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綺羅星碧む、燈と



 目を覚ましたのではない。落ちたのだ。
 それなのに風はない。五体満足、露は風圧も感じず落下している。

「――……!」

 自分らしくない。か細い声が喉から絞り出された。悲鳴だった。だがそれは言葉にもならず直ぐに掻き消えてしまった。
 たすけて。露は、そう求めようとした。紺色の瞳を持つ、あのひとに。此処には居ない。きっと、居ない。
 落ちた先、何故か立ち竦んだ後。決して振り返ってはならぬ暗闇の中に、露は居た。

「おまえ、それ、ほし」

 何時か聞いた声が、暗闇に蠢いて谺する。壁など、こんな場所にありはしない。まるで箱の中、伽藍洞だ。しかし身体にこびりつくかの如く反響するそれは、何時だったか、過去であることに間違いはない。この声は聞いた覚えがある。ゆえに露は警戒心を抱いていた。記憶にあるその声は、まだ少女だった露を執拗に追いかけ回し、唐突に消えてそれきりだった。それが再来したのだ。怖いものが、また己に接触を試みている。今度は何をするつもりであろうか。

「つ、めた……!」

 足元から、急速に這い上がってくる冷気があった。これは、近付いてはならない類のいきものが発する吐息だ。熱はない。温もりなどありはしない。だが、今の露に逃げ場はなかった。露の両足は、黒い地面についている。今、露の傍に居るのは純然たる晦冥かいめいである。月の光など、此処に在りはしない。

「ほし。それがほしい」

 何か。歪な細長い、嫌に白い肌質をした手のような――到底ひとのそれとは思えない長さだ――ものが、勢いよく露の喉を掠める。驚愕から、露が声を上げようとする。上げようとした。にたり、笑む気配。

「もらった! ああ、あぁ、おれのものだ!」
「っ……!」

 背後から、頭上から。聞いた憶えのある声音が、耳を劈く程高らかに笑っている。紛うこともない、女の声。あのひとに、綺麗だと褒められた筈の、露の音声おんじょう。今はそれが、その声が。愉しそうに、温度もなくわらっていた。
 私のものだ。それは、私のものである筈だ。
 唇を開く。吐息が漏れ出る。それだけだった。

「――……」

 何か対抗しなければならない。しかし術が見つからない。その間にも、露の声が、露の頭上や周囲をぐるぐると巡っている。胸の内に心地の悪い靄が生まれ、渦巻いて止まらない。厭だ。酷く不愉快だった。
 光の差す隙間もない暗闇から、露の肩を押し出す、見えぬ圧力があった。後方に露の身体が弾き出される。もう要らないとでも言うように。もう用済みだと言うように。

 恐ろしいことが、眼前で起きた。だが、それは夢だった。
 夢の中で露が弾かれた先は薄暗い場所だった。数ヶ月前に越してきたばかりの、自分の部屋。厚いカーテンが、窓から差し込む朝日を遮断している。薄暗いのは、薄ら寒いのはその所為だ。此処は安心出来る場所だと解っている。なのに、心臓が早鐘を打っていた。全力を以てして、長い距離を駆け抜けた時のようだ。呼吸も安定していない。ベッドで横になっている露は天井を見つめ、先程の信じ難い夢を回顧していた。
 呼吸が落ち着いた頃合い。緩やかな動作で身体を起こす。両手を組み、頭上へ。背筋を伸ばし、あたたかなベッドからの脱出を試みる。水が飲みたかった。快く身体に染み渡る感覚がほしかったのだ。
 着替えもせずに台所へ向かう。寝間着のままだが、誰も居ないひとりの空間だ。此処は露だけの城である。許されて然るべきだ。小型の食器乾燥機にて、己の役割を全うしようと佇んでいた湯飲みを軽く掴む。それに連れ添ってもらい、蛇口を捻った。水道料金はきちんと引き落とされている筈だ。
 水を湯飲みに溜め、もう良いと思ったところで水を止める。そうして湯飲みを煽り、水を喉奥に流し込む。

