※首絞めなど軽度の暴力表現があります。
夢で逢うなら、彼女が良かった。
「そんなに落胆しなくても良いだろうに」
異形の言葉がくわん、と悪戯に
真白の夢。その中心部に匡は居た。此処は、墨染の異形の領域である。それを匡は知っていた。事前に知識があった訳ではない。こんな場所に好んで訪れる程、物好きではないのだ。
眠る前、匡が見ていた見慣れた天井にはこんな激しさは無かった。この空間は何処を見渡しても、深い雪の照り返しよりも眩い。己の影さえ見当たらない。ただ眼球を疲弊させるだけだ。少なくとも匡はそう感じていた。
「すまないね。君を招く場所が此処しか無くて」
「模倣は貴方の得意分野では?」
否、否、否。それは愚の骨頂である。
その言葉が、匡の思考回路に突如文字として飛び込んできた。否応なく理解せざるを得ない。この化け物は何だってするのだ。それが他者の妨げであっても平気で、知った事ではないのだろう。
眼前の白が、曖昧に、ぼやけた灰色になる。白に滲むように、微量の黒を其処で捏ねるように。ひとの姿をゆっくりと現していくその無彩色。匡は時計の針を早めたくなる衝動に駆られた。墨染の靄が立派にひとの姿を模した時、匡は不快感を表情として露わにした。
「僕と同じ顔をしないでくれないか」
「こればかりは私にもどうしようも出来なくてね。我慢してもらうしかない」
それならさっさと帰してほしい。
匡と瓜二つの顔。喪服のような背広に白のシャツと紫のタイを合わせ、艶を弾く黒を靴にあしらって。それが洒落た格好なのか匡には判然としない。化け物のせかいの流行なんて知ったことではないのだ。
だが頭から爪先まで全身くまなく見ても、彼は匡そのひとであった。声までそっくりなのは、不思議を通り越して非常に不気味であり、恐ろしく気疎いものだ。
「
何処からそんな話題を持ち出して来たのか。心臓が一際大きく跳ね上がった。息苦しさに、匡の右手は衣服の上から其処を掻き毟るように蠢いた。それを見たひとの化け物は愉悦を覚えたのか、にんまりと笑む。
「愛している人が、居るのだろう?」
化け物が再度、諭すように口を開き、事実を確認する。匡の表情を何一つ逃すまいとしているのか、その暗い柘榴色をした瞳は好奇心に満ちていた。
自分の顔を、これ程までに滅茶苦茶に潰してやりたいと思った事は、匡の人生の中、一度として無かった。内臓を、金属製の小さな匙で細かく突かれ抉られるような心持ちだ。胸中が痛む心地。それに反して身体というものは、相も変わらず心の臓が脈打ち、呼吸もお手の物であった。
「彼女を騙している気分は一体どんなものなのか、君自身から一度聞いておきたくて」
そう思っていたから、君が此処にやって来たのだろう。
「誰も騙してなんか、……」
「此処は君の生きている場所とは違う。何も気にしなくて良いよ。普段の、憤懣遣る瀬無い思いを吐き出したって構わない」
本当は彼女を騙しているのだ。そう一言落としたとて、証人は居ない事にされる。そう、化け物は言っているのだ。
彼女の弟は治ると、匡はあの時に嘘を吐いた。それは医者の特権である。だが可能性のひとつを断言としたのは好ましくない言動であった。彼女は盲信こそしなかったが、当初は藁にも縋る思いだったに違いない。
その女性に、お前が欲しいと牙を立てた。そうする事で己の立場が凋落する可能性を知りながら。
「僕は」
求めてきたのは彼女からだった。そう、事実を交えた言い訳をするような汚い男だ。
「立場上、
好き勝手に喋る化け物である。見てきたかのように話す。本当に見られていたのかもしれない。
しかし彼の言う通り、笑う通りに、例えば月の真裏、晴れた海にこの身を沈められたら。そうして真綿に埋もれながら息を止める事が出来たら、どんなに良いだろう。蠱惑的な言葉が思考を掠めた。
それでも。匡は首を緩く左右に振る。
「散々でも、生きるしかないんだ」
汚らしい欲に全てを任せた夜が、捨て去りたい程厭わしい。
「希望も無く生きたくないくせに」
空気が大きく動いた。
己のそれと似た大きさの手が、匡の喉を鷲掴みにする。嘘を吐くな、偽りを並べるなと締め上げて、それでも匡は呼吸が自由であった。化け物の手に力が籠っていない、否、そんな事は無い。握力さえも彼は正しく化け物だった。事実、匡の踵は浮いている。この真白な空間に、重力が存在している事の方が最初は不思議であったが。
首を締められながら、匡は至極冷静であった。息継ぎが可能であるがゆえであろうか。
この化け物が彼女を突き放したがる理由が匡には解らない。彼女の何が気に食わないのだろう。顔か、言動か。それとも。
「私は、あの性質がどうしても許せない。此処の裏側にある世界なのに、君しか手が届かないのに、あの女の目を抉ってやりたくて」
ふ、と。化け物の手から力が急に抜ける。勢い余り、匡はその場に崩れ落ちた。
「どうして、千世」
匡とよく似た、深い声が揺れる。同時に、硝子に亀裂の入るような鋭利な音が、匡の耳に届いた。
===
夢が覚めたら、一番に彼女に逢いたかった。だが匡はひとりでしかなかった。
見慣れている天井。澄んだ朝日が一筋、窓から差し込んでいる。目を細める。眩しい。一面真白のせかい。あの凍えそうな程に冴えた、冷たい白とは違う。これは暖かい白だ。
横たえていた身体を起こす。数秒、意識を失っているかの如く放心していた。はたと気付く。ぼやけた視界、力無く投げ出した己の左手が見えた。
そうだ、首だ。そこを締め上げてきたひとの手の感触を、あの力を匡は憶えている。投げ出していた右手を持ち上げ、指先で喉をなぞる。皮膚に異常は無いようだった。後で鏡を見なければならない。それは匡の胸中に芽生えた義務であった。
「散々でも、生きるしかないんだ」
己が夢で発した言葉を繰り返す。
何も知らなくても生きていける浅ましい実態を、あの化け物は匡にぶつけていた。匡の普段接する人間たちの慟哭に、彼の物言いはよく似ていた。ただ、その一言で済ませてしまうには、彼のそれは過重であったが。
誰かへの執着だけで動いているような。いっそ哀れにさえ思う程の。
「……どうして、千世」
そんな言葉だった。自分のものと酷似しているのに、匡が発した事さえ無い哀情を伴って震えた声。角膜にこびりつき、何時までも消えない。