出夢も、理澄も、わたしにとっては大切な存在で、たくさんたくさん一緒にいて、たくさんたくさん慈しんできた。十三階段に入るときには、わざわざ眼鏡を買ってきて補欠として扱ってもらえるように頼み込んだ。だって出夢も、理澄も、わたしにとっては大切な存在だから。ただ、理澄が狐さんに恋をするように出夢もわたしに恋をしたのに、理澄と狐さんが目に見えて結ばれることはなく、出夢とわたしは目に余るほど結ばれてしまった。もしかしたらその時からだったのだろうか、わたしたちを含めて、ズレが生じ始めたのは。気付かずにいるうちにわたしたちは、バラバラになったのだ。
 そのズレを初めて自覚したのは、理澄が死んだときだった。死体。いくつも見てきた死体がそこにはある。死体なのだから物でしかない。けどそれはわたしの大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な大事な理澄の身体だったものだ。どうして? そんなことがあっていいわけがない。おかしい、わたしたちは三人でいなければならないはずなのに。身を引き裂かれるような痛みだった。頭がおかしくなるほどにただただ叫んだ。泣いても泣いても泣いても泣いても泣いても吐いても刺しても殺しても理澄は帰ってこない。帰ってこない。帰ってこない。おかしいな。帰っておいで理澄。ここに理澄の場所はあるんだよ、理澄? どこにいるの? こんな死体のどこに隠れてるの? 理澄。理澄。わたしの理澄。可愛い理澄。大事な理澄。大切な理澄。一人しかいない理澄。代理品なんかじゃない理澄。愛してるよ理澄。どこにいるの理澄。理澄。会いたい理澄。行かないで理澄。帰ってきて理澄。理澄。理澄。わたしと出夢の理澄。理澄。「ナマエ、」「ナマエ」「僕が死んだときは泣くなよ、そんなふうにはなるなよ」





「出夢も死ぬの?」


 半狂乱、などという生易しい言葉では済まされないほどに錯乱していたはずのナマエがようやく出夢の言葉に反応して、床に腰を下ろしたままゆっくりとした動きで出夢のことを見上げる。その目には既にいつものような優しい色は含まれておらず、どんよりとした濁りさえ窺えた。けれど同時に理性的な思考を取り戻していることもわかった。ナマエを見下ろしたままの出夢がナマエの頭をゆるゆるとした柔らかい手付きで撫でながら、「そうだな」と言葉を続けた。


「そりゃあいつかは死ぬ。理澄が死んだんだ、遅かれ早かれ僕だって死ぬことになるだろ」

「嫌だ、ダメ、出夢までわたしを置いてくの」

「どっちかってーと僕らが置いてかれてばっかだったからちょうどいいんじゃねーの」

「いいわけないでしょ、ふざけないで」


 真っ赤に腫れた目で睨み付けて来る恋人を出夢はたいそう可愛いと思ってキスをした。ナマエはくすぐったそうに身を捩る。──強いままで愛せる相手を手にいれて浮かれていたのかもしれない。理澄さえいればいいと思えなくなった罰なのかもしれない。裏切りには代償を。おかしいな、お前が死ぬ必要なんてのはどこにもありはしなかったのに。そう思いながらも出夢は自分が死ななくて、飽いた《殺し屋》なんていうものから解放されて、よかっただなんていう感傷に浸れるのだ。ナマエと平和に暮らしたい。殺しなんかしなくても、仕事なんかできなくても、力なんてなくても、ナマエさえいてくれればそれだけで。本気でそんなことを思ってしまっていた。何せ、幸せというのは恐ろしいもので身体に染み渡ると抜け出せなくなる。だから今の出夢にとって欲しいのは安穏と、ほんのすこしの、ナマエを守れるだけの力とナマエだけで、それ以外なんて本当になくても大丈夫だと思ってしまった。だからだろうか。やはり罰だったのではないだろうか。紛れもなく、どうしようもなく、何よりも出夢自身がそう思っていた。システムといって差し障りないものだったとしても己にとって大事な半身を蔑ろにしてしまった。一番から二番に引き摺り下ろし、一位から二位に格下げして、自分のために生きてきた理澄を軽んじてしまった。だからやはり、これも罰でしか有り得ないのであろう。


