以上コミュニケーションを取りたくないのに。しかし苛立てば苛立つほど相手を喜ばせるのは明らかだった。
「そうだ」
そう声を上げると、ジェイド先輩は寮服のポケットから一本の鍵を取り出した。
「これを監督生さんにあげましょう」
一方的にその鍵をわたしに握らせると「ついて来てください」と言って彼は先を歩き出す。仕方なくその後に続くと、彼は校舎の奥まった場所にある教室の前で足を止めた。
「ここは現在使われていない空き教室です。ちょっとした物置になっているようで、いろいろな物が置かれていますけどね」
そうしてジェイド先輩はにこりとわたしに微笑む。鍵を使って教室を開けろ、と言っているのだ。わたしは渋々その小さな鍵を使って解錠する。それからジェイド先輩は慣れた手つきでドアを開けた。
たしかにそこは教室というより物置に近かった。教員たちの個人的な物も置かれているようで、使わなくなったオフィスチェアーやデスク、ポット、グラス、作業着や靴、毛布なども置かれている。
「その鍵は差し上げますので、どうぞこの教室を自由にお使いください」
「えっ?」
「遠慮は結構です、僕はあなたの力になりたいだけですので」
そう言ってジェイド先輩は教室から出て行ってしまった。彼に親切にされるのは正直怖い。あとあと面倒なことに巻き込まれる気がしてならない。けれど、体調不良で何もかもおざなりになっている今のわたしにとって、この鍵は最高の贈り物のように思えてしまった。
ドアをしっかりと閉め鍵をかけると、わたしはこのガラクタたちを寄せ集め、横になれるスペースを作る。幸い教室内にはありとあらゆる物があったので、寝床を作るのにそう苦労はしなかった。
以来わたしは、ときどきこの鍵を使って空き教室に忍び込む。一人になりたいとき、体調がすぐれないときに、この教室に来た。ジェイド先輩からこの件について何か対価を要求されないか気がかりだったけれど、あれから何かを要求してくることはない。気まぐれな親切だったのかもしれないと都合よく解釈することにした。
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―――ところが、そんな”秘密の場所”での日々はあるとき突然終わりを告げた。
この日もわたしは体調がすぐれず、空き教室の寝床で一人丸くなっていた。薄く開けた窓から聞こえる、昼休みだというのにマジフト練に励む生徒たちの声と、風がカーテンを揺らすパタパタという音以外は、完全なる静寂だ。わたしは毛布にくるまりながら徐々にまどろんでいく。
……堅い床を叩くような音がした。
最初は聞き間違いかと思ったけれど、その音は徐々に確実に近づいてくる。コツ、コツ、コツ…とゆっくりと、その音は大きくなる。構わず目を瞑り続けたが、どうにも気になってしまい、わたしはそうっと体を起こす。そのままじっとドアを注視した。
コツ、コツ、コツ……その足音はとうとうドアの前で止まった。ジェイド先輩?それとも教員?隠れたほうがいいのか?今さらそんな考えにいたり、毛布から出ようとしたところでドアが開いた。非常に乱暴な開け方で、反動でドアが戻って来たくらいだ。
「あァ?」
剣呑な声を上げたその人物は、不機嫌そうに眉を寄せてわたしを睨む。ジェイド先輩や教員なんかよりももっと厄介な人物が来てしまった―――そこにはフロイド・リーチが立っていたのだ。
彼は大股でわたしのもとまで来ると、制服のポケットに手を突っ込んだままわたしを見下ろす。
「なんかぁ、最近オレのサボり場荒らしてる奴がいるから絞めてやろうと思ってたんだけど。まさかその正体が小エビちゃんだったとはねぇ……」
フロイド先輩は長い脚を折ってしゃがみ込むと、小首を傾げてわたしの顔を覗く。
「つか、この教室の鍵持ってんのオレとジェイドだけなんだけど。どーやって鍵手に入れたわけ?」
彼は怒っているのか、楽しんでいるのか分からない、無表情な目でわたしを見つめていた。それがまた怖くて、口の中が干上がってしまったみたいに声が出ない。
「おい、何か言えよ」
フロイド先輩の大きな手がわたしの顔に伸びる。恐怖に支配され、わたしは情けなく硬直してしまう。おまけに顔をしかめそうになるほど頭痛が悪化していた。そうして彼の手がわたしの襟首に到達したところで、彼は動きを止めた。
「てかさぁ、小エビちゃん顔色悪すぎじゃね?」
それから彼はわたしが整えた即席の寝床をジロジロと眺める。
「なに、寝てぇほど辛いの?」
わたしが、そうだ、とか、そうじゃない、とか答えるよりも先に「ふぅん」と言って彼はどっかりとわたしの隣に腰を下ろした。これでわたしの寝床は完全に消滅したと言える。
「なーんか絞める気なくなっちゃったぁ」
なぜか機嫌を良くしたらしい彼は、歌うような口調でそんなことを言う。
「でもぉ、オレの場所を勝手に荒らしたのにはムカついてんだよねー」
ズキズキ、ズキズキ、と脈打つたびに頭が痛む。恐怖と、痛みとで、思考能力がどんどん鈍っていく。
「小エビちゃんがさ、ときどきオレと一緒にサボってくれんだったら、これまでのこと許したげる」
フロイド先輩が口角を上げ尖った歯を見せながら、わたしの顔を覗き見る。オッドアイが綺麗だな、なんてまったく関係のないことを考えながら、ぼうっとその瞳を眺める。それからわたしは力なく頷いた。
「ハイじゃあ決まり〜。ジェイドはサボりに付き合ってくんないしさ、一人でブラブラすんのもちょっと飽きてたんだよねー。小エビちゃんにはぁ、これからいろんなとこ連れてってあげる」
そう言いながら彼はわたしの肩に手をまわすと、ものすごい力でなぎ倒した。同時に彼自身も横になったので、再び寝床スペースが生まれたものの、一体何が起こったのかよく分からなかった。
「じゃーおやすみ、小エビちゃん」
フロイド先輩は毛布をわたしの胸辺りまで引き上げると、そのままわたしを後ろから抱えるようにして黙り込んでしまった。
つまりこれは、一緒に寝る、ということなのだろうか。
そうっと首を捩じり背後に目をやると、目を閉じ静かに呼吸しているフロイド先輩の顔があった。しかし「なに見てんの、絞めんぞ」と地を這うような声で脅されたため、わたしは慌てて顔を戻す。
頭はまだ、痛い。でも今あたりはとても静かだ。ひどく恐ろしい人物がわたしを抱え込んでいるけれど、どうやらこの教室を使い続けていい、ということにもなったらしい。
気づけば穏やかな寝息が耳元で聞こえている。今は何を考えても意味がないのかもしれないと思った。わたしも瞼を閉じる。風に乗って、爽やかなサボンのような海のような香りがした。フロイド先輩の匂いなのかもしれない。いい香りだな、と思いながらわたしはまどろんでいく。
体調が悪いときは、何をやっても上手くいかない。だから全部成り行きに任せ、万全な状態になったときに散らかったあらゆるものを片付ければいいのだ。たとえそれが、とんでもない結果を生んだとしても。
鈍い頭でそんなことを考えていたら、巨大な男にすっぽりと包まれたわたしはすっかり眠りに落ちていた。
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