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ふたり 01






 ―1―
 
つゆちゃん、こっちに戻ってきんさいよ。佐和さんも亡くなられたし、皆寂しがっちょるけん」

 若者が居なくて寂しい。祖母が居なくて寂しい。だから何だと言うのだ。
 ある春の日の午後。誰の指先から知ったのか。露に電話を寄越したのは、祖母によく目をかけてもらっていた人だった。彼女も桜忠おうただの血を引くひとで、露も幼い頃には世話になっていた記憶がある。だが、それだけだ。昔の事だ、ただそれだけの筈だ。

「佐和さんはよう見えとったけど、露ちゃんはどげな? まだ見えるんかいね」
「いいえ、見えんですよ」

 嘘だ。薔薇も卒倒する程の真っ赤な嘘だ。
 だが電話越しの相手は、あらそう、と六十路の坂を超えた女性特有にも思える、落胆した言葉と声音で答えた。
 桜忠の家には、目の良い人間が多く居る。これは単なる視力の話ではない。
 人が見ないものを見る。人の目に映らないものを見る。それは至って清く美しい存在であったり、そうでなくとも悪意を持たない存在であったりと様々である。人間の持つ好悪の感情で、眼球の映すものに分け隔てなどない。目がある限り、他者と同じものも見えるのだ。それを映さぬようにするなど出来よう筈もなかった。それゆえに、悪意を持つ存在や他者に干渉される事も儘あった。人によっては悪戯心から揶揄われる事もあっただろう。中には己の道を閉ざす如く自死を選ぶ者も居たという。桜忠の家の者は、皆一様に口を閉ざす事に長け、沈んだ表情をしていることが多かった。
 その陰鬱とした空気を大層嫌ったのが、露の祖母である佐和だった。彼女は桜忠家に生まれ、一族の誰よりも強い目を持ち、それでいてなお人の道を歩む人であった。彼女はその時代、さぞかし異端として扱われた事だろう。露はそう思う。当時は女性の地位は低いものだった筈だ。それをあっけらかんとした、盛夏の太陽のような笑顔や語気で吹き飛ばしていたのかと考えると素晴らしいと拍手を送りたくなる。露の記憶の何処か、その片隅には常に祖母の存在がある。からりとした笑顔や態度は、この集落にとっては正しく太陽であったに違いない。
 その祖母が、去年の暮れに亡くなった。見届けることは出来なかった。

「露ちゃん、今は何のお仕事してるん? 三味線は佐和さんに習っとったいうて聞いたけど」
「一応、会社勤めはしています。三味線は副業で」
 面倒だ。面倒でしかない。こうやって上辺だけの知り合いに根掘り葉掘り尋ねるのを、露は快しとしていなかった。
「とにかく、いつでもええけん帰ってきんさい。会社勤めも立派だけど、御仏前に手ぇ合わせるのも恩返しよ」

 蝿の羽音のような、一々耳に障る声だ。勝手に連絡をしてきて、勝手に失望して、勝手に理想を押しつけてくる。迷惑千万、厚顔無恥。だがそれを口にするのはいけないことだ。祖母はきっと喜ばないだろう。

