互いに就職し、互いに今は働き盛りだと思う。日々勉強。家のことが回らなくなるくらい、日々は目まぐるしく過ぎ去って行って、学生の頃から付き合っている彼ともうまく行かない日々が続いた。基本連絡があると、また予定を延期して欲しいとかだろうなって思うようになって、相手への期待が薄れて、約束なんて形だけになった。互いに分かっていた。誰が悪いとか、そう言うのじゃなくて、本当に上手く行かない。理屈じゃない。長い人生だ。そんな日々も当然ある。まあ、そう言うときこそ、思いやりが大事だなんだとか言われるけど、そんなことをしたら、自分の首を絞めてしまう。
「…」
「…」
そんな日々が続いて、やっと私と彼は久々に顔を合わせた。元々細身なのに、久しぶりに見る彼は顔色が悪い上に、痩せたようにも感じる。お茶でも入れる、と私を部屋に通して、立とうとする彼を私はベッドに押し込み、呼ぶまで部屋から出てきちゃだめだ、と念を押す。えっ…!とショックそうな顔は相変わらず、可愛い。でも、許してあげない。扉を閉めて、私は持ってきた買い物袋をシンクの上に乗せて、腕をまくった。社会人になってから、簡単でも栄養満点な料理は作れるようになった。よし、やるぞ。
最近、名字さんと上手く行っていない。社会人の忙しさを舐めていた。いや、舐めていないけど、…予想以上だった。特殊な職業だと自覚はある。自分で選んで、自分で掴み取ったものだから、後悔はしていない。それでも、大切にしたい人を大切に出来ていない現状は俺の心を確実に蝕んでいく。励まし合っていた連絡の内容も、最近は殆んど互いの日程を伝えるだけになっていた。仕方ない、と言ったら、それまでだ。…けど、本当にこれでいいんだろうか。
「…?」
「天喰くん…?おきてる…?」
「…」
何の音もしないで、目を開けるのは久しぶりだ。最近はアラームよりも、着信音で目を覚ます方が多かった。身体が軽い…でも、まだ少し寝ていたい。ぼんやりと、聞こえる声はずっと聞きたかった声だ。その声を引き寄せるように、俺は腕を伸ばす。戸惑う声すらも、久々過ぎて懐かしい。思い切り抱きしめて、彼女の胸に甘えて擦り寄ってみる。すると、温かい手が俺の後頭部を優しく撫でて、まだねる?と聞いた気がする。俺はその言葉に頷いて、幸せな微睡にもう一度沈んで行った。
「…!」
「…」
俺は慌てて身体を起こす。え、ここは…俺の部屋だよ、な。腕の中で、穏やかな寝息を立てる彼女を起こさないように、俺はそっとベッドから抜け出す。完全にはっきりとした頭で、状況を把握して俺は頭を抱えた。彼女が家に来たのに、どうして俺は寝てしまったんだとか、エプロンのままベッドで寝ている彼女の顔を覗くと、薄っすらとクマがあって…そんな彼女にご飯を作ってもらって寝てたとか…。ぐるぐる、と色々回って、目が回りそうだ。
「…ん…?」
俺はびくっと肩を揺らし、そっと振り返った。彼女は乱れた髪を直しながら、俺に向かって手を伸ばす。その手を握り返して、とりあえず俺はベッドサイドに腰を下ろした。彼女の掠れた声がたまきくん、と俺の名前を呼ぶ。彼女は寝ぼけているのかもしれない。彼女は枕に擦り寄って、俺の手を自分の頭へ押し付ける。撫でて欲しいのだろうか。こんなにゆったりとした時間を彼女と過ごすのは久しぶりだ。彼女の頭ってこんなに小さかったっけ。俺は彼女がまだ寝ぼけていると信じて、彼女の前髪をどかしてキス一つ。あ、シャンプー変えたのかな。匂いが違う。
「…たまきくん」
「!
