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墓も無い



※人体の損傷、流血などの描写があります。


 これは夢だ。
 見知らぬ家の中。硝子戸で外と仕切られた廊下に、すいは立ち竦んでいる。身体が、指先さえも動かせない。すっかり冷えた腹の内に、氷の塊を幾つも抱えているような心地だった。だが、どうやら視線だけは自由になる。景色と呼べる程他人の色をした窓の向こう側へと、目線を泳がす。彼岸花が幾つか咲いているのが見えた。三つ目の季節。此処は秋に取り残されているらしい。
 ごとん。歪な音がした。日常で聞く機会など無いような、歪んだ音だ。
 視界を音の震源地、右方向へと動かす。畳の間が見えた。女性らしき肢体が、其処に転がっている。それから分離したと思われる首は、巨大な白い獣が忙しなく食んでいる最中だった。赤黒く広がる体液が、屋内の彼岸花のようにも思えた。
 ぐじゃりという粘着質な水の音が、翠の思考を眼前へと引き戻す。首を食べ終わった獣が、今度は身体の方を食べている。ああ、食べ方が汚らしい。やはり獣である。口の周りを赤く染め、一心不乱に人だったものを喰っている。翠は喰われているそれを、母だと思った。

「だあれ」

 肩が大きく跳ねる。己の身体が勝手に機能し、意思と共に動く事に、翠は漸く気付いた。
 背後から聞こえたのは少女らしい、ひとの声だった。振り返る。暗い廊下に浮き上がるように、白い死神が其処に居た。
 本当に少女だ。白い制服を身に纏った少女が、廊下の曲がり角に居る。端正な顔立ち、ほっそりとした手足は病的なまでに色白だった。しかし、真に驚くべきは彼女の顔である。翠と瓜二つなのだ。だが翠はその現状に異論を唱える気にはならなかった。この状態は、そうあるべきものだからである。ならば、仕方ない。此処は変化を拒む場所だ。翠は理由も知らぬが、それを知っていた。
 硝子戸の向こう側。毒々しいまでの黄昏を反射した少女の左目が、刹那、翡翠色に煌めいた。少女が首を傾げる。翡翠色の幻を見た。彼女の瞳は毒の空を映す、宵の藍色である。

「嗚呼、そう……貴女、私なのね」

 昔、こんな声をしていたかもしれない。翠の胸中に懐旧の情が芽生えた。
 唐突に、酷い臭いが濃霧の如く立ち込めた。全く以て奇異な空間だ。血腥い。その黒は視界にも鼻腔にも、こびりついて消えてはくれない。寧ろ濃くなる一方であった。

「母が亡くなったの」

 見れば解る。翠は言葉を飲み込んだ。それは思慮に欠けるものだ。発してはならない。
 何時の間にか白く巨大な狐は忽然と姿を消していて、この世に翠と少女だけになっていた。可能な限り首を動かさず、周囲を見渡す。母の亡骸も、血痕も。何事も無かったかのように、異常な黄昏に飲まれて消えていた。

「私も、もう死んでしまう。その前に兄に逢いたかったのだけど」

 今回は無理みたい。
 残念そうに呟く少女は、人を愛した瞳をしていた。

「お兄さんには、逢いにいけないの」
「もう駄目、時間が無いの。ほら、あそこに」

 少女が庭を指差す。鉄葎が雑然と絡み合う一角、隙間には闇が見える。成程、墨のようなあの闇が、少女を殺してしまうのだと翠は理解した。
 何故少女が亡くなる事になるのか。翠は刹那考えて、その疑問を放り投げた。此処ではそうなるのだ。そうならねば、いけないのだ。

「ねえ─……」

 ばつん。
 最期に、と少女に声を掛けようとした、その時だった。少女の首から上が無くなった。飛んだわけではない。消えたのだ。不思議と血飛沫は上がらなかった。
 時を同じくして、翠は闖入者を確認した。
 彼の人によく似た、柘榴色の視線。その色に見覚えがあった。匡の瞳は、もっと柔らかい苺色だ。ゆえに、このひとは違うのだと判断出来た。
 その瞳は、翠を嫌悪しているように見えた。整った顔が憎悪を湛えて歪んだ。彼の手が伸びる。袖口から手袋に包まれた白い手が、翠に向かって伸びてきた。その手は、翠の眼を抉ろうとしているように、翠には映った。身体が、動けるであろう事を忘却してしまっている。冷気を伴った手が、翠の左目、瞼をぐいを押し上げる。白い指先が眼球に触れた。

「た」

 ただすさん、助けて。
 そう叫ぼうとした己が居た。
=== 
 唐突にせかいが閉じる。強制的に消えていった虚な夢はやはり夢でしかなく、また幻であった。
 あんな世界に生きていたなら、彼ともっと近付けただろうか。もっと己の生を大切に出来ただろうか。
 未だ暗い部屋で瞼を上げた翠は、額の辺りにつきりとした断続的な痛みを感じていた。空気が冷えている。冬を満喫しろと言わんばかりに肺の中で腕を広げ寛ぐ空気。邪魔だと吐き出す。呼吸を誰にも教えられないまま、上手に熟す己が憎らしい。
 寝返りを打つ。枕元に、入眠前に飲み下す為の薬の殻が一枚、放ってあった。中身の薬はその時に全て飲み切ってしまったらしい。それに関する記憶が無い。もうやめてしまいたいのに、やめきれないのは己が惰弱であるからだ。少なくとも翠はそう考えていた。
 冷えた重たい瞼が、再び閉じてしまえと唆してくる。眠ってしまえ。まだ薬の効果は体内にしっかりと残っている。何も悪い事は無い。平気で嘘を吐き甘える、自分の脆弱なこころを憎む。何をしたって清く正しい人間にはなれない。
 朝の気配は遠く、己の知らない彼方に居る。明日を信じず、今日が終わってしまえば良かったと、願わずにはいられなかった。