※軽度の性暴力についての描写があります。
きっと此処に戻ってきます。
いつもの凛とした声は少しだけ掠れていて、震えていて。
実直に、その言葉を信じていた。
ゆえに喜んだ。そして落胆した。されど一縷の望みに賭けてみたくなった。
人通りもない道すがら。神社へと赴くふたりを、道路脇に列をなした人ならざるものは歓迎していた。
聞こえる。人ではない言葉。吹き抜けていく風に、聞き取りにくい雑音が混じる。それが彼等の会話なのだろう。露には解らぬ言葉。これをよく聞こうとしてはならないと、祖母が話してくれていたように思う。
人ではない姿がちらりと覗く。どくだみの葉に隠れた藤色の蛙が、つぶらな瞳で露を見上げている。憧憬のような、羨望のような。ふたつの感情の入り混じった視線が、露を射抜いている。その視線から逃れようとするのもおかしな話だ。露は何もしていない筈なのだから。露はそれらを見ないようにする。
「彼等が気になりますか?」
紺が不意に、隣を歩いている露に問いかけた。唐突な言葉だったがゆえか。露が肩を跳ねさせる。
見えているのか、彼等の姿が。聞こえているのか、彼等の声が。露の聞こえぬ彼等の言葉を、紺は理解しているのか。
「紺さんも、見えるんですか」
「ええ、見えますよ」
何もおかしな話ではない。見えるのは、聞こえるのは、至って当然のことだ。そういえば、柚木家のひとも見える人が居ると聞いた。露が知らぬだけで、それは紺を指していたのかもしれぬ。
己と同じように、彼は人ならざるものが見えるのではないか。だから、助けてくれたのではないか。
露はこころの奥底で期待している自分に気付いた。彼が好意を持って自分に接してくれているのがわかるからだ。期待もしたくなる。己と同じく見えるのだ。同じように聞こえるのだ。彼も難儀をしてきたに違いない。
「彼等を見る目を、桜忠の人はよくお持ちですね。それで困ったことも沢山あったでしょうに」
確かに、と露は頷く。大変でしたね、と困ったように微笑む紺を、本当にわからないひとだと露は再度感じた。露は人ならざるものと関わって、ひとつの例外を除けばろくなことがなかった。
碧い目と四つの尾を持つ、あの神だけは露を、そうだからと取り込もうとしなかった。だから信頼している。紫陽花の名を持つ神。凛と澄ましたあの横顔が、少しだけ恋しい。彼女は露にとって、姉のような存在である。
「着きましたよ」
紺の声が、露を意識の内から引き戻した。顔を上げる。彼と視線が合ったのも束の間であった。紺が目線を落とす。そこには色とりどりの、ちいさないきものが居た。身長は、皆挙っておよそ五寸というところか。角があるもの、目が三つあるもの、一つ目のもの。短い手足を騒がせて、紺に何やら意思表示をしている。到底人の子には見えないが、先程列をなしていた彼等と似ているようにも見えた。
「お前たち、通れないだろう。今は道をあけなさい」
紺が言うと、神社の前の低い段差に屯していたちいさないきものたちは、わあわあと何事か騒ぎながら思い思いの方面に散っていった。露を振り返ると、紺はまた困った風に笑んだ。
「すみません、奔放なもので……いつも注意をするんですけど、聞こうともしない」
「ふふ……構いませんよ」
胸の内を羽毛で擽られたような気がして、露はいつの間にか微笑んでいた。ちいさなものたちと戯れている大人の構図が、可愛らしいと思えたゆえか。目を丸くした紺に気付き、露が慌てて唇を引き結ぶ。
「帰ってから、初めて笑ってくれましたね」
「え」
「昔はよく笑っていたのに。中学生のある時分から、君は笑わなくなった。此処にも来なくなった。どうしてだろうと思っていたんです。でもやっと解った」