「――……」

 飲み終わり、湯飲みから唇を離す。声を伴わぬ呼気が吐き出された。声と共に溜息を吐いた筈だった。
 唇を動かす。過去、己が縛りつけてしまった神の名を呼ぶ。否、呼ぼうとした。出来なかった。
 声が出ないのである。声帯が空になってしまった。振り絞れるものが何もない。在る筈のものが其処にはなかった。

「……、……」

 言えば良かった。助けてほしいと。一縷の望みを賭けて、叫べば良かった。もしかしたら、彼は来てくれたかもしれないのに。
 誰も居ない部屋、露はその場に蹲る。フローリングの床、足は緩やかに冷えていく。
 どうしたら良かったのか、見当もつかなかった。あれは一体何だったのか。よくないものであることだけは確かだ。人のものを盗み取るなんて、悪いことである。しかしそれがどう悪であるのか。じわりじわりと緩やかに沸騰する湯の如く、奪われたことに対しての怒りに身を支配されかかっている露には、その善悪の判定は曖昧なものでしかなかった。

***

「恐らくは、貴女の姿が欲しかったのでしょう。そういったものを集めて、不埒なことに利用する輩は少なくありません」

 神が言う。実に簡潔である。
 露は、沈思した後に、紺の住まう柚木の家を訪ねた。呼び鈴の音を想像していた露は、柚木の土地に足を踏み入れた途端に引かれた玄関の戸、その向こうに居た彼の登場に面食らった。しかしそれは実に間合いが良かっただけだったらしい。紺は、朝の空気を堪能しに出てきただけだと言う。だが心細さに泣けもしなかった露は、彼の姿を認めた瞬間安堵し、足の力が抜けその場に崩れ落ちてしまったのである。
 そうして彼女は、彼に介抱されて今に至る。幼い頃は柚木家に上がり込むなど、考えたことさえなかった。
 紺が用意した座布団に言われるまま座り、露は沈黙していた。沈黙するしかなかった。
 気付かぬ間に憑かれ、声を奪われ、しかも姿まで写し取られたのかもしれぬ。そうして、逃げられた。抵抗する手段がないとは言え、あまりの情けなさに露が俯く。向かいに座る紺は、ただ露を見つめていた。言葉を思案しているようにも見られるが、露には何も分からない。相手は神なのだ。何を感じているのかなど、人の身で解ろう筈もない。

「露。貴女が思い悩むことは何もありません。貴女は何も悪くないのですよ」

 紺が柔らかな声で諭す。何時かの幼子に言い聞かせるかのように。露が物言いたげに唇を薄く開き、噤んだ。思いもかけずかけられた言葉に彼女は正座したまま、太腿の上に置いた手をぎゅうと握る。
 露が人ならざるものに声を奪われて、二時間が経過していた。その一刻の間に、露はどれ程歯痒い思いをしただろう。己の胸中に黒い漣が立つのを、紺は感じていた。
 紺には、人のこころの機微が解らない。立場も異なる、違ういきものであるのは変わりがない。人間同士でさえ、時に解り合えぬと反発するのだ。神だからとて、全てがお見通しなどと勝手なことを喚かれても困る。お前の呼吸など些末だと、無礼な人間を跳ね退けたい時もあった。昔の話だ。
 紺が徐に立ち上がり、露の傍へと寄った。

