御伽噺


悪魔と女性の話1


 幸せになりたかった。幸せになれなかった。どうやったって、どう足掻いたって努力したってそれはまるで初めから存在しなかったかのように無に還る。それはまるでかの有名なアンデルセンが書いたとされる泡となって消えてしまったあの人魚姫のように。
 かつて、友人だった人が言ってくれた。
「努力して凄いね、頑張ってて偉いよ。自分なんかそんなに長続きできないし。尊敬する」
 その時は笑って、「努力しか取り柄が無いんだもの」と返したのだったか。そんなことももう朧気にしか思い出せない。
 本当は、私も皆みたいに努力をしなくても平均的に暮らせるようになりたかった。私は、どうやったって平均以下から抜け出せる事はない。だって、それが今までの普通で、私より周りの人達のほうがとても素晴らしい才能の持ち主だらけだったから。
 だから、どれだけ頑張っても家族も、先生も、上司も認めてくれるばかりか否定ばかりしてくる。
 ────私はただ認めてほしくて頑張っただけのに。
 私は、私を褒めて欲しかった。慰めて欲しかった。愛して欲しかった。抱き締めて欲しかった。ただ、それだけなのにな。
 でももう、愛も、夢も、希望も、ほんの僅かにあった期待さえも。全てが消えた。色褪せた。だからもう、心残りなんて一つもない。…はず。


 誰もいない屋上で靴を揃えて、文鎮がわりにして遺書の上に置いた。びゅぅうと強い風が吹いているその中で、私は手すりの外から街を見下ろす。こんなにも綺麗な街ではあるのに、住んでる人間の心根は汚いものばかりであると思う。もう疲れたのだ。頑張りを否定されることにも、手柄を横取りされることにも。なにより、何もしないクセに文句とプライドだけは一人前揃いのこの社会に。
 ────本当は生きていたい。だが、逃げることも許されずただただ“自分”を消費されるのは嫌だった。どれだけ馬鹿にされて生きてきた私にでさえ、そんな小さなプライドくらいは持ち合わせている。
 裸になった脚をぷらぷらとさせながら、飛び降りる心構えをする。私が死んでも何も変わらないこの社会が、あわよくば、このまま私と一緒に死んでいけばいいのにと思いながら。
 知らない間に頬をつたっていた涙を無視して覚悟を決めた。
 それでは私が生きたこのクソッタレで美しくも汚い世界、今日もゆるりと人を殺して進んでいけ。私の恨み、悲しみ、辛みはここに残して死んでいく。
 手すりから手を離す直前、何故か悲しくてどうしようもなく鼻がツンとして痛くなった。それさえ無視して風に身を委ねようとしたその瞬間。
「お姉さんさぁ、死ぬくらいならその魂俺にくんない?」
 突然、そんな軽い声とともに目の前に人が現れた。しかも、──文字通り浮きながら。
「ぎ、」
「ぎ?」
「ぎゃあああああああ!!!」
 あまりのことに離そうとしていた手すりを掴んだ。そして一瞬息が止まったことから苦しくなった肺の為に一生懸命酸素を取り込む。いくらか深呼吸をして少し落ち着いた為、目の前の謎の人物に指を指して言った。
「驚きのあまり死ぬところだったじゃない!危ないでしょう!」
 その言葉に男は笑った。
「いや、死ぬも何も。お姉さん、自分から死のうとしてたところだったじゃない」
 ウッ…と言葉に詰まる。確かにその通りである。死のうとしていた人間に「死ぬから驚かすのをやめろ」と叫ばれたところで何の冗談かと思うだろう。 その状態で固まっていると、「それで、お姉さん。ちょっと話さない?」と先程までとは打って変わった真面目な顔をして男は言った。その様子に理由は分からないが少し気圧される。得体のしれないものであると本能が察しているからかもしれない。
「……いい、けど」
「いいけど?」
 男はこてん、と首を傾げた。自分でも情けないほどに喉を震わせながら言葉を続ける。
「お、思った以上に驚きすぎて腰が抜けて動けない…」
 ────あまりの緊張感のないその発言に場がシン、と静まり返った。


 結局、開いた口が塞がらないと言ったような表情を浮かべる男に手すりの内側まで運んで貰った。そこで気を取り直して男が話し出したことは「自分と契約して嫌いな奴に復讐してみない?」といった内容である。曰く、己は悪魔であり眷属・契約者の人間が必要なのであると。そして最終的には契約者の人間の魂を集めることが仕事であると男は棒付きキャンディーを噛み砕きながら心底面倒臭いとかかれた顔で言った(因みに眷属は使い魔に該当する為、命は取られないらしい。一種のペットや番犬のようなものだろうか)。
 そんな突拍子もない内容を信じられるのか、と問われればそうではない。だが、それはそれとして男が空を飛ぶ様子を見たのだ(そして実際に運ばれた)。それに構造が良くわからないが小さな角が2本ほど額の生え際にある。──だからひとまず信じることにした。…契約に関しては、もう少しだけ待って欲しいと伝えた。ただ、どういうものであるのか気になったために、仮契約だけしてもらう形になったが。
「はいじゃあお姉さん、片手出して」
 何をするのか分からないが、言われた通りに右手を出す。すると男は「─────」と短く、何かを唱えた。正面で聞いていたはずであるのにも関わらず、何を喋っていたのかが何も分からない。どういうこと?と困惑していると、男は「仮契約終わったよ」と明るく言った。右手を見てみると、ほんの微かに黒い模様がアンクレットのような形で手首をぐるりと一周するかのように、刻まれていた。
「これは?」
「仮契約の証。黒ってのが如何にも悪魔っぽいでしょ」
「は、はあ………」
「まあ取りあえず、これから仮契約期間の間よろしくね」
「よろしくお願いします……」
 私と悪魔の仮契約は斯くして始まったのである。

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