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美しい終わり方



 瞼を引き上げなければならない使命感。それは眠りの揺り籠に抱かれていたせいを乱暴に叩き落とし、無遠慮に、そして生意気に半分だけ覚醒させた。
 しんと静まり返る脳内に、無造作に入り込む嫌味な自覚。嗚呼、酷い悪夢だ。嫌がらせだ。そうでないならば、『これ』は一体何だと言うのだろう。
 ちゃぷん。温度の無い、冴えた青い水が耳元で跳ねる。耳朶を擽るのは鱗が青い魚だ。それも眩い程、目が眩む程に青く、宙を我が物顔で泳いでいる。黄昏の青空さえ薄いと思わせる程の、そんな色をして。青の何処かに潜んでいる誰か、何か狡賢いものが、そうだ間違いないと、理性の皮を被って囁いていた。

「大丈夫?」

 仰向けに転がっている青は、漸く自分の体勢と現状を理解した。水中─正しくは睡蓮の咲き誇る池の浅瀬─に己は身体を横たえている。そして自身の身体は沈みゆく様子が全く無い。普通であれば水に沈んだ泥が手に纏わりつく筈だが、滑った土の感触も無く、青の指が掬い上げたのはさらりとした細かい砂であった。そしてさめざめと泣き腫らすような真白い空を、真っ青な服を着た玩具の兵隊が律儀な動作で列を成し、まるで道があるかの如く歩いている。ふわふわと綿菓子の如く浮かんでいる雲はほんのりと桃色に色付き、子供のよく読む絵本に出てくるそれに似ていた。太陽は可愛らしい顔で柔らかな陽光を降らせ、その反対側にぷかりと浮かんでいる満月は、周囲に欠けた自身を首飾りのように連ねている。
 此処は異常だ。正常ならば、有り得る話ではない。加えて青と、瓜二つの顔が大人しく自身を覗き込んでいる。青い瞳。黒い髪。幼い顔立ち。淡い緑色の寝巻きに、紺色のカーディガンを羽織っているその姿は、何処となく病弱そうに見える。雪のように淡い空に眩く目を細めて、青は漸く口を開いた。

「中学の時の俺……」
「俺は貴方だよ。でも、貴方も俺だね」

 何の迷いも躊躇も無い肯定。青が鮮やかな青い髪を掻き上げる。降り頻る雨粒色の空が、更に白んだ気がした。
 ばしゃんっ。水を跳ねながら、青は勢いよく起き上がる。わあ、と黒髪の少年は水辺で小さな声を上げる。しかし然して驚いた様子は無い。
 池の水が染み込んでいるとばかり思い込んでいた学校の制服は、不思議な事に水気一つ無い。さながら快晴。靴も髪も、皮膚も同様。しかし突如として生まれた大きな波紋に驚いたのか、睡蓮がゆらゆらりと揺れた。青はそれを眺め、見つめ、目の当たりにしてしまった現実に目を背けるように、眉根を寄せる。僅かな沈黙。眉間の皺を指で押さえ、広げるようにして青は混沌と化した脳内を整理しようと少年に話し掛ける。

「此処は?」
「蒼の箱庭だよ。誰かがそう言ってたんだ」

 蒼の箱庭。そう呼ばれる場所を、己は未だ知らなかった。
 そして誰か、その誰かを問い詰めようとは、何故だか思わなかった。恐らく青が知っている人物だが、それが誰かは今は分からない。されど直感だけが叫んでいる。『確実に知っている人物だ』と。
 ふと見遣れば少年の背後に、大きな青い茂みがあった。中央に白い薔薇が咲き誇っている。それらは幾つもふわりと嬉しそうに咲き綻び、次の瞬間には悲しげに首を垂れて萎れていく。それを何度も何度も、繰り返している。その速度は現実では有り得ないものだった。青の感じている時間が可笑しいわけではない。最初から分かっていたでしょう、と言わんばかりに少年が首を傾げた。つまり青は今、この少年の内部に居る事になる。奇妙な感覚。特に疾しい思考など持っていない筈なのに、腹の内を探られている。そんな気がしてならない。否、元から隠す必要など無いのだ。彼は自分が青であると、確かに発言した。ならば、己も彼を知っている筈だ。
 其処まで考えて、青は顔を上げた。先の薔薇が綻ぶ様子の如く、少年は微笑んでいる。そこで青は、己の辿った道の正解を知った。
 ゆっくりと立ち上がる。真白い空は尚更真白くなり、何時の間にか兵隊達は何処か遠くの、飴色の空を歩いていた。その空は二時の方向のように思う。しかしくるりと回転し顔色を変えた空に、青は溜息を吐いた。

