煽られた母は為す術もなく、袖を白く濁らせる。時折、濡れた砂が隆起して、小さな丘を浜に作った。凪など知らぬと波が打ち寄せ、引いていく。
海だ。空気は只管に静まり返り、手も伸ばせぬ程に美しく澄む。冷え込む時季の海、彼は海が好きだと言っていた。
「何か、楽しいのですか」
次期領主に、アシュレイは問うた。水平線を只眺めていた彼は、緩やかに右手を宙に振り翳す。
今は夜明け前である。他に誰も居ない砂浜で、主人と従者は生きていた。他に誰も見当たらない。誰か、居たとしても良いだろうに。いっそ呆れる程に、人間もその他の種族の影も見えなかった。魚でさえ。否。こんな浅瀬を泳ぐ筈が無い。
「別に楽しさはないけれど。リリィに見せたら喜ぶかなとは、考えていたよ」
この青年は妹の事しか頭に無い男だった。成程、期待をする方が間違っているのだろう。
主人である青年─リシャールに問う事をやめ、従者は沈黙する。手首の上まで袖を捲り上げて波と戯れている主人は、アシュレイの気持ちなど慮ってはくれない。甘えているのだ。この従者は既に諦めて己の傍らに居るのだから、少しくらい帰りが遅くなっても構わないと。
「レーイはさ」
リシャールは、従者である青年をそう呼んでいる。
領家においては、非常に珍しい事だった。
「レーイは、きっと風を連れてくる。俺はそう思う」
突拍子もない主人の発言に、アシュレイは首を傾げる。確かに今は、風が強い。空にはあの星が煌々と輝いているのだ。あれが見える頃は強風になると、よく聞く。
だが解らない。アシュレイには、リシャールの言葉の意図が読めなかった。この子供は、何時からこんなにも生意気な思考を巡らすようになったのだろうか。
「でも、リリィは駄目だよ」
「何がです。お嬢様はまだ、長旅には出られないでしょう」
「だったら安心だ」
この子供の言う事は、いまいち理解し難い。
リシャールがアシュレイを振り返る。波打ち際で、深い菫色の瞳が煌めく。まだ、日は昇っていない。何故彼の目を眩く感じるのか。長年生きているというのに、アシュレイには解らなかった。
「帰ろうか、レーイ」
寂しそうに笑む。彼の、この子供の感情は、読み解くのに時間が掛かりそうだ。
強い風が吹き抜ける。解るまでに、彼が生きていれば良い。巡って、何もかもを忘れて。また彼に、一度だけ会いたいと思った。