あなた好みのバッドエンド


 因果応報。自業自得。腹の中身をぶちまけた出夢の頭の中にはそんな言葉が浮かんでは消えた。狐さん──西東天ならば今回のことをバックノズルと形容するだろう。理澄が死んでいたのだからそのときに僕も死ぬはずだったとか、そんなような意味を用いてそう形容する。予定調和? 運命? そんな陳腐で不愉快な言葉で幕引きをする。《人類最悪》は伊達じゃあない。本当に胸糞悪い話だ。正しすぎて吐き気がするほど、悪すぎる。
 息もできないままにそんなことを考えている出夢に駆け寄ってきたのは当然のように恋人であるナマエだった。薄らぐ視界にもこれ以上にないほど情けない顔の彼女の姿がある。泣きそうに顔を歪めて、けれど泣いてはいなかった。それはまだ出夢が死んでおらず生きているからなのか、あるいは逆に死ぬことを理解しているからあの時の約束を守ろうとしてくれているのか。出夢には到底わかりもしないことだったし、わからぬまま死んでいくであろうことだけははっきりとしていたが、それでも、それだからこそ後者であってほしいと思った。言いたいことはたくさんあった。許してくれだとかなんだとか。そんなことを伝えきるだけの時間が出夢には残されていない。そうこうしているうちに駆け寄ってきた《戯言遣い》を見る。泣き出す一歩手前のような、ひどい顔をしていた。


「おい……おにーさんよォ、」

「しゃ……喋っちゃ駄目だ! すぐ、すぐに、絵本さんが来てくれるから──」

「いいから聞けって、僕が死んだら、っていうか、今すぐ、逃げろ……」

「へ……?」


 呆けた顔をしている《戯言遣い》に出夢は思わず笑みがこぼれた。どうにもこうにもわかっていない。いや、この場でこのあとの事態を予想できているのは自分だけだ。《人類最悪》も《人類最強》も《人類最終》だって、この危険には気が付けない。気が付かせてなどやるものか。けれどこの甘ちゃん《戯言遣い》は逃がしてやろう。理澄の友達になってくれようとした人だから。


「悪いことは言わねえから、逃げとけ。もしかしたら、巻き込まれる、あんただって、死にたくないだろ……」

「い、出夢くん? 何を言って──」

「ああ……そうだ、もし、おにーさんも、狐さんも生きてて、まだ戦うってなる、わずかな可能性が、あったら困るよな。癪だから、切り札、教えといてやるよ……」


 ──零崎人識は生きている。出夢が耳元でそう囁けば、《戯言遣い》は驚いて目を見開いた。面白い顔だった。けれど出夢にはもう《戯言遣い》に構っている暇はない。初恋の相手を口にしたからきっとナマエの機嫌が悪くなることだろう。可愛いナマエ。気丈にも涙を堪えるナマエを見てわき上がるのは、止めどない愛しさばかりだった。今から死ぬというのに不思議と寂しさも苦しさも出夢には一つだってない。寧ろ幸福という感情の方が大きい。ただ仮に一つだけ暗い感情があるとすれば、ナマエへの申し訳なさだけだろうか。置いていくことへの後悔ではなく、置いていかないことへの、連れて行くことへの謝罪の念だ。ナマエは僕のだ。だから連れていく。だから置いていかない。だから起動させる。だから壊し尽くす。ゆっくりとナマエに手を伸ばし、出夢は最後の力を振り絞って触れるだけのキスをした。可愛いナマエ。僕だけのもの。だからナマエ、僕を許してくれるな。