春の風が吹き抜けていく。敷地内の木々たちは、恐ろしいことが起きるのではないかと言わんばかりに、枝葉を震わせざわめく。彼等と似た予感を、露も感じていた。
恐ろしいこと。人間にとって恐ろしいこと。誰にも触れられたくない、しまい込んでいた箱の中身を暴かれるような。
「傷付けられてしまったのですね、露さん」
そう呟く紺は、それでも微笑んでいた。その笑顔は、何処か寂寥感を漂わせている。穏やかな信頼を裏切られたひとは、こんな表情をするのだろうか。
「あの、」
「人間の男と交わったのでしょう。僕が居るのに、ひどいひとだ」
露が息を呑む。あの厭な記憶を、どうして紺が知っているのか。露の持つ当時の記憶には、赤黒い染みがついている。出来れば思い出したくなかった。蓋をしていたかった。しかし、誰かの前で暴露しなければならぬ時が、やってきてしまったのだ。
「弁明を聞きましょうか」
紺が僅かに首を傾げる。微笑みを湛えながらも、何やら強い意思が感じられた。
嘘は言えない。誤魔化せない。彼に対して、そんな事は許されない。
そう、肌からひしひしと伝わる理由は、露には解らなかった。素直に吐き出したい思いも、それを柔く受け止められたいという期待もあった。露にとって、紺は殆ど知らぬひとである。おかしな話だ。それでも、此処で逃げてはいけない。何時か失望されるなら、碌に知らぬひとが良い。
「わたし……、私、あの時」
ぽつり、言葉が零れると、露の身体が震え始めた。寒気があるわけではない。それは紺の目にも明白であった。
いやだと言った。怖いと言った。なのに駄目だった。私を好きだと言っていたひとが。
ねじ伏せられて、ねじ込まれて。嫌だと、やめてと叫んで、痛いと喚いて。それでも逃げられなかったのは憶えていた。解放され、少年が逃げ去った後、血塗れの現実を見て絶望したことも。その時に大きく抉れた少女のこころを、大人の誰もが包み込んでやらなかった。祖母は何かを心づいていたようだったが、彼女もまた言葉にして子供を助けることはしなかった。
だから居なくなろうと思ったのだ。だから逃げ出そうと思ったのだ。幼い時の約束も何もかもを、忘れてしまおうと思ったのだ。
一通り、震えの治まらない声で吐露した後。紺は、そうですか、と小さな声で呟いた。
顔を上げられない。視線を地面に落としたまま、露は当時の恐怖に震えていた。きっと今の己の顔色は酷いものであるに違いない。そう、露は思う。風邪のように悪寒でもあれば分かりやすいのに。涙でも零せれば、まだ己を救える気さえするのに。もう枯れた海に、水など一滴もありはしなかった。
紺にも、母から向けられた嫌悪を向けられるのだろうか。汚らわしいという感情を凝り固めた視線を向けられるのだろうか。どうにもそれだけは心地が悪く、悲しい出来事なのではないか。好意を向けている相手に嫌われるというのは、甚だしく心苦しいものである。先程の強気な姿勢は何処へ消えてしまったのか。萎れた蕾の如く、露は視線も顔も上げられずにいた。
「紺さん……私、貴方と何かを約束を、したのでしょうね」
それは確信であった。
「ええ。此処で貴女は、僕とゆびきりをしたんですよ」
ゆびきり。
露が紺の言葉を繰り返す。祖母が、それだけは誰ともしてはならぬと話していた記憶がある。だからこそ、露はそれを厳守していた筈だった。だが、そうだ。桜の花弁が散り始める時期に、誰かと小指を絡ませたことがあった。それは制服に身を包む前。相手は青年の声を持ったひとだったように思う。
誰かとゆびきりをする。それはいけないことだ。そのひとは祖母と同じ言葉を紡いだ。しかしそのひとは結局、露とゆびきりをした。そのひとこそ、紺であったのだろう。