「露、喉に少し触りますよ」

 彼女に触れるまで。畳の目で数えて十六目を残した紺は、露に伺いを立てる。彼女の肩が震えた。

「……、……」

 しかし露は、彼の言葉に素直に頷く。僅かに顎を上げて触れやすくした身体は、強張っているように見えた。異性のかたちに慣れないのであろう。彼女に触れる寸前、紺は刹那、躊躇った。されど彼の手を阻むものは何もない。紺の指先が触れた皮膚は滑らかで、あたたかかった。
 紺が瞼を閉じる。人の誰が見ても自然な仕草を知るのに、彼は長い年月を要した。
 彼女の喉に触れた指先、其処に残った気配。夜闇よりも深い景色、薄く細い煙が流れていく。或いは、水の中に絵の具を溶かした風景にも似ている。その尾を辿るのは、紺にとっては容易であった。
 女の姿が、其処にあった。隣には嬉しそうな表情をした男がいて、もしや恋人か、夫婦かと見紛う程仲睦まじく見える。だが女の姿はどこか露に似ている。紺がその現実に眉を顰めた。女の着ている服、翻る瑠璃唐草色の裾は、その背景に似つかわしくない程柔らかで明るい。それを纏う肌は嫌に白かった。男と甘い雰囲気を醸し出しながら話してるその女の、長い髪に覆われている後頭部が、ばくりと二つに割れる。そこに、分厚い唇、鋭利な歯が無作為に並ぶ口内が見えた。唾液と思しき粘度の液体が地面に滴る。男は気付かない。女との会話に夢中だ。細長く厚みのある舌が彼に伸びる。無防備な手首を掴む。男が驚愕に瞠目する。此処から先は、簡単に予想がついた。

「何の仕業か、分かりました。此処で待っていてください、取り返してきます」

 紺が、露の喉から指先を離す。何をされたのか。彼女には解らないだろう。解らなくて良い。知らずとも良いことが、この世には掃いて捨てる程ある。それをきっと、彼女も知っている筈だ。だがそれは紺の思考の怠慢かもしれぬ。人は、人が思っているよりも無知である。その心地を抱くのは神とて同じことだ。
 己の喉を緩やかにさする露が、紺を見遣る。柔い孔雀緑にも似た色の瞳から、紺に対する信頼と不安が見て取れた。紺には、露の言いたい言葉が未だ解らない。何と言いたいのだろう。
 露が視線を下に落とす。見える翳りの原因は不甲斐なさであろう。迷惑をかけてしまったという自責の念が、露のこころに色濃く蟠りをつくっている。彼女の悪い癖だった。何も悪くないと、最初に話したのだが。それでも思考の闇に惑う彼女が愛おしかった。

「貴女は此処に居てください。決して外に出てはなりませんよ」

 露が不承不承、頷いたのを確認して紺は席を立った。

 生憎の曇天。涼やかな風が吹き抜ける。湿度は高くない、過ごしやすい気候である。麓の辺りまで出向いた紺は、人気のない路地を歩いていた。人の姿をしている紺にも、厳しさのない気候は非常に快かった。
 恭介の用意していた服に袖を通して歩いている紺は一見、好青年に見えていることだろう。靴に至るまで、恭介と彼の妻が揃えたものだ。柚木夫妻は、紺を人形宜しく着飾るのが好きだった。そのお陰で紺は助かっている。普段の恰好では人目を引いてしまうと、二人から聞き及んでいた。彼等の息子の代替が、上手く出来ているのか。夫妻は紺を土地神と知ってなお人とそうするように、紺に接した。夫妻は紺を神だからと、特別扱いしない。二人の息子の願いを叶えている紺には、頭が上がらぬ筈である。しかしそれが、紺には心地良かった。

「こんにちは」

 人の挨拶。瑠璃唐草色の柔らかな裾が、舞うように紺の視界に入り込む。聞き間違えることなどない、露の声。物思いに耽っていた紺の意識を、ぐんと浮上させるには丁度良い刺激だった。
 土地柄ゆえか。この界隈は若人も出て行き、活気はろくにない。そんな中、紺はこれに話し掛けられるのを待っていたのだ。恐らくこれは、桜忠のひとのような、見える可能性のある人間を好む傾向にある。能力のある人を喰うのは、何も人同士や獣だけではない。
 彼女の声が、彼女ではない、ただの化物から発されている。そう思うと、紺は今すぐにでも眼の前の相手を咬み殺してやりたい衝動に駆られる。その毒牙を理性の蓋で閉じて、紺は一般の参拝客に向けるような人の好い笑顔を浮かべた。視線は女に合わさぬまま。
 それも知らず、獲物を見つけた女が微笑む。