あ、あの…」
「たまきくん…ほしい」
ああ、これは、確実に寝ぼけてる。彼女の手が俺の首に絡んで、可愛らしい口付けをされた。そして、妙にとろんとした目で見上げられて、俺は冷静に返せるほどまだ彼女への想いは落ち着いていない。だって自分のベッドで自分の彼女がこんな風になっているんだ。我慢なんて出来ない。
それに、環くんなんて呼ぶってことは、`そういうこと'だろうし…。俺は誰に向かって言うわけでもないけど、言い訳をして、彼女の口付けに応えた。
***
「名前…いい?」
「…ん」
久しぶりに天喰くんに名前で呼ばれて、嬉しくなる。汗ばんだ身体とか、足に絡まってるシーツとか、きっとこれが夏の朝とかなら、不快で仕方なくなると思う。でも、今は別。それすら、快感を生む一つの役割でしかない。律儀に問いかけてくれる環くんに頷いて、環くんを受け入れる。久しぶりだから、とぐずぐずになるほど、慣らされた場所は難なく環くんを受け入れる…と思ったけど、ちょっと苦しい。あれ、やっぱり、久しぶりだからだろうか。
「…たまきくん」
「ご、ごめん…痛い?」
「ううん、へーき…たまきくんって、こんなに大きかったっけ」
なんだか、いつもより眠い。その所為もあって、若干夢を見ているよう錯覚を受けてしまう。身体もちょっと重い。ほとんど私は動いてなくて、環くんにされることを受け入れる。そんな形だった。でも、誰かに何かされるって、単純に気持ちいい。いや、…環くんだから、気持ちいい。うん、自分で確認して頷いていると、赤面した環くんが口をぱくぱくとさせて、狼狽えていた。まるで、その姿は私が初めて気持ちを伝えたときの、環くんの姿を重なって、懐かしくておかしくて、愛しかった。嬉しいのに、切ない。好きなのに、苦しい。
「…名前どうしたの、泣かないで」
「ううん…今すごく幸せなの…最近ずっとうまく行ってなかったから…不安だった」
「…名前」
そう。ずっと、仕方ないって誤魔化してた。でも、本当は不安で、私たちどうなるんだろうって。忙しくて、相手を思いやる暇もなくて、自分だけで手一杯の日々。それでも、やっぱり環くんことが好きで、気まずい思いも、寂しい思いも、色んな思いもあったけど、こんなにも幸せな気持ちを教えてくれる人は環くんしか居なくて、環くんじゃないと嫌で、一番の幸せを知っちゃったから、失うのが怖い。
「…んっ、…まって、…たま、き…くん」
急にずんっ、と奥を突かれて、息がつまる。苦しくて思わず、シーツを掴んで、衝動に耐えた。その手首を取られて、環くんの首に回された。掴まって、耳元で囁かれた言葉と荒い息遣い。全てが飛んでいく。環くんのこと以外、今目の前にある快感以外、何にも考えられなかった。さっきよりも、大きくて熱いものを感じて、私は環くんの押しちゃいけないスイッチを押してしまったのだと思った。繊細で優しい人。でも、私には見せない欲求や一面があって私と環くんは別々の人間なんだな、と当たり前なことを初めて知ったような、ちぐはぐな気分になった。
きれいか、きたないか。そのどっちかで言ったら、恐らくきれいではない欲求なんだと思う。だからこそ、環くんに求められるのはこんなにもきもちいいコトなんだ。
***
「…」
「…あ、あの…天喰くん、頭上げて」
最悪だ。寝惚けた彼女を抱いたことも、泣きながら気持ちを吐露する彼女に興奮してしまったことも、全部全部最悪だ。申し訳なさと、罪悪感でしにたくなる。俺の家はここだけど、かえりたい。彼女の柔らかい手が俺の頭を優しく撫でて、顔見せて寂しいよなんて言う。そんなこと言われたら、もう頭を上げるしかないじゃないか。
困ったように眉を下げた彼女と目が合った。
「…名字さん…本当に俺は…」
「…知らなかった」
「え?」