「愛してるぜ、──姉さん」





 その腕が床にしなだれて出夢は虚ろな目で宙を見上げ、最期の最後に理澄の幻覚を見たきりぴくりとも動かなくなった。その様を泣くわけでもなく呆然と見詰めるナマエは痛々しいを通り越して『ぼく』に痛みを与えていた。初めてナマエに会ったあの日、恋人だと照れくさそうに出夢が紹介してくれたことを『ぼく』はよく覚えていた。一つ屋根の下で暮らす、そこら辺にいそうな仲睦まじい恋人同士だった。──姉さんと出夢が言ったことに引っ掛かりを覚えなかったわけではない。普段、出夢はナマエと呼び捨てにして呼んでいたからだ。どうしてわざわざ姉弟であるということを改めて理解させなければならなかったのか。けれどそんなことよりも『ぼく』は目の前で死に絶えた出夢から目と思考を離すことができずにいた。


「『愛してるぜ、──姉さん』。ふん。姉さんか、出夢が俺と同じ趣味の持ち主だったとは。人類においては割とありがちな悪趣味だから決してありえん話ではなかったがな、それにしても意外だ」

「……あなたは、それしかないんですか」

「いいや、それよりもまさかの事態だぜ、俺の敵。こんなとき、こんなところにとんでもない隠し球が仕込まれていたとは、俺も思いもしなかった。灯台もと暗し……そりゃあ見付からないわけだ」


 《人類最悪》はそう言って未だ放心状態であり続けているナマエを見下ろしていた。先程までの悲痛な面持ちさえもう浮かべられない様に『ぼく』は胸が痛くなる。ナマエはよく笑うとても優しい人だった。けれど今はまるで脱け殻である。感情という感情の起伏が少したりとも見つけられない。『ぼく』はとても見ていられなくなって、ナマエから目を逸らした。そうして再度《人類最悪》に視線を向ける。彼の言っていることにも謎は多い。灯台もと暗し? まさか彼はナマエのことを探していたというのか? ナマエは《人類最悪》と面識があると言っていた。ならばなぜ。『ぼく』が《人類最悪》の言葉にあまり反応しなかったせいか、《人類最悪》は大袈裟に肩を竦めて見せた。


「おいおい、まさか匂宮を知らないわけじゃあないんだ。お前、こいつの正体に気が付きもしないのか? 《匂宮雑技団》団員No.18、第十三期イクスパーラメントの功罪の仔、《人喰い》の匂宮出夢が唯一『姉』と呼ぶであろうその正体を想像できないと?」


 『ぼく』はいたって普通の人間、一般人である。《殺し名》の《匂宮雑技団》のことを詳しく知っているわけもない。『ぼく』が《匂宮雑技団》について知っていることは基本的に周りの《殺し名》に教えてもらったものだけである。『ぼく』にとっては玖渚に注意されるまでもなくあまり関わり合いになりたくない手合いのことを深く知っている方が問題なのだ。それでも幾分かある知識を必死に穿り出そうとしていた。とても嫌な予感がする。何かが引っかかり続けている。違和感。猛烈なまでの違和感。『ぼく』の中で出夢の声が蘇った。──逃げろ。生きていたら。姉さん。
 必死に考えている『ぼく』を無視して、《人類最悪》はナマエを見る。この場において《人類最悪》が最も欲しているのは、彼が敵として認めた『ぼく』ではなく、ぬけがらのように動かないナマエだった。


「《悪食》《暴食》《貪婪》……お前を表す言葉ならいくらでもある。そうだろう、なあ、《匂宮雑技団》団員No.13、第十三期イクスパーラメントの功罪の仔、失敗作にして成功例、匂宮静梦──《人類最外》」

