今度こそ、あのひとを忘れてはならないと思うのだ。
実家に居たところで特に出来ることもなく、することもなく。強いて言うならば仏間で、露の祖母を悼む、他人の声を聞いていた。聞き流していた。胃もたれを齎すような嘘の言葉は、露にはよく理解出来た。口先だけだ。本当に悲しんでいるわけではない。露にはそれが心地悪かった。既に否定も肯定さえも出来ない死人について、とやかく言うものではない。それが祖母の話であるがゆえ、露は余計に気分を損ねていた。だが露もある程度は大人である。相槌を打つくらいの知恵は持っていた。母が居れば、少しは変わっていたのかもしれないが。
母は実家には居ない。露が居る間は、何処か別の場所で時間を潰しているのだと推測出来た。最低限の身だしなみなどを整えに帰宅することはあったが、露と話そうとする素振りはなかった。露が帰省すると話しても、彼女はああそう、と一言返しただけで電話を切ったのだ。露は母と仲が良くない。露の母は、当時中学生だった露が同級生の男子と肌を重ねたことを知ると、あからさまに態度と機嫌を悪くした。同意の上ではなかったのだと言えば、黙って手を引いて隣町の婦人科に連れて行ってくれた。その手は恐ろしく力が強かったことを憶えている。だが露が良い子で居ようとすればするほど、母は嫌悪感を通して娘を見ていた。何が悪かったのか。それが露には解らない。ただ己の主張や娘への反論、
露は、母に酷く嫌われているらしかった。亡き祖母は何も気にしていなかったようだが。
それゆえに帰省しても、母と積もる話などありはしなかった。居間に居てもお互い何の干渉もしない。食事面については買い置きされた材料が驚く程に用意されており、困ることはなかったが。しかしそれ程迄に拒絶されていることを痛感すれば、萎れていた心にかけてやるべき養分が根こそぎ流れ出ていくような心持ちになった。
気分転換をしようと玄関から外に出れば、春の陽光が燦々と降り注いでいた。室内はやはり暗いのだと実感する。しかも風はまだ冷たい。居間の椅子にかけていた上着を取りに戻る。羽織れば、都会の残り香があるような気さえした。場所が異なるのだから、香りも変わったように思うのだろう。
道路沿いに歩いても車など通りはしない。数時間に一度、走る車があるか否か。その程度だ。この辺境の地に出向く者などそう居ない。
庭の方面に視線を遣る。露が姿形、名前を知らぬ花が、其処で異彩を放っていた。周囲の緑が、恐ろしくその花一輪を際立てている。その花弁は檸檬色にも見えるが、山吹ではないだろう。山吹は花弁が五枚の筈だ。ではあれは何だ。知りたくて、その花を目指して歩く。少々足元が悪い。いつものことだ。田舎ではよくあることだ。だから早く行かなくてはならない。
不意に露の背を、一筋の冷えた風が撫でていった。びくり、と肩を震わせて露が背筋を正す。
其処に誰の存在も確認出来ないのに、何かに見られている。なにかに睨みつけられている。母に何度話しても、理解されなかった感覚。子供の頃から縁を切ることの出来なかった、桜忠家の者だけが持つ直感だった。
「誰?」
恐々と問うてみるが、それに答える声はない。暖かな陽光が降り注ぐにも拘らず、爪先から太腿まで冷たい空気が這い上がり、露の行動を戒めた。
これは、いけないものだ。関わってはいけない、平和や安寧を崩す危険なもの。だから逃げなくてはならない。此処から、一刻も早く逃げ出さなくてはならなかった。
それだというのに、露の両足は泥濘に嵌まったかの如く動かない。近付くべきではなかった。見てはならなかったのだ。早くしなければあの花は大口を開けて、露を食しにくるのではないだろうか。そんな大袈裟な錯覚を抱いた時だった。
「危ないですよ」
春を凍らせる薄気味悪い空気に、罅を入れる声があった。
「こんにちは、露さん」
振り返れば、其処にはついこの前出会ったばかりの青年が居た。
「……紺、さん?」
