ばあんッ!と目の前の机が叩かれて、信長は大層驚いた。相手が豊久ならば別段どうと思うこともなく普通に反論していたことだろう。けれど目の前の机を叩いたのは、今まで話をしていた豊久ではない。その横でこの世界の書物を読んでいたはずのナマエという女だった。
 ナマエは信長たちと同じ世界に生きていた人間であるが、信長たちから考えて四百年、与一から考えれば八百年も後世を生きる人間だった。随分と大人しい、戦場では全く役に立たぬ平和惚けした、おどおどとした態度と引っ込み思案の少女。しかし知識だけはあるので、戦の前段階では役に立たぬわけではない。それが信長の認識していたナマエという存在である。
 だからこそ、信長はナマエが机を叩くなどと言う行為に及んだことに驚いたのである。驚いたのは信長だけでなく同じ室内にいた与一も目の前の豊久も随分と驚いている。


「な、なんじゃいきなり!」

「……先ほどから聞いていれば貴方様は織田、織田、織田と……なんですか、馬鹿の一つ覚えのように!」

「なんじゃ、それのどこがいけないと言うのだ」

「いいですか、その耳かっぽじってよおくお聞きくださいませ!」


 普段の縮こまった少女からは想像できぬほどの声を張り、その背はピッと伸びている。眼差しは剣呑と言ってもいいほどに鋭い。思わず信長はたじろいだ。本能寺で火に囲まれたときでもそのようなことはなかったというのに。しかしたじろいでしまったことを信長が悔いようとももう遅く、それを開始の合図としたようにナマエは口を開いた。


「島津氏というのはですね、秦氏の子孫、惟宗氏の流れを汲む惟宗基言の子の惟宗広言が、主筋である藤原摂関家筆頭の近衛家の日向国島津荘の荘官として九州に下り勢力を拡大、その子の惟宗忠久が、新興勢力である源頼朝から正式に同地の地頭に任じられ島津を称したのが始まりとされる家でありまして、全盛期は、薩摩国を中心とした南九州を領有し、初代島津忠久は薩摩国・大隅国・日向国の三国の守護に加え、越前国守護にも任じられているのです。家風として尚武を尊び、代々優れた当主を輩出したことから“島津に暗君なし”といわれ、鎌倉以来明治に至るまでその社稷を守り通し、現代では天皇家に血縁のある名家と言っても過言ではないなのですよ! それを貴方たちはなんです、田舎だのなんだのと……!」


 沸々と怒っているナマエの口は止まらない。島津の戦法はどうのこうのだの島津の示現流はどうのこうのだの、果ては島津の家紋まで褒め始める始末。家紋については単なる好みだという断りを入れ、織田瓜や一菊の良さにも触れていたが、そんなことはささいなことでお前はどこまで島津の知識を詰め込んでいるのだと問いただしたくなるばかりにナマエの島津について語る口は止まらないのである。
 聞かされている信長は既に顔色が悪くなってきている。どれだけ聞かされたとしても、織田が一番、俺が一番、という考えは変わらないのだが、田舎だの外国だの未開の地だのと言ったことは改めなければならないのではないかとさえ考え始めるほど疲れていた。止めようにも口を挟めば般若が如く睨まれ、信長は何故か口を噤まずにはいられない。相手がこんな小娘だというのにも関わらず、だ。


「それにですね、豊久さんの叔父様方とお父上の四兄弟がどれほどまでに凄かったことか……! まず長男の義久さんは」

「あー……ナマエ、もう、いいぞ」

「豊久さん!? これからいいところなのですよ! 叔父である義久さんと歳久さん、そしてお父上であられる家久さんと義弘さんの、」

「……お前が島津ば良かとこ知っちょるんなら、良か」

「と、豊久さん……!」


 豊久の声でナマエの口は簡単に止まる。ついでに顔を赤くさせ照れていることが窺えた。ナマエが照れるのは、信長にもわかる。語りに語っていたところからナマエはまず間違いなく島津という家が好きなのであろうし、尊敬という念も勿論あるだろう。すなわち豊久はその憧れの人物なのである。だからその人物にお前が知っていてくれれば嬉しい、などと言われてしまえば舞い上がらないわけもない。
 しかし問題は豊久の方である。いつも仏頂面の人間が微かに微笑む様は、信長の背筋をぞわぞわとさせるほどのインパクトを持っていた。まるで愛しい相手を見るような目だ。いささか気分が悪い。二人が何故か勝手に良い雰囲気になってしまったため、信長は置いてきぼりを食らい、我関せずと言ったふうに資料に目を通していた与一に声をかけた。


「……な、なあ?」

「なんです?」

「あいつら、なんか妙な空気が漂っとらんか」

「ああ、知らなかったんですね。お二方、好き合ってるんですよ」

「……あいつ、嫁、いるんじゃないのか」

「いいんじゃないですか。ナマエ殿もそんなことはわかっているでしょうし。信長殿だってたくさん囲っておられたのでは?」

「……いや、まあ、それなりにはだが…」


 信長は何かの折にナマエの生きる時代では一夫一妻が当たり前であったと聞いたことがあった気がして、首を傾げる。お前はそれで本当に良いのかと。けれどまあ、両人が幸せなら、いいのだろうか。未だ照れているナマエと口元を緩ませている豊久を見ながら信長はそう思った。

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