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星渡りの豹



 猫が、時富ときひさを導くように駆ける。その足跡は星空の如く、二本の線の隙間を縫うが如く軽やかに。
 果たして此処は何処だろうか。
 時富が瞼を開くと其処は自室では無かった。色濃く暮れた、簡易的な駅のホーム。其処には車掌らしき人物が一人、佇んでいるように見える。時富の存在に気付いたその人物は、些か慌てたように、しかし紳士的な歩みで時富の居る場へと訪れた。そうして彼は、一言。時富を坊や、と呼び、自身の膝を折って時富と視線を合わせる。

「坊や、貴方はお利口さんですね」

 其の男がぴしりと着こなした制服は、夜の奥へその先へ、即ち行き止まりの色をしていた。首から下げた小さな笛、肩に掛けられた濃い影色の小さい鞄。暗い色の帽子を目深に被って、男は柔らかく笑んだ。幼い時富は、その笑みがどういう意味であるか未だ理解は出来なかったが、自分が男にとって邪魔な存在であると感じ取る事は出来た。しかし利口と言われる所以は無い。何処にも無かった。

「賢い坊や。此処の事を、決して、誰かに話したりしてはいけませんよ」
「どうして?」

 時富は問う。見知らぬ者と、その様な約束事をする義理は一切無いように思えた。故に問う。星空を模した制服を着た男は、小さな困難に躓き、小首を傾げる。

「坊やはまだ生きていますから。……彼方へ。さあ、彼方へ向かって、真っ直ぐ歩き続けてください」

 自分は生きているから、此の事を誰にも話してはならない。決して話してはならない。それは非常に強制力を持った強い言葉だ。きっと一生、口外してはならぬ程の出来事なのだろう。
 両脇に手を挟まれ、至極簡単に持ち上げられる。そして歩んできた方向とは真逆に、くるりと方向転換されてしまった。あ、っと言う間の出来事で時富は瞬きをするしか出来ない。大の大人と年端もいかぬ子供。力の差は歴然である。試しに手足をばたつかせてみるが、男はそれでも構わない様子で、時富を十数歩先の場所で下ろす。そして規律に反する存在である時富の、その背を押して脱出させようとする。
 伝えねばならぬ事がある気がした。そうだ、猫だ、星だ。それを誰かに伝えたかったのだ。

「あの、おじさん、あの」
「はい?」
「星が見えたんだ、沢山」

 星。その言葉に男は中腰の姿勢の儘、時富の背を押そうとした儘の体勢でひたと固まる。どう答えて良いか思案している、大人は何時も、多くの場合そうしてしまう。幼いながら、時富はそう感じていた。何時もそうだ。母のようなひとは目を泳がせて、そうね、と言いながら視線をずらしてしまう。誰かさんは目も合わせずに、これはきっと悪い大人だ。自分はそうなりたくはない。真っ直ぐに目を合わせたい。父と会えたならば、その声や態度の比較が出来たろうに。
 その優男の表情は、曖昧な笑顔である。時富は何時の間にやら、その星空の制服を握り締めていた。ほんの僅かな沈黙の後、男は再び時富に声を掛けてきた。

「坊や。星以外には、何か見えましたか?」
「……猫」
「ほう、猫。その猫は、何処で、何をしていましたか?」
「……、線路の上を、歩いてた。星の中から、何かを見つけたいみたいに」

 ふぅむ、と制服姿の男は時富の肩から手を離し、次いで素早く立ち上がる。届かなくなってしまった。星空から手を離す。何が恋しいのか、時富は寂しさにも似た痞えを自覚する。幼く言葉にもならないその蟠りは、男には通じない。知っている。他人に何を期待しても無駄だと。
 そう思考している内に、男は胸元のポケットから小さな機械を取り出し、もし、と話し掛ける。するとその機械から若い、金平糖を零すような声と、微かな雑音が聞こえてきた。

守東かみあずま。聴こえますか、星渡りの豹が訪れていますよ」
『はっ!? この時期に!? どうして……』
「私にも分かりませんよ馬鹿者。幸い今夜の乗客はまだ居りません。運行を遅らせます」

 金平糖が幾つも零れる最中に、驚愕した声が混じる。星渡りの豹は、大人にも驚かれる程の、其れ程の種族らしい。会ってみたかった。真正面から、その目を見てみたかった。後姿では無く、正面から。導かれるのではなく、対等に。
 不意に男がくるりと此方に顔を向ける。そしてにこりと笑むと、また時富に視線を合わせてきた。

「坊や、放ってしまって申し訳ありません。お帰りは彼方です。近くまで、一緒に参りましょう」


***

 ふつりと途切れた声、引き上がる意識。澄んだ朝陽が、天井へ手を伸ばしていた。時富は仰向けの儘、嘆息する。曖昧になった、大事にしまっていた夢の中身。只、あの男は恐らく車掌か何かである事は確かだろう。
 決して誰かに話してはいけない夜の噺。其れは、死者を乗せる夜行列車の噺。