「お兄さんが居る事で、俺は雨宮晴あまみやせいという、俺を認識するんだよ。そうしたら、はるには戻れない。それが狙いなのかもしれないなって」
「誰の」
「ありす」

 ありす。
 ふ、と使われていなかった感覚が首を擡げる。それは秋の黄昏のように、涼やかさを通り過ぎた風のように青の脳裏を掠めて、可愛らしい悪戯をした子供さながら逃げようとする。

『ねえ、ありす。君は何処から逃げ切るつもりだい?』

 ぼやけた光景を引っ掻いて、出来てしまった白い跡が脈拍と共に痛む。想起されるのは、幼馴染と同じ瞳の色。よく熟れた苺色と、甘く焦げた茶の髪。柔らかな声音、大人の輪郭を象った彼は、何処か寂しそうにしながら青を挑発していた。
 よ、と心にも無いが口から勝手に飛び出した声を自身に掛けて、青は立ち上がる。じんわりと血が巡っていく感覚。晴はそれを見つめて、中腰の体勢から、青と同じくすんなりと腰を上げる。掛け声がない。これが年齢差だろうか。いや、自分は十分若い。後半に差し掛かったとは言えまだ華の十代だ。

「それで? そのありすは俺を此処に呼び出して、お前がお前だと認識したならもう十分じゃん。帰してくんねえ?」
「うーん、無理かな。此処は俺の意思だけじゃあ、動かない場所なんだ」
「夢だろ、此処。なら覚めろよ」
「無茶を言うね」

 来るべき時が来るまで、少し互いの事を話そう。結論としてはそうだった。
 小さな苦笑をふいと逸らし、青は周囲を見渡す。一番近い空からは白や紅、橙色の星屑が零れ、天ほど高さのある大きな瓶へほろほろと落ちていく。零れた虹色の星達はどうやら金平糖に変化し、空に程近い大きな獏の主食となるようだった。桃色の身体の獏は、夢から覚めたくないとでも言うように、面白くなるくらい緩やかな速度で、一心不乱に金平糖を食している。
 ふと思い出して、先程まで横になっていた池を振り返る。しかし其処には何も無かった。在るのは無いという概念だけにも思える。何も無い。これが夢というもだろうか。

「不思議?」

 そう問われ、素直に頷く。青の存在がある世界でこのような可愛らしい夢物語があれば、底から冷えている心も多少は温まるだろうに、と卑屈にも感じてしまう。どちらかと言えば吐き気を催すような出来事ばかりが起きる。自分が死ぬ夢を見て、守れなかった夢を見て、いい加減に嫌気が差していたのも事実だ。
 かちり。ぼーん。上でこちこちと働いていたらしい、鈍色の大時計がゆらゆらと振り子を左右に振りながら、時を告げる。その長針は十二、短針は六を指していた。何故鐘の音が一度きりなのだろうか。知識でしか大時計を知らない青には分からないが、特に意味は無いだろう。勝手に推測をして、再び晴に視線を向ける。目移りしてばかりだね、と言わんばかりに微笑まれ、青は息を詰めた。

「お話の続き。俺ね、記憶が継ぎ接ぎだらけなんだ。小さい頃の事あんまり覚えてないし、身体も弱くて学校にろくに行ってない。お兄さんとは大違い」
「それにしては、色々知ってる風な口利くじゃないか。ユーリイ・ガガーリンとか」
「地球は青かった。でもあんな言葉、言ってないんでしょう」

 笑むのは確証があるからだ。彼は恐らく知っている。自分の知らない事を、よく知っている。無知がどれ程の恐怖と羞恥を以てして襲い来るか、青は弁えているつもりだった。

「カール・テンツラーは?」
「あの人の事、俺は嫌いじゃない。お兄さんなら、ああいう時、どうする?」
「どうしようか。守れない時ばかりだから、わからないな」

 己にもっと守れるだけの力があれば。
 夢から覚めても後悔ばかりが迫り、背に張り付き、にたにたと哂う。お前は無力だと、雨乃宮で培ったもの等無意味だったのだと、時間には逆らえないのだと。そう言われている気がしてならなかった。
 ぽこん。頭上にハテナが出現する音を思わせる、そんな音がした。小さな梨の実が一つ青の眼前に現れ、ぷかぷかと宙に浮いている。果物のこんな登場の仕方は生まれてこの方初めて見た。腕を持ち上げ、手を広げると、それは素直に青の手の内に収まった。姫林檎程の小さな実はやはり梨であり、たっぷりと水分を含んでいるようにも思える。そしてこの実は、その果汁は恐らくとびきり甘い。

