初めてその人を見たとき、道路を歩く横顔を見ただけだった。けれどそれだけで生きてる世界が違うんだろうな、と思った。それくらい綺麗な顔立ちをしていたというか、気品を感じたというか、なんというか。ショーウインドウ越しにウェディングドレスを見たり、ブラウン管越しに映画を見るのと似てる。わたしはそこに到達できない。そう、漠然と思っていた。

 二度目にその人を見たとき、従者のような人を連れて車に乗り込むところを見た。そしてやっぱりわたしなんかとは世界が違う人間なのだと再確認した。裏道で身体を売ってるわたしと高級車に乗ってるその人は、全然違う。多分同じ空気も吸ってないんじゃないかなあ、と金払いのいい男に抱かれてわざとらしく喘ぎながらながらぼんやり思った。

 三度目にその人を見たとき、目の前でその人が立っているところを見た。贔屓にしてくれていた男のもとへ呼ばれて家に行ったら、その人がいたのだ。驚いた。その男の家にいたことではなく、その人があまりにも綺麗な顔をしていたからだ。それだけではないバランスの取れた身体も、熟成したワインのように美しい瞳も、何もかも、見惚れた。









「女、お前の名は?」


 問われて意識が覚醒する。三度目が今、まさにそのときだというのに、目の前の男だけに意識を持っていかれていたのだ。その人に問われ、名乗ろうと声を発しようと思って、喉が引きつった。いつの間にか乾ききった喉は声を発すると言う職分を放棄していたのだ。わたしは慌てる。せっかくその人がわたしを気に止めてくれたのに、機嫌を損ねてしまう、と恐れた。けれど目の前のその人は、わたしの状態に気がついてくれたようで、整いすぎた笑みを作って男を指差した。


「吸血鬼、と呼ばれているらしいな。喉が渇いているのだろう? そこの男を好きにするがいい」


 ──DIO様! と男の慄く声がする。わたしはそこでその人の名をしっかり脳に刻み付けた。そうしてゆっくりと男を見る。わたしのような弱体化した存在が別段怖いわけでもあるまいに、男は怯えてみせる。男に歩み寄ると、ド、とわたしは腹にナイフを刺された。随分厚いナイフだ。これでは腹にぽっかりと穴が開いてしまうではないか。酷い。ひどいにんげん。歯が疼いた。
 そのあとのことは、よく覚えていない。とてつもなく汚く男を喰い散らかしたということだけは事実だ。頭から足の先まで血塗れで臓物の臭いがつんと鼻を突く。久しぶりの人間だったから、やらかしてしまった。サア、と血の気が引いていく。慌ててその人を見ると逃げることもなく、ただ静かにこちらを見ていた。そうして、問う。


「女、名は?」

「わ、わたしは、ナマエです……」


 血塗れのわたしに近寄ってきたその人は、わたしの顔にそっと白い手を這わせた。赤いものが移っていく。ワインのような目がわたしの目を覗き込んで、そしてその人とわたしの唇が重ね合わさった。口の中を味わうようにその人の舌がねっとりと動き回っていた。その人からは、わたしよりも濃い血の臭いがした。何かが背筋をぞわぞわと駆け上がっていく。ゆっくりと唇が離れて目を引かれた。


「ナマエ、お前はこれからわたしのものだ」


 そう言ってその人は赤い唇を歪めて、ひどく淫靡に笑った。

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