にっこり、ナマエが笑った顔はひどく穏やかなものだった。それは彼女の普通とは言えない人生に関係しているのだろう、とアヴドゥルはぼんやり考えていた。
 大人にならずには居られなかったのだ。彼女が異世界からこの世界に来たらしい、故に。アヴドゥルに確かめる術はないため自然とそういう口調になってしまう。勿論アヴドゥルはナマエのことを信じている。彼女は異世界から来て、もう帰ることができなくなってしまった。それはしっかり、信じている。けれど、ナマエがアヴドゥルに紡ぐ甘い睦言だけは信じられずにいた。


「わたし、アヴドゥルさんが好きです」


 そう言った彼女の笑みは忘れられない。年の離れたナマエのことを好ましくも思う。それでも、アヴドゥルはナマエの言葉をはっきりと信じられなかった。
 彼女が求めているのは、異世界という自分の居場所がない世界で支えてくれる人間というだけで、自分でなくても良いのではないだろうか? 自分を好いてくれているのはただ単に一番近くにいた年上の人間だからではないだろうか? ――本当ならば、平常時ならば自分と年の近い人間の方を好きになるのではないだろうか?
 その考えが酷く醜い思考であることはアヴドゥル自身も気がついていた。だがナマエのことを考えるたびに頭の中に浮かぶのはそのことばかりで、言えばナマエも自分も傷つけるものだと十分理解していた。だからいつも口にするのは遠回りでありながらも、はっきりとした断りだ。


「……君は若いんだから、もっといい人がいるよ」


 ありきたりで、陳腐な言葉だった。わかっていても口にせずには居られなかった。アヴドゥルは思考通りだったとき、自分が傷付きたくなかったのだろう。そう言葉を口にすると決まってナマエは困ったように笑った。その笑みの意味はそれなりに長く生きてきたアヴドゥルには、しっかりと伝わっている。

 どうしてわかってくれないの。

 口に出さない彼女をいとおしく思ったけれど、感情には蓋をした。理由は言うまでもない。アヴドゥルが臆病者だから、だ。傷付くのが怖い。想いに応えて幸せになったあと、余裕のできたナマエが同世代の男に惹かれて離れていくのが怖いのだ。魅力が足りないと言うのならば努力のしようはある。だが年の差は、自分が死なない限り埋められない。埋まらない。
 だからアヴドゥルはナマエの気持ちに応えることはない。期待させるような態度も見せない。当然、好きだと伝える気もない。そのつもり、だったのに。


「そういえば、この辺にお土産屋さんってないよね? 覗くの楽しいのに……空条くんはここら辺でお土産屋さん見た?」

「ああ、向こうにあったぜ」

「本当? 見逃しちゃってたのかな」


 ナマエが承太郎と他愛もない話をしているだけなのに、アヴドゥルの胃にはずっしりと重い何かが渦巻いていた。直ぐ様アヴドゥルはそれが嫉妬であることに気付いたが、だからと言って二人を引き離すことなど出来るわけもない。せめて二人の会話を聞かぬよう、二人の姿を視界に入れぬよう、場を離れようとした。しかしその背に承太郎の声がかけられる。


「アヴドゥル、待て」

「……どうかしたのか、承太郎」


 無視をするという選択肢がアヴドゥルの中に生まれなかったわけではない。けれど嫉妬に駆られているからと言って信頼する仲間を無視することは、アヴドゥルには出来なかった。ゆっくりと振り返れば、承太郎は親指でナマエを差していた。


「土産屋に行きたいんだと。ここら辺も詳しいだろ、連れていってやったらどうだ」

「えっ、く、空条くん?」

「見に行きたかったんだろ? アヴドゥルなら言葉も通じる。連れていってもらえばいいじゃねーか」

「その、アヴドゥルさん忙しいかもしれないし、」

「なら本人に聞け」


 ナマエはゆっくりと視線を上げて、黙ったままのアヴドゥルを見た。その表情から睦言を囁くときよりも緊張していることが窺える。視線が絡んで、数秒の間。どくりと誰かの心臓が音を立てる。そして震えた声で言葉は紡がれた。


「あの、アヴドゥルさん。じ、時間があるならでいいんです。そ、その、わたしと、一緒に…っ……」

「…………ああ、私でいいのなら」

「……………………え、あっ、ほっ、本当ですか……?」


 アヴドゥルが頷くと年齢に似合わぬほど大人びているはずのナマエが、これ以上の嬉しさはないと言わんばかりに笑い、直ぐ様今にも泣きそうな表情へと変わる。そしてナマエは顔を手で覆ってちいさく呻いた。アヴドゥルはそれを見て焦り、勢いのまま彼女を抱き締める。途端ナマエの泣き声は消えてしまい、抱き締めている腕をどうしたらいいかわからなくなったアヴドゥルが視線をさ迷わせていると、呆れたように笑う承太郎と目があった。──やれやれだぜ。アヴドゥルは彼のお馴染みの台詞が聞こえたような気がした。

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