「天喰くんにあんな一面があるなんて、知らなかった」
「…うっ、…それは…その」
俺は彼女から視線を逸らして、軽く唇を噛んだ。隠していたつもりは、ない。ただ意図的に見せないように、バレないように、していただけで。彼女のことが大切だから、傷付けたくない。傷付く必要も心配もない所に閉じ込めておきたいぐらい、心から想ってる。端から離すつもりもないし、考えたこともない。彼女の隣に居ていいのは、俺なんだろうか。俺は彼女を幸せに出来るんだろうか。そんな悩みがなかったと言ったら、嘘になる。でも、俺はそんな悩み以上に、俺は彼女の隣に居たいと思ったし、俺の隣には彼女が居て欲しいと思ったし、誰よりも彼女を幸せにするのは俺がいいって思った。強く、そう思った。負けたくないって気持ちと似たような、譲りたくないって気持ちに俺は嘘を付けなかった。
そんな俺が彼女を不安にさせていたんだ。すごく心が痛くて、自分が嫌いになりそうになる。色んな人のおかげで、自分のことを素直に認められるようになったのに。その色んな人のおかげに、もちろん彼女の存在だってある。俺しか彼女を幸せに出来ないなら、彼女が俺を望んでくれるなら、俺は俺に出来る精一杯で名前を愛したいって思う。
「…だから、一緒に…暮らそう」
「え…」
「名字さんが嫌じゃなかったら、二人で一緒に住みたい」
だ、だから?
脈絡のない展開に、私は戸惑いを隠せなかった。天喰くんは我に返ったように頬を赤くして、私の手を取った。
「一緒に居れないことが、会えないことが、名字さんを不安にさせて寂しくさせるなら、一緒に住もう。俺の帰ってくる場所に居て欲しい」
困惑していた気持ちは天喰くんの真剣な瞳に見つめられて、きえていく。
重ねた手のひらは熱くて、若干…手汗を感じる。真剣に、でも不安そうな表情をして、天喰くんは私を強く見つめてきた。私の答えなんて、決まっているのに。迷うわけもないのに。いつだって、天喰くんは不安そうな顔をして、気持ちを伝えて来た。
ずっと、付き合った頃から思ってることがある。天喰くんは私の気持ちを信じ切れてないんじゃないか、伝わってないんじゃないかって。だって…私は天喰くんが好きで、好きだから信じて欲しいって思う。好きだからこそ、不安になることだってある……あるけど、それ以上に私は天喰くんに私の気持ちを信じて欲しい。そんな子ども染みた拗ねた方をしていた自分はもう居なくて、どうして天喰くんが不安になるか知ったら、分かったら、もっと天喰くんのことが好きになった。
私の好きな人は世界で一番優しいんだ。俺について来いよ、なんて強引な愛情じゃない。いつだって、天喰くんは二人のことを、二人で決めようとしてくれる。天喰くんのほんの少しだけ、分かりづらい愛情。好きだからって気持ちを理由にして、私に強引にしたことなんてない。好きだからって、いつでも答えが同じってことはない。私にも考える時間を、選ぶ権利をくれる。そんなの当たり前だ、なんて思わない。ときどき、ちょっとだけもっと自惚れて欲しいな、とも思うけど。
やさしすぎて分かりづらい愛情をくれる天喰くん、そんな貴方が大好き。
「ときどきでいいから…」
「?」
「私が会社が行くときには、天喰くんがお見送りしてくれる?」
首を傾げた天喰くんの顔が泣きそうになって、嬉しそうに輝いた。ぱああと大きくじゃなくて、じーんと噛み締めるように喜ぶ天喰くんの笑顔は相変わらず可愛くて、抱きしめる腕はもう少し強くてもいい。それを伝えるように、思い切り天喰くんの背中に抱き着いた。
私のキーケースに見慣れない鍵が増えたのは、この日から数日後のことである。
あとがき
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