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せかいの終わりがほしい


 傘を、置きざりにしてしまった。
 開いたノートに、今まさに書き込もうとしていた手が急に止まった。無色、半透明の硬質なからだが魅力的なペンを握ったままで固まった兄を、妹の暁音あかねが見遣る。露草色の瞳は兄とお揃いだ。だが、ただひとつ異なる点がある。彼女は光を弾く瞳をしているが、兄の火夜かよはそうではない。入り込んだそれを抱えて取り込んで底に押しやる。夜の湖。妹の暁音は、兄の瞳からそんな印象を受けていた。

「暁音。傘、持ってる?」

 その手がやっと、途中で止まっていた数式を書き出し始める。因数分解。展開で散らかした数式を綺麗に片付けていく。それを暁音は苦手としているようだった。今は妹の勉強を見てやると同時に、火夜の復習と予習の時間だった。
 その兄が、課題をこなしながら、急に暁音に尋ねた。何かを咎められたのか、何か間違えたのか。暁音はびくりと肩を跳ねさせたが、火夜の質問を脳内で繰り返す。答えはすぐ傍にあった。

「ある……折り畳み、だけど」

 大きいのは、学校に忘れたの。ちいさな声で付け加えて、暁音は恥ずかしそうに視線を伏せる。その瞳を見つめる兄が居る事も知らずに。彼は妹に焦がれていた。道ならぬ恋だ。火夜はそれを幼い頃から飲み込み、歪なかたちに育んでしまっていた。
 視線に気付いた暁音が顔を上げた。軽く、硬い音が聞こえそうな視線の交差。瞬間、それを逸らしたのは火夜だった。

「明日どうしよう。今日の夜から明後日まで雨だって、天気予報で言っててさ」
「火夜、傘忘れたの?」
「うん。俺のも学校にある、と思う。盗られてなければ」

 どこまでも兄妹である。ふたりはそれを十六年傍に居た今再び、深く頷きながら理解した。傘の存在を置き忘れる場所も、時期も同じ。そんな巡り合わせは不要だと言うのに。

「どうしよう」

 吐息と勘違いしそうだ。密やかに呟かれた火夜の声を、暁音は聞き逃さない。だが兄の様子から心境を掬い取れる程、妹は兄を理解出来ていなかった。解っているなら、誰かと共に遊ぶ事を彼が許さない理由も、齟齬無く溶かせる。暁音はそう信じて疑っていなかった。

「どうしたの」

 兄へ問いかける。
 彼は妹の考えの及ばない場所で、ひとり佇むことが多い。学力の問題ではない。想像の居所、目を閉じた時立ち竦んでいるところが異なる景色をしているだけだ。火夜は、斜陽も木漏れ日も差さないところに、ずっとひとりで居る。
 火夜が目を伏せ、瞼をゆっくりとおろす。灯りを僅かに反射していた瞳が見えなくなり、暁音は胸の内に僅かながら寂しさを感じた。それの名称が正解かは判然としないままだが。

「例えば今、この区域が豪雨に見舞われたとするでしょ。そしたら俺達は何処にも行けなくなる。するとおまえは、俺と大体ずっと一緒に居なきゃいけないわけだろ。そうなったら、暁音はどうする?」

 一息に紡がれた、兄のこころに潜んでいた言葉。妹はそれに溺れそうになりながら思考を巡らす。だが、質問の意図が解らない。首を傾げる暁音は、その瞳を曇らせた。言葉の意味は理解出来る。つまり火夜と長時間共に居なければならない、その状況をどう考えるかという事だ。
 心の臓は相も変わらず脈打っている。外では雨がぱら、ぱらりと降り始めた。異常に当たり前が崩れた時、お前はどう行動するのか。どんな答えを出すのか。そう問われている。当たり前など、何時壊れてもおかしくはないのだ。
 す、とひとつ空気を吸い込んで、静かに吐き出す。暁音は彼の問いに対しての解答を既に持っていた。

「火夜はそれが嫌じゃないのでしょう」

 伏せられた火夜の瞼が、ゆっくりと開く。その下に隠れた瞳に、失望の気配が無ければ良い。暁音は兄に見放される事だけは、一例として考えても、どうしても受け入れられなかった。

「そうだね」

 妹の確認に、兄は一言だけ返した。嫌である筈がないのだ。俺がどれ程お前を好いていると思っている。妹を抱きすくめてやりたい衝動に駆られたが、火夜はその芽を思い切り踏み潰した。

「なら、一緒に居よう」

 暁音の声を聞き、火夜はその頬に安堵と喜色を滲ませそうになる。妹が己の元から逃げない。それ程嬉しい事はない。しかし、それを刹那にして掻き消した。抱えてはならない感情だ。これ以上は抱ききれない、火夜にはその確信があった。
 幸い、暁音の持つ火夜の印象は夜の如く濃いが、その影が持つ色は随分薄い。それこそ長年火夜が続けてきた努力の賜物だった。嘘を吐かず、自分の本当のこころを露わにしない。火夜の持つ片割れを騙す手段は稚拙なものだったが、効果は覿面だった。血の繋がりだけでは、理解出来ぬ場合もあるらしい。

「俺は、世界の終わりには雨が降っていたら良いと思ってる」

 即ち、本当に思っている言葉を彼女に伝えれば良いのだ。そうすれば、ころりと暁音は騙される。人が良すぎる妹は、火夜が見ていなければ、誰かに連れ去られても文句が言えない。何処にも内包してはならぬ感情を、幼く傲慢な理屈で押し込めて、火夜は生きていた。
 風が強く窓を揺らし、何時の間にか強くなった雨が容赦なく窓硝子を叩く。ふたりはその雨風に構ってはいられなかった。聞こえてさえいない。双子であるふたりの最中に流れる時間は、他者を断絶するものだ。

「その時に、暁音と一緒に居たい。おまえがどう思っていようが、関係ないとさえ考えているんだ」
「いいよ」

 妹は兄の要求に対して、是のみを持っている。それしか知らないのだ。せかいがどう終わろうが、自分がどう絶えようが、兄さえ良ければそれで良い。暁音はその答えしか持ち得ていない自分を、幾度苛んだか憶えていなかった。だがそれでも、火夜をひとりにするのは、命を賭しても違うと言える。確固たる芯、誰にも何も言わせない。

「ああ、そう。そうだね、おまえはそうだ……」

 そうだ、ともう一度繰り返して、火夜は口を噤んだ。己がそのように妹を教育してきたのだ。終わりを求めたら、妹はそれに応える。例えそのこころが異なる言葉を叫んでいても。
 風が轟々と鳴る。雨はそれに呼応するかの如く鋭さを増す。兄を世界とする彼女に、火夜は己の降らせた雨の冷たさを思い知るしかなかった。