「……《人類最外》? ナマエさんが?」


 《人類最外》と聞いて『ぼく』が思い出すのは、いつの日か《人類最悪》が話していた言葉である。──最も人間ってやつを、人類ってやつを理解しちまってるやつさ。敵か、いや、味方になってくれるのなら、きっと俺に世界の終わりを見せてくれるはずの一人だ。傍観者にして当事者、被害者にして加害者、どこにでもいてどこにもいない。それが《人類最外》、匂宮静梦という人間だ。
 その言葉を思い出す奥で不意にぐちゅりと水音がした。『ぼく』は振り返って後悔をする。地獄だ。先々月振りの地獄。右腕と口元を真っ赤に濡らしたナマエがそこに立っていた。ぐじゅりぐじゅりと音を立てながら食事をしているナマエの姿は異様だ。怖い。『ぼく』は怖気と震えに襲われた。異常だ。異常。見慣れたはずの異常がこの場に君臨している。
 今更ながら『ぼく』は出夢の言葉をどうしようもなく理解し、後悔した。どうしてもっと深く考えなかったのか、どうしてもっと真剣に言葉を受け取らなかったのか、どうして彼の言葉に従わなかったのか。どれもこれももう遅い。そうやって出夢が笑っている気がした。理澄が殺されたときと同じようにぽっかりと胸部に穴を開けた出夢が、笑っている気がした。ナマエは鋭い犬歯で新鮮な生肉を裂いて口に運ぶ。ああ、逃げときゃあ、よかった。
 ナマエが食べ終えるまで誰も言葉を発することはなかった。べろりと最後の一滴まで舐めつくそうとしているナマエが視線を《人類最悪》に向ける。表情も感情も、その顔には存在していなかった。


「ふ、ン、……あ、は、……はあ、……ああ、ああ、……ふう、そうだね、わたしが、匂宮静梦、たしかにそのように呼ばれていた失敗作だ。ああ、ナマエと呼んでくれても構わないし、仇名だろうとなんだろうと好きに呼ぶといい。出夢と理澄がいなくなった今、それらは最早ただの記号でしかない」


 『ぼく』はもうそのナマエという記号さえ用いてはいけない気がした。そこには知らない人間がいる。それを匂宮静梦と形容し、《悪食》や《暴食》という言葉で飾り、《人類最外》に淘汰される。そういう、生き物なのだ。《人類最外》は笑わない。《人類最外》は思わない。《人類最外》は揺るがない。『ぼく』はわかっていた。これが因果。これが予定調和。《人類最悪》という、バグの思考を抉り捨てるために運命が送り出した《殺し屋》。ならば『ぼく』もこの場で殺されることになるのだろう。《人類最悪》にそっくりの魂を持つという『ぼく』が生き残れる因果はないのだと思わされていた。
 そして食事を終えた《人類最外》はナマエの面影さえなくして、一歩踏み出し、手をふるった。爆音。次の瞬間には出夢の姿が消えていた。『ぼく』は何が起きたのか理解できなかった。それでも赤い赤い霧ができていたことで、どうしようもなく、理解せざるを得なかった。出夢の死体は《人類最外》の手によって消されてしまった。もう誰の目にも触れられないように。そのとき『ぼく』は自分の考えの過ちに気付く。違う。


「さて、それでは、さようなら」


 そう言って《人類最外》は自分の首を手折った。驚くほど呆気ない幕切れ。異常なほど簡単な結末。終焉を見れないと嘆く《人類最悪》を横目に、『ぼく』は理解していた。数分しか邂逅していない《人類最外》のことを、第二体育館の床に転がるナマエのことを理解していた。──ナマエの世界はとっくに終わっている。理澄と出夢、この兄妹を亡くしたときに、これ以上ないくらいに終わってしまっていたのだ。他人に構っている暇がないほど、どうしようもないほど、彼女は終わってしまっていた。《人類最外》として生きる術さえ、最後に奪われた。愛されるべき恋人としてのナマエも、姉としての《人類最外》も、最期の一言で出夢に囚われた。絡め取られた。けれどその出夢は死んでしまった。抜け出せない。逃げられない。彼女は、終わるしかなかったのだ。

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