「はい、紺です。……ああ、珍しい山野草が咲いていますね。でもそこは危ないですから、どうぞこちらに」
手を差し伸べられる。不安定な足場に恐れをなした露が思わず触れたその手は、男性のものだった。知らない温度。ひととはこんなにも冷たかっただろうか。紺と露は違ういきものなのだから、体温が違うのも当然であろう。
「有難う、ございます」
「どういたしまして」
道路脇に引き上げられた露は、はたと気付く。何時の間にこんなに歩いてしまったのだろう。露は遠く見える実家と、目の前に居る紺を交互に見遣る。彼はどうして話しかけてくれたのか。何故気付いたのだろうか。端から見れば、露はただ立ち竦んでいただけで、大声など出していなかった筈だ。
紺が、遠く在る先の花を見遣った。
「あれは、草山吹に似ていますね。でも違う花ですから、近付かない方が良いです」
はい、と露が呟いて視線を落とす。手が触れたままだった。
「あ、ごめんなさい、もう大丈夫です」
「そうですか」
露が慌てて手を離しても、紺は気を悪くした様子など見せなかった。出会った時のように、ふんわりと笑む。露はその笑顔に、理由も解らぬまま安堵した。このひとが居なければ、どうなっていたか。人ならざるものに対して、警戒心を持たなくてはならない。それがいくら綺麗な姿をしていても。
「そうだ、露さん。もう朝香さんのところには行かなくていいですよ」
「あさか、さん?」
とんでもない名前が耳に飛び込んできた。三味線奏者でもある露を、その一面で贔屓にしていた家。恐ろしい程羽振りが良いが、印象は良くない。豪奢な邸宅に招かれて演奏した時には、明確な理由もなく滞在を強要されたこともある。ゆえに露は朝香家の人々を信用してはいなかった。
「あろうことか僕を追い出した家です。あとは廃れるだけですから、在る関係なんて今のうちに切ってしまった方が良い」
「はあ……」
「朝香翁のところへ出向いて、歌と音を聴かせていたと聞きまして」
このひとは、紺というひとは、不思議な事を言う。先の花も、朝香翁のことも。何故知っているのか。何を見透かしているのか、露にはまるで解らなかった。
「どこから、そんな」
先程とは異なる、爽やかな風が緩く吹き抜けていく。紺の背後に広がる青空には雲がひとつもない。夜になれば月が綺麗に見えるのではないだろうか。
「悪戯な風が運んできたんですよ。いつか聴かせてもらえたら嬉しいなと思っていて」
「それは、構いませんが……」
「ところで」
紺が僅かに首を傾げる。何か、親に訊ねる時の子供の仕草のようで可愛らしい。露はぼんやりと思考の端でそう考えた。
「僕のこと、思い出しました?」
紺は柔らかい表情をしている。そこに露を責め立てる気色は何処にもない。だが露はその返事を急がねばならないと感じた。
太陽は些か投げ遣りに午后を示している。此処で逃げ出しても、彼は明日も問うてくるだろうと、妙な確信があった。
「まだ、思い出せなくて。すみません」
正直に答える。彼に嘘は吐けない。嘘を吐いてはならない。嘘で誤魔化してはいけない。紺を相手にする時は愚直であらねばと、露の胸の奥深くが叫んでいた。その理由が知りたい。桜忠の血筋が喚いているならば、すんなりと納得出来る明瞭な事由がほしかった。
「いいんですよ。急かしているのは僕ですから。いやはや待つと言うのは、中々に難しいですね」
「教えてくださったって、いいじゃありませんか。貴方は私を知っておいでなのでしょう」
じれったい。どうして手掛かりさえも投げてくれぬのか。
実際、露はこの数日の間に話し相手をしてくれる紺との距離を測りかねていた。彼は知っているのに、露は憶えていない。それが歯痒い。見えない部分に発生する焦り、胸を掻き毟りたくなる程の掻痒感を収める術を、露は知らなかった。
だから、ねだった。大人気なく。自分では見つけることが出来ぬと白旗を揚げたのだ。
「いいのですか、お話しても」
紺の瞳が、きらりと輝く。露には、そう見えた。