「ね、どこか行かない?」

 女が紺に近付き、その手をそっと握る。見上げてくる顔は、よくよく見れば可愛らしい部類なのかもしれぬが、残念だ。紺は、露以外の女など興味がなかった。今すぐにでも馴れ馴れしい手を振り解きたい程である。
 しかし瑠璃唐草色をしたワンピースは、女の、人のものとは思えぬ白い肌によく似合っていた。

「ええ。二人きりになれるところへ、連れていってくれますか」

***

 二人きりになれるところ。
 そう誘った紺を、女は人気のない街中から更に外れ、足場の悪い道へと案内していた。緑を掻き分け、ざく、ざく、と土を踏む音はどこか不穏だ。これでは、聡い人間であれば気付くだろうに。
 目の前の女から、血の臭いがする。鉄銹てっしゅうの放つそれ。どうして気付かないでいられたのだろう。そういえば人の嗅覚は、動物よりも鋭敏ではなかったかもしれぬ。

「此処から先、街がよく見えるの」

 服を汚しもせず振り向いた女は、嘘を吐いていた。街を一望するならば、この道は正しくない。最初に写し取った女性のものであろう、紫の瞳は悪戯っぽく煌めいている。それは悪戯ではない。れっきとした悪意だ。

「僕で三人目か。お前、そんなに人を喰って何がしたい」

 この場に人の気配がなければ、紺はそれで良かった。これを懲らしめるのに、人の目があると都合が悪い。

「なあに、突然」
「何がしたくて、その声を奪った」
「……この声の持ち主と、知り合いかね?」

 僅かに首を傾げる女は、自身の白い喉を指差す。微笑んでいるその口が、両端からぴりりと皮が捲れるように裂けていく。後頭部も、大口を開いている頃だろう。肉厚で長い舌は、紺の手足、或いは首を今か今かと狙っている。だが、その程度で紺は怯まない。人間で言うならば、腸が煮え繰り返りそうな心持ちだった。

「あの娘の声は、天上の星のようだった。だから奪った。昔は逃げられてしまったから。この声、綺麗だろ?」

 愉しそうに笑う声。それはあの子のものだ。
 他から奪い取ったものを、己のものとして使う。堪能して、陶酔して、そして利用する。これを為す全てが、紺は気に食わなかった。
 女の手足が、先程よりも伸びている。常人のそれとは思えぬ長さ。そういった怪異が存在するやもしれぬと、聞き及んだことがある。成程、そういった類の怪異が実在するならば、人の足では到底逃げおおすことはできぬだろう。

「そうだ、お前さん。最期に聞いておいてやろう。名は?」
玻璃紺青はりこんじょう

 紺が名乗った途端、そのいきものがつくった表情と、纏う空気が凍った。彼を喰らい尽くそうとしていた気配が掻き消える。

「あ、こん、じょう……さま……?」

 紺に向けて伸びていた手が、舌が。怖気付いたのか、猫の尻尾のように曲がり委縮する。縮み上がったそれらを見て、紺は笑んだ。この名を知っているならば、話は早い。

「なあお前、その声をこれに返すだろう?」

 紺が懐の衣嚢いのうから取り出したのは、つるりとした丸い石だった。人に成り損なったそれは、紺が示すその石と紺を交互に見遣ると、ぎこちなく何度も頷いた。今すぐにでも、この大蛇おろちの前から逃げ出したい。逃げて、生き延びたい。そのような焦りが見えた。

「ゆ……ゆるして、紺青さま」

 醜い、悪意の塊が発する命乞い。瑠璃唐草色のワンピースの裾が、生温い風に遊ばれる。

「その声で、私の名を呼ぶな」

 何も許してやるつもりはない。女のかたちを模していた白いからだは、さながら鍾乳洞の如く指先から溶け、人のかたちをろくに成していなかった。人の姿も保てないのであれば、そもそも化けねば良い。

「――……!」

 溶解し、乳白色の液体にも近しかった化物は、その言葉を最後に内側から急速に乾燥し、瞬く間に灰と化した。叫ぶ暇などなかっただろう。痛みを感じる隙などなかっただろう。それで良い。
 紺が手に握り込んでいる玉石が、ほんのりと温かい。これが露の持つ声のぬくもりだ。これを、紺は彼女から聞きたかった。