では何故、露は成長もしたというのに、彼の姿はそのままなのだろうか。
「佐和には話をしてありました」
紺が、再び口を開く。その声を聞きながら、露は視界に、彼の爪先が見えることに気付いた。近付いている。その結論に辿り着くまで、少しの時間を要した。
「あなたの孫は僕とゆびきりをしたから、僕が貰うと」
「……貰う?」
露が驚愕から、顔を上げる。露の歩幅で、あと二歩程の距離に紺が居ることを知ったのはその時だった。
「勝手なことをするなと怒られましたけどね。でも彼女は物分かりの良い人間だった。土地神が言うのならば仕方がないと、聞き分けてくれました」
土地神が言うのならば仕方がない。彼は今そう言った。ならば、柚木紺というひとは。人の姿をしている、このひとは。
「神様……?」
「ええ、そうです」
にこり、と紺が笑う。今、彼の瞳に先の寂寥感は見えない。悪戯を見つけられた子供のような、見つけてもらえて嬉しいという表情だ。
「人に見えるでしょう? 頑張って化けているんですよ」
可愛い、と刹那考えた露を、青い視線が射抜いていた。それは獲物を見つけた時の蛇にも似ている。すみません、と思わず口にしていた。馬鹿にしているわけではない。それを紺も理解しているらしい。笑顔が絶えないひとだ。否、神様だ。この地域の蛇は、土地神と崇められる存在は青い目の蛇だと祖母が語ってくれたのを、露は憶えていた。
「子供の戯言だとなかった事にするのは、何時だって人間だ。露さん。貴女は僕と、ずっと一緒に居ると、そう言ってくれたのですよ」
ふたりの手が触れる。
不思議と怖くはなかった。男性は怖いものだと、あの時からずっと思っていたのに。たった一人の友人も疑う瞬間がある程、恐ろしいと思ってきたのに。露がそっと視線を上げる。じっと露を見つめていたらしい紺と、露のそれが交わる。露は異性と至近距離にあるのが気恥ずかしいと思ってもいるが、今は逃げる場面ではない。何せ、神が人間の手を取っているのだ。それを振り払う程、露は愚かではない。
「ずっと、一緒に」
「はい。だから僕は待っていた。此処から出て行った貴女を、ずっと」
紺の親指が、露の手の甲を撫でていく。その柔らかな感触に、露は身動ぎをする。誰かと触れ合うというのは、こんなにも面映ゆいものなのだろうか。
「嫌ですか?」
「いいえ、……」
嫌であるか。それは。それは肌に触れられたことだろうか。露の手を、紺が撫でたことだろうか。どちらにしても、露は嫌悪など感じてもいなかった。ただ、緊張はしている。
「では、質問を変えます。僕から逃げたいと思いますか?」
その緊張を、手の強張りから察したのだろう。だが逃げるなと言わんばかりに、先程よりも少しだけ強く手を握られて、露の喉奥で声が凍った。しかし逃げたいとは思わない。露が頭を振る。
「本当ですか」
紺は嬉しそうに声を弾ませる。責め立てられると、勝手に考えていた。神に捧げる己の身を汚した罪を償えと、一生を神に捧げるのかもしれぬと。紺は神で、露は人間だ。腹の足しにされてもおかしくはない。仮に命を潰されたとて、文句一つも言えない筈だ。自分勝手に御伽噺を練り上げてしまっていた。己はまだ人の身であると、露は情けなくなる。
「僕は貴女を待つと決め、そして見つけた。もう手を離す気はありません。宜しいですか」
春の風が、存在を忘れないでほしいと主張する。瑞々しい緑の香りを運びながら、紺と露、ふたりの間を通り抜けていった。
かみさま。つゆと、ずうっといっしょにいようねえ。
露、それは……。それはいけないことです。
だめ? かみさまは、つゆといっしょはいや?
……。いいえ。では約束しましょう、露。僕と、ずっと一緒に居ましょうね。