16
 わたしが緊張と困惑で混ぜこぜになってあわあわしていると、トニオさんは笑顔を崩さぬままに、お金はいいのでとりあえず店の中にどうぞ、と言ってくれた。これ以上言い訳をすることも断ることもできなくて、ついていってしまった。
 恐る恐る中にお邪魔してみると漫画通りの素敵な内装で、思わずほう、とため息があふれた。おしゃれな雰囲気に気を取られて突っ立っているわたしを笑うこともなく、トニオさんはテーブルまでゆっくりエスコートしてくれた。どうぞ、とわざわざ椅子まで引いてくれるあたりイタリア人は、本当にレディーファーストなんだなと感心してしまう。座ったわたしに少し待つように言って、トニオさんは厨房の方へと行ってしまった。
 きょろきょろと中を見渡した。こんなおしゃれなお店、いつもなら緊張しちゃって絶対入れない。飾られた小物だとか、絵だとか、椅子にしたっておしゃれで、トニオさんがいないというのにそわそわと緊張してしまう。そうしている間にトニオさんが戻ってきた。


「珈琲で大丈夫ですカ?」

「はい。大丈夫です。ありがとうございます」

「いえいえ。エスプレッソ、カフェ・ラッテ、カップッチーノ……ドレがお好みデすか?」

「あ、エスプレッソでお願いします」


 わかりましたと頷いてトニオさんはもう一度厨房に戻っていった。そうだよね、アメリカンとかドリップとかそういうんじゃないよね。自分の浅い考えにじりじりと恥ずかしさがこみ上げてくる。幸いその羞恥心が顔に出ることはなかった。
 持ってきてくれたカップには珈琲が注がれている。それからわたしの前の席に、トニオさんがゆったりとした動作で腰をおろす。優雅だ。たしかいいところの坊ちゃんなんだよね、トニオさん。組まれた指になんだかどきりとさせられた。


「サッソクで申し訳なイのですが、本題の、パルタイムのコトなのですが、」

「あの、ぱっと見た感じ、雇わなくても大丈夫なのでは?」


 言われる前に先手を打ってやれとばかりに口を開く。トラサルディーはトニオさん一人で回せるようにと一度に二組しか取れないようにしているはずなのだ。だからそもそも誰かを雇う必要なんかないはずだし、気を使わせているのなら悪いとも思う。わたしもここで働く気はないので、適当にお話したら解散したほうがいい。


「ええ、今のままならソウなのですが、固定のお客様も増えてキタので、席を増やしたいのでス」


 あー……そういう理由ならかえってよくなかったかな。今のは墓穴掘ったとしか言えない。よくわかってますね!そうしたら誰か雇わなくてはなりませんよね!というキラキラした目でトニオさんが見てくる。逃げられない感じがマッハでヤバい。何を言ってるのかわからない感じからもわかるくらいにとてもヤバい。けれどなんでわたしが選ばれたのか、全く以って分からない。さっきの会話にそんな要素はなかったような気がするんだけど……。
 そんな思いを感じ取ってくれたのか、トニオさんはにこやかに疑問を解消してくれた。


「ワタシ、会話の中にイタリア語が混ざるコトがあるのでス」

「……なるほど。だから、わかる人の方がいいと。それならわたしよりも、」

「ハイ。でもそれだけじゃなくて、アナタが素敵な人だカラということでもありますヨ」


 さっきの変な親切心が仇となったのかぁ、なんて自分の無計画さに打ちひしがれながらも別の人を勧めようとしていた脳内に、殺人的なウインクと共にとんでもない言葉が飛び込んできた。う、わ、な、なに? 今の、何!? イタリア人が凄すぎて出家して関わりのない世界に飛び込みたい!
 トニオさんがあまりにも恥ずかしいことをさらりというので、抗体のないわたしは今真っ赤になっていることだろう。照れる様子を一切見せないトニオさんの代わりに、わたしが恥ずかしい。猛烈に恥ずかしい。


「オヤ、真っ赤ですヨ」


 くすくすと笑われると更に恥ずかしさが増してきた。真っ赤になっているであろう顔を手で覆って、どうにか見られないようにする。少し冷たい自分の手が気持ちいいと感じるので、わたしの顔はそれなりに熱を持ってしまっているようだ。そりゃそうですよね、あんなこと言われたらそりゃそうですよ。
 深呼吸をしながら必死に自分の気持ちを落ち着かせる。落ち着け、彼に他意はない。イタリアでは普通のことだきっと。わたし絶対イタリア行かない。心臓いくつあってもたりない。深呼吸を何度か繰り返しているとようやく熱が引いてきて、緩慢な動きで手をはがしてそろりとトニオさんを見てみる。穏やかにというか朗らかにというか、微笑ましいと言いたげな笑みを向けられてじりじりと熱が戻ってくるようだった。
 もう一度顔を隠そうとしたわたしの手を、トニオさんが掴んだ。また! またか! ばっちりと目があった。澄んだ青の目が貫いてくるようで視線をそらさずにはいられない。焼くような目線が、止まない。


「ゼヒ、あなたにお願いしたイのデす」

「い、いえっ、でも、その、わたし以外にいい人がいると思うんです……」

「イイエ! ワタシは、あなたがイイのですヨ」


 そこで手を握る力を強くするのは反則だと思います。間違いなく落とし来ているというのはわかっているのに、恥ずかしさが爆発して死にそうなわたしはお断りする道はもうないのだと思い込んでしまって、首を何度も上下させた。


「わかりました! わかりましたから! わたしで良いのならやりますからっ!」

「本当でスか!」

「本当です、本当ですから手を離してください!」

「おお、そうでしたネ!」


 今気付きましたとばかりにパッと離してくれたので、慌てて手で引いた。ひ、ひい、し、心臓、どっくんどくん言ってる。身体爆発してぱーんっと飛び散りそうなくらいだ。何事もなかったような澄ました顔をしているトニオさんは、実は策士なのかもしれない。策士であってほしいまである。天然でこれをやってるほうが厄介だから。
 落ち着いてきたわたしは、ひとつだけため息をついた。半ばパニック状態で手を離してほしかったとはいえ、イエスと答えたのはあくまでもわたしだ。やっぱりできません、は言えない。


「ああ、名前も教えていませンでしたネ! ワタシ、トニオ・トラサルディーでス」

「……わたしはミョウジナマエです。これから宜しくお願いします、トニオさん」

「ハイ。よろしくお願いしますネ、ナマエサン」


 それから時給、給料日、仕事内容などについて話すと雇用契約書を頂いて、家路につくことにした。どっと疲れた。なんでこんなことになっちゃったんだろうか。いや、まあ、わたしの不注意ですね……。
 漏れるのは唸り声ばかりだが、唸っていても仕方ない。出来るだけ他の人に会わないようにしながらトラサルディーに勤めることを目標にしよう。みんながみんな、いつも来ているわけではないだろうし。
 とりあえず商店街に寄って、サラダに使うレタスやキュウリを買って帰る。家には朝のうちに作ったシチューがあるので急いで帰る必要もないのだが、干しっぱなしの洗濯物もあるし、たまには外の掃き掃除や庭の手入れでもしよう。
mae ato

modoru top