「近いうちに、一度帰ります。それでいいですか」

 この返答をしたのが、そもそもの間違いだったのか。
 否。露にとっては、正解であったのかもしれないが。

 
 ―2―


 雪の解けた香りがする。新たに柔らかな緑が芽生える気配もする。五月の大型連休にはまだ早いが、嫌なことを後回しにしてもなお一層嫌な心持ちになるだけだ。気色悪いことは先に済ませておくのが吉であろう。目標は五泊以内に全ての縁を切ることだ。こうして帰省していては、出来よう筈もないが。
 スーツケースを引きながら、記憶と寸分違わぬ景色に、露はうんざりとしていた。だが過疎の進むこの地に、未だバスが通っていたのは幸運以外の何物でもないだろう。
 今は田植えをするには時期尚早、だが他の作物を育てるのに土地は十分にある。緑は豊かだが、都会にあるものは一切ない。自販機があれば運が良かったと言えよう。田に近付けば藪蛇が出没し、秋冬には猿や熊も山から下りてくることがある。露の実家は、そういう場所だった。
 何もない。あるのは時代から取り残された因循いんじゅんだけだ。
 ただ一ヶ所、露も毛嫌いはしないところがあった。神社だ。昔、亡き祖母に連れられて参拝したその神社には、身を冷やす程清涼な空気が流れていた。
 階段を下りたくない。家に帰りたくない。
 そう駄々を捏ねて、祖母を困らせたことがあった。その神社の手前まで歩いてきた露は、ふと旧懐の念を刺激された。居もしない祖母に、逢えるような気がしたのだ。
 初夏までは、まだ日がある。だが真上まで昇った太陽は容赦なく春の日差しを届けてくれる。一休みしたくもなる。
 スーツケースから手を離さず、露は神社の階段の端にそっと腰掛けた。大した段差はなく、平淡な道である。階段も自ずと低くなり、神社の敷地内にはあと数歩というところだった。
 飛行機に乗り、空港からバスに乗り、それを下りてまたバスに乗り。タクシーも駆使して。いくら若かろうが、長距離の移動は相応の疲労も溜まる。
 溜息をひとつ。遠く流れる川の方面から、河鹿蛙かじかがえるの綺麗な鳴き声が聞こえる。まだ冬の気配を纏わせる、冷えた風が吹き抜けていった。麗らかな春の日だ。凝り固まった田舎の、どうしようもない自然だった。

「おかえりなさい」

 春の日差しが、こころを震わせるかたちをとった。露の耳に届いたのは、そんな柔らかな声だった。しかもその声が紡いだのは、露の帰省を喜ぶ言葉だったように、思う。
 疲労感が肩に乗っており儘ならないが、露は背後のその気配に振り向く。そこに立っていたのは、平服の男性だった。薄い小豆色の髪に、色白の肌。切れ長の目は、空や海とはまた異なる、爽やかだが深みのある青だった。端正で、柔和な顔立ちをしているひと。年頃は露と同い年か、少し上の年齢であるように見えた。
 見知らぬそのひとは、神社側から露に声をかけた。参拝客だろうか。だが、彼は露におかえりなさいと言った。露を知っていなければ、そんな言葉は出てこない筈だ。このひとは一体誰なのだろう。

「えっと」

 一言、困惑した言葉が口をついて転がり落ちた。露の胸の内で、警戒心が大きく膨れ上がる。キャリーバーを握り締め、水分補給も行き届いていない声で相手を探ろうとする。
 すると青年は、ふんわりと柔らかく笑んだ。その笑顔で何人を虜にしてきたのだろうか。そんな魅力がある、穏やかな微笑みだった。

柚木ゆのきです。ここの神社の、柚木恭介はご存知ですか」
「えっ……あ、恭介おじさん……はい、知っています。けど、あなたは」
「僕は柚木の家で世話になっている、紺と言います」

 紺色の、紺です。糸偏に甘いと書く、あの字です。
 言いながら、青年――紺は、露の隣に立っていた。露は強い疲労感が足に蓄積していたのか、起立することさえ忘れている。それを気にも留めず、紺は身軽な動作で露の隣に腰掛けた。
 びく、と己の肩が震えたのを、露は隠せなかった。男性に対して恐怖を抱くようになってから、もう随分と経過するのに。まだ傷付けられることを恐れている。
 早くこの場から去りたくて、足に力を込め、よいせと立ち上がる。紺と名乗った男性は、露を見上げ、露は彼を見下すかたちになった。しかし紺は、不思議と立ち上がろうとはしない。紺と露の視線が交錯する。紺、彼の目の色のことを言うのかと、露は納得した。
 ふ、と紺は些か表情を曇らせながら微笑んで、露に問うた。

「憶えていますか。僕のこと」