「……帰る」

 一言。涼を感じる風が、動くことを思い出したように紺の頬を撫でていく。先程の灰は、風に吹かれる間もなく消えてしまった。

***


「帰りました」

 玄関の戸を後ろ手に閉める紺を、待つ気配があった。穏やかで、柔らかな。この気配を、紺はずっと捜していた。今でも、なお。
 露が、急ぎ足で玄関にて紺を迎える。憂虞ゆうぐを隠しきれていない様子だが、紺はその表情を見て微笑んだ。

「戻りましたよ。露、良い子で居ましたか?」
「……!」

 彼女の頬を撫でる。紺の手の方が冷たいとはいえ、露の頬も彼が思っていたより冷えている。顔色も良くはない。だが露は、紺の言葉を聞いて安堵した色を見せていた。
 急ぎの用事がある。玄関先でも構わない。紺は、彼女に声を返さねばならなかった。

「どうぞ、貴女の声です」

 手に握り込んでいた青い玉石を、紺が露の喉元に近付ける。びしりと亀裂が入ったと思うと、その青い石は瞬く間に溶け、見えなくなってしまった。
 ひく、と肩を揺らした露が、喉と口元を押さえ、三つ程咳き込む。
 ひとつ、溜息をついて。そうして彼女は、紺と視線を合わせた。

「おかえりなさい、紺さん……その、大丈夫ですか」

 大丈夫、とは。紺が首を傾げる。何か心配されるようなことを、紺はしたのだろうか。否、そんなことはない。紺と露は、二時間程度は顔を合わせていないのだ。憂慮する点は、何もないように紺には思えた。
 ええ、と彼女の言葉に紺は相槌を打つ。何も起きていないと言えば真っ赤な嘘になるが、紺の身には何も異変はない。その答えで問題はないだろう。

「それより、喉になにかが足りない感覚や、違和感などはないですか。全部掬ってきたと思うのですが」

 何を掬ってきたのか。露には理解し難かった。話の流れからすれば、それは声であろう。声を掬う、とは。人の身には実感の湧かないことを話しながら、紺は露の目をじっと見つめる。紺は彼女の声が好きだ。だから、星の欠片かけを一粒も落とさぬように持ち帰ってきた筈だった。
 履物を脱ぎ柚木宅に上がった紺は、声を取り戻した露を一旦また居間に座らせ、自身は着替えると言って別の部屋に引っ込んだ。神でも着替えの場面があるのか。露が思い起こすと、彼は先程まで見慣れぬ洋装をしていたような気がする。普段の着物姿も凛として良いものだが、洋服を着ているあのひとも恰好良かったとぼんやり考える。何時か、ふたりで並んで歩いても許されるだろうか。やはり一歩後ろからついていく方が良いのだろうか。

「お待たせしました」
「ッ……!」

 びくん、と露が身体を跳ねさせる。その挙動に紺も驚いたらしく、僅かばかり瞠目する。そんなに驚かれるとは思っていなかったのだ。気を抜く程安心していると捉えたなら、前向きで良いかもしれぬ。
 露の座っている隣に紺が座る。紺は、些か人恋しかった。否、露が恋しかった。露が紺に向き合うように座り直す。彼女の手が白いのを見て、紺は思わずその手に己のそれを重ねた。

「暖房をつけても良かったのですよ。寒かったでしょう」
「あ、……有難うございます。でも紺さんを待っている間、寒いと感じる余裕がなくて」

 苦笑いする彼女は、何時もの聞き慣れた声をしている。紺は、自身の胸中を荒らす黒い漣が、緩やかに凪いでいくのを感じていた。

「寂しかったです。ひとりで、紺さんを待っている間」
「え、」
「声が出なくて心細かったから……ひとりにはなりたくなかったんです。でも」

 ついて行ってもお邪魔でしょうし。
 露の声が、その語尾が。自信なさそうに小さくなっていく。紺は内心、酷く狼狽えた。人間は脆いものだ。それは柚木夫妻から聞いて、教えてもらって知っている。だがこんなことで。この程度、離れただけで。彼女の瞳は石を投げ込んだ水面のように揺れていた。