「愛情、癒し、慰め」
「何だ、それ」
「梨の話だよ。食べてあげたら?」
「いや、帰れなくなるのは嫌だな」

 梨に気を遣われてしまった。しかし夢とは言え、何があるか分からない。黄泉戸喫は御免だ。有難うなと呟き、足元の玉子色をした柔らかくふっくらとした地面を掘る。そして手の中にある梨を其処に埋め込んだ。何故だか、こうしていれば瞬く間に木が伸びて、同じような梨の実を沢山実らせるという確信があった。

「そうだね。きっと、立派な木が伸びて、可愛い実が沢山生るよ」
「勝手に思考を読むのをやめてくれ、気味が悪い」
「だって、流れてくるんだもの」

 減らず口を叩く晴は、相も変わらず薄く笑んでいる。少年のカーディガンがはらりとはためくが、青に風は感じられない。若しや、彼の周りにだけ爽やかな微風でも吹いているのだろうか。夏の夜のようだ。生温い風でも、それこそあれば現状は変わってくる。じ、と見つめていると、違うよと返事が返ってきた。少々残念だ。
 晴は唐突に、見知らぬ声を消すかの如く頭を左右に振る。心の臓付近を掻き毟るようにして服に沢山の皺を作って、そして小さく呻き青に背を向ける。青にはそれがごく自然なものに見えた。声はかけない。邪魔をしてはならない。彼は変わる。晴から、きっと、違うものに変化するのだ。

「なに、帰れんの」
「ああ、帰れるぞ」

 拙い声音が、明確な意思を持って、青に語り掛ける。晴よりも随分と大人びた、青自身によく似た声。俯いた顔、吊り上がる口角。『彼』は、青に恐ろしく似ている。寧ろそのものと言っても過言ではない。彼は青だ。そして雨宮青は、彼を知っている。彼を知っていた。そうだ、彼は。
 晴の髪が、蛇の如く伸びていく。青はただそれを見ていた。黒い髪が、明けの群青色に染まっていく。青はただそれを見ていた。晴の服装も、同時に変化していく。それは青も身に着けたことがある、黒い学生服。青の直感が、空へ吐息を零すように理解を示した。彼が、この城の主だと。

「ありす、それがお前の名か」
「ご名答。そろそろ帰っても良い頃合いだ。でも此処に来たからには、何か置いて行ってもらわないと」
「何を」
「魄を」

 青は黙り込む。それは、いけないものだ。先の梨を口にしていたならば、確実に差し出さねばならないものだった。魂魄。生きねばならない青、雨乃宮青廉は、それをありすにはいどうぞと差し出すわけにはいかない。
 するとありすは晴の顔をしたまま、青によく似た表情をしてみせた。それは彼自身がよくするのだろうか、苦笑のような、困ったような、どっちともつかない微笑み。どうやら、先の発言は悪い冗談らしい。

「お前さ、俺がどんな処で生きてるか知ってるのか?」
「いんや、知らない。だから試しに言ってみたんだ。雨宮青、お前さんはあんな冗談を真に受けるくらい、恐ろしい場所で生きてるんだろ」

 自身の目が細まるのを感じた。それは無意識に支配された動作の筈。何故自覚する事が可能であったのだろう。ありすは青の様子を見て、今度は愉快そうに笑んだ。それを不快に思う青は、やはり晴やありすとは異なる人格でしかない。
 ぽーん、と先程とは違う音で、鐘が三度鳴る。そろそろだ。ありすがそう思考したのを、青は知った。空は地平から緩やかに、澄んだ真昼の色へと染まっていく。

「”俺達”には分からない。お前さんの事なんて分からない。だから、ちゃんと生きて帰れよ」
「よく言う。引き込んだのはお前のくせに」

 木がぶつかり合う音。青がありすから視線を外すと、足元にはふっくらとした小さな木製の人形が幾つか転がっていた。一つ、転んで緩やかに回転している。周りのおもちゃ達は、それをどうすれば良いのか分からないようで、ただただ狼狽えていた。
 出来る事、可能な事は、必ずしも最善と言える事はないだろう。例えば、指先で掬い上げるだけ。それだけだ。助けるべきか。否、それはいけない事だ。

