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「ん…」

九龍が目覚めると、ちょうど日が落ちる時間帯だった。
隣で眠る同居人を起こさないように布団から出て、九龍は素肌の上にシャツを纏う。

(それにしても、この時間に承太郎が寝てるなんて珍しい…ま、寝かせてやろう)

今はとても起こす気にはなれない。


昨日も、そのまた前日も家に仕事を持ち込み、この数日殆ど寝ないでパソコンの前で作業する姿が目に焼き付いているからだ。

何でも、職場に承太郎に恨みを持つスタンド使いが現れ、一戦交えて、仕事は増えるわ改修工事が終わるまで職場が使い物にならないわで大変らしい。
こういったとばっちりに妻子を巻き込まない為に仕事人間になって妻子と距離を置き、家庭を顧みない夫に耐え切れなくなった妻から5年前にとうとう別れを告げられてしまった男が、皮肉なモノである。

当然ながら、最愛の娘はそれまで傍に居てくれた母親側につき、承太郎は独りになった。
敢えて仕事人間になる必要は無くなったが、妻子から愛想を尽かされたショックは周囲が傍目で見ている以上に大きかったのだろう。
まるで、多忙になる事で悲しみに浸る無駄な時間を自ら削り取っている様に見える。


(このまま、最強のスタンド使いと呼ばれた男の死因が『過労死』とかになったり…ハァ、そういうの勘弁してよ)

自分が足枷になればワーカーホリックになりつつある義兄は立ち止まるのではないかと、承太郎離婚後の九龍は考えた。
…のだが、現在までの所、あまり効果は無さそうだ。
自身の不甲斐なさに、九龍まで落ち込んでしまう。


「何だ、起きたのか」


急に背後から呼び掛けられ、九龍は少し驚いて後ろを振り向く。

「そういうの、こちらの台詞って言うんだけどな。ごめん、起こした?」
「いや…」

ベッドに近付き、自身に顔を寄せる九龍のおはようのキスを、承太郎は慣れた様に受け入れる。

「けど、まだ寝ていたら?」

承太郎の今後のスケジュールを知る九龍は休息を薦めるが、当の本人は1日の活動を始めようとしていた。
その様子に溜息を吐き、九龍が手を伸ばしたのは、引き出しの中の煙草だった。
しかし、煙草の箱に指が触れようとした瞬間、一回り以上大きな手が華奢な腕を掴む。

「……何?」
「ガキが煙草なんて吸うんじゃない」
「子供扱いしないで。…僕、もう26だけど?半年前に誕生日祝ってくれた事、忘れちゃった?」

九龍は右耳を覆い隠す髪を掻き上げ、今年の承太郎からのプレゼントを見せつける。
アンティーク風に加工された金属の薔薇が鈍く光る。

「身体はまだガキだろうが」

小突かれながら、未成年の時に飲酒喫煙やり放題だった人に言われたくない、と思った。

そんな承太郎が成人してから煙草を止めたのは、妻の腹の中に子供が出来てからだ。
繊細な胎児に煙草の煙は毒だと、誰かが指摘するより早く承太郎はあっさり禁煙した。


──なのに、涙ぐましい家族愛を持つ男の現状は、ご覧の通り。

(本当、何で結婚したんだ…)

DIOを慕っていた者達からの復讐や、旅を支援してくれた恩のあるSPW財団からの依頼と、杜王町の件以前…結婚前にも承太郎が戦いに巻き込まれた回数はゼロでは無かった。
家庭を持ち、巻き込まない為に、人質としての価値は低いと思わせる為に遠ざける前に、そもそも何も知らない一般人と結婚しなければ良かったのだ。
祖父母のジョースター夫妻は、スージーQが結婚以前からジョセフが持つ波紋の存在を知っていたから上手くいっていた特殊例なのだから。

何故、こうなる可能性に気付いていながら、家庭を持ったのか。

(家族なら…僕じゃ駄目だったのか。けど、当たり前か)

本当の兄弟ではないのだから。
それどころか、散々苦しめた敵の息子で、友の仇の息子で、いつまでも子供のままの化け物──…

『身体はまだガキだろうが』

承太郎に安らぎなんて、与えられない。


「…どうした?」

俯く九龍の顔を覗き込み、承太郎が訊ねる。

「………」
「オイ。九龍」

目を逸らした瞬間、両頬を掴まれて承太郎の不機嫌そうな顔が近付く。
頬を掴む大きな手に自身の子供のままの手を重ね、観念した様に九龍は正面の碧色を見つめる。
そして、胸の奥で燻っている想いを承太郎へとぶつけた。


「僕は、ちゃんと大人になれる…?」

九龍の問いに、承太郎はハッと目を見開き、困惑と焦りが混ざった眼差しを向ける。


桃色の唇が震える。

「…承太郎の事…っ、支えられる、大人になりたいんだ」

──なりたいのに、なれない。

「でも…どんどん皆に置いていかれて、追い付かれて、自分が人間じゃない感じがして……僕は、自分が怖い」

それは身体だけでなく、人と同じ速さで生きられない事を悩み、血を糧とする自分に怯える弱い心が『大人』になりきれないからだ。


「お前は、アイツとは違う」

承太郎は九龍を抱き締め、身も心も人間である事を辞めた九龍の父と九龍が違うと伝える。
九龍はもうDIOの道具ではなく、感情を持った人間だ。
…あれから20年以上経っているではないか。

なのに、DIOは死んで20年経った今も、息子の九龍を血の呪縛で縛り付けている。


「お前は…俺の弟だ」



††††††††


出掛ける準備をする為に、九龍は洗面所の鏡の前で髪を梳かしていた。

「………」

ふと、櫛を握る指が右耳のピアスに触れる。

「………」


承太郎は、九龍は薔薇が好きなのだと思っている。

だが真実は違う。
嫌いでは無いが、特別好きという訳でも無い。
なのに九龍が日常で薔薇を意識してしまうのは、空条家に来るまで九龍にとって写真や絵、映像ではない本物の花と云えば、薔薇だったからだ。
暗い館の花瓶に生けてあった身近な花…

恐らく、九龍の父が薔薇を好んでいたのだろう。
父の面影に触れられる花…

承太郎は真実を知っていたら、何を選んだのだろうか。


>>右耳ピアスの意味→守られる