「……すみません。ですが、此処に戻れば露が居てくれるのだと思うと」

 それだけで、僕は安心出来たのです。
 道中、そして止まった後、柚木家に帰るまで。何があったかを紺は露に伝えない。伝えるつもりがない。それは露には関係ないことだ。話したとて、彼女は神の為すことに文句は言うまい。だが露を害したものの顛末など、伝えたところで少なからず衝撃だけを残すだ。ならば最初から話す必要などない。彼女は何も知らなくて良い。

「綺麗なものだけが欲しいわけでは、ないのですけど。そうであるものだけ、貴女に伝えたくて」

 随分と、人に慣らされたものだ。紺は思考の端でそう感じていた。しかし紺は性格上、人を慈しむことに興味はない。人ならざるものの類にも、特に執着することはない。細やかに気遣うようにと、刻むように教え込まれたこれは、柚木家の人間が持つ性質だ。順応したのは紺の持つ些か柔い神性でもある。

「あ、紺さん、……」

 紺が露の喉から項へと手を滑らせる。自然と前へ、紺の方へと喉を反らせる体勢になった露は、どうやら戸惑っている。その困惑を飲み込んでやりたくて、紺は露の喉に唇を寄せた。

「えっ、……」

 滑らかな肌。舌先でなぞると、露の身体がひくりと震えた。柔くそこに吸い付いて、そうして離す。こんなところに男の気配など残されては、彼女も後が大変だろうが。

「か、みさま……」

 彼女は、紺をそう呼ぶ。畏怖を込めて。畏敬を込めて。慕わしそうに、そう呼ぶ。今は少しだけ、羞恥も混ざり込んでいるようだった。

「ずっと一緒に居ると、こういうことにもなるのだろうか、と」

 言霊ひとつを信じ込んだ、それは紺の弱さだった。
 唇を確認するように触れる紺を前に、その先を想像した露がほんのりと頬を染める。間違ってはいない反応かもしれぬ。だが一緒に居ることが、必ずしもそういった話に進むとは限らぬ。人間の想像力については神も舌を巻くことがある。辟易する時も、勿論ある。
 露の思考は解らなくとも、それで良いと紺は思っていた。

「綺麗な音をしまっているところは、慈しみたくなります」
「……、きれいな」

 紺は続けて露の喉を撫でる。肩を震わす露の身体は緊張か、些かかたいように思えた。これでも配慮はしているつもりだった。慣れは必要だ。いつまでも怯えられていても、困り果てるだけである。

「露。僕は貴女を一等愛おしく思っています。声だけではなく、貴女自身を」

 執心を囁く。一等星の輝きの如く在ってほしいのに、そのひかりは微かであってほしい。これは酷く傲慢な願望だ。彼女を貶めたいのではない。だが、害をなすものに目敏く見つけられる、その魅力は封じ込めてしまいたかった。己だけが知っていれば良いと、彼女を閉じ込めてしまいたくもあった。
 だがそれは朝と夜ほど、色が違うのだ。どうして愛したものを傷つけることを良しと出来ようか。
 例えば紺がそうでありたいと望み、人の身に堕ちてしまえば。きっと、今よりも彼女との関係はうまくいく。しかしたったそれだけのことが、紺には出来なかった。愛している彼女に望むことしか、出来なかった。
 昇華も出来ないような想いを抱えるものではない。理解はしている。だが縛られていた。全て彼女の所為にしたなら、どんなに楽になるだろう。しかし幼子の言葉による束縛を望んだのは、紛れもなく玻璃紺青だ。今更撤回するつもりもない。嗚呼、それでも。
 こんなものを、こんな穢れたものを。彼女に差し出したいわけではなかった。

「何時か僕は、貴女に触れたいだけの男に成り下がるのでしょう」
「かみさまなのに、ですか」
「ええ。僕だけかもしれません」

 どうか、どうか。このせかいが、あなたに相応しくありますように。