「そう。この世界に手助けは無用だ」
「つまりお前は何が言いたかったんだ」
「幼子に、言い聞かせてほしかった。だが彼奴は、夜市に呑まれた。本当はもっと早く、青に逢わせたら違っていただろうに」

 ありすはそれを可哀相等とは思わないだろう。夜に呑まれ消えてしまった幼子は、もう戻ってはこない。御伽噺のせかいに浸り落ちただけだと、彼は笑った。空とも海ともつかない髪を靡かせて、唇を吊り上げ笑みを作って、そうしてありすは、消えていく人格を惜しむ事も無く見送る。しかし副人格故の逃れられぬ道だと笑うのだろう。
 おもちゃ達は何時の間にやら青の足元から忽然と姿を消していた。そう遠くない場所で、彼等の悲鳴が聞こえる。ありすは首を傾げて、気にするなかれと笑んだ。
 三歩の距離、ありすは青に花弁の如くふわりと近付いた。青は、他人との無意味な接触を酷く嫌う。しかしありすや晴は拒む理由が無い。存在しないのだ。
 冬服の為、締めたネクタイに滑らかに触れる指先が、近しいものに対しての仕草に思えてならない。身長は、青の方が高いらしい。必然的にありすは青を見上げる格好になる。群青色の瞳。紫と深い青の境界線を溶かした色が、青を見上げ、ふ、と微笑んだ。

「簡単だよ。晴がお前の最初だからだ」
「何を、言っている」
「さぁて、さよならだ。また、縁があれば」

 とん。空の荷物を押して移動させるくらいの、無気力な圧。上空へ沈む感覚、発生する気泡。白んでいた空が急速に蒼く、あおく、深くなっていく。嗚呼、早く瞼を閉じなければ。このままでは彼の純粋さに溺れて、呼吸が出来なくなってしまう。ありすは青を拒んだ。ならば、青とて同じ事をしても許されるのではないだろうか。きつくありすを、晴を拒絶する。
 次に視界が透明になった時、青は雨乃宮の自宅、自室で水を引っ被ったようにびしょ濡れで横になっていた。緩やかに起き上がろうとしたが、冬の寒さに身体が軋んで上手く動かない。彼の中では、そんな事は無かった。今の出来事は一体何だ。自分は何を体験した。何を、目の当たりにした。

青廉せいれんよ、何処の沼に浸かってきたのだ」
「……六郎太ろくろうた

 白い糸を垂らして、六郎太が天井から滑らかに、青廉の手の甲へと降りて来た。彼は土蜘蛛の妖怪だ。掌程の大きさで─怒れば一軒家を木っ端微塵にする事くらいは造作もない大きさにまで変化するが─、足の先は如何にも柔らかそうな灰色の被毛がある。八ツ目であり、その色は下から焦げた茶色、上の目へゆく程に鈍い金色へと移ろっている。青は年端もいかぬ頃合いから、その目が好きだった。夜闇に紛れていても、自分には一目で分かるからだ。その少年を、青廉を、幼い頃から六郎太はずっと見てきた。今は亡き父親の代わりのように、兄のように見て来た。しかしそんな彼でも、先の夢は知るまい。知る筈がない。

「どうした、どうした。我が主よ。一体何処で、そんな目に遭ってきた?」
「夢の中。……雨乃宮あまのみや家当主が、寝惚けた事を言っていると笑うか」
「否。青廉よ、主は今の今まで、其処に存在していなかった。先程、突然現れたのだ。夢の中に居たと言うのであれば、我はその言葉を信じよう。……その恰好では風邪を引く。風呂に入って来ると良い。丁度、毛倡妓けょうろうが用意を済ませたところだ」

 成程、六郎太の発言は事実だろう。実際、青廉は突然攫われたも同然なのだから。青い桜が吹雪いて、かなしいとさざめいていた。しかしその涙が、青廉を此方まで送り届けたのだ。恨む等出来やしない。
 六郎太が、青廉の手の甲で小さく身動ぎをする。擽ったいよ、と訴えれば、ひたとその動きを止めるのだから面白い。彼は忠実だ。彼と違って。
 彼。彼とは。嗚呼、誰だ。君は誰だった?

「青廉。その夢の中で、誰と逢った」
「ああ……俺だった、のに。思い出せない」

 戯けた言葉を口にしていると、叱り飛ばされる可能性は否めない。それでも青廉は彼の、己の夢を見ていた。彼の作り出した己の夢の中で、息をしていた。
 陽炎、泡と消え逝く御伽噺のような。彼はそれを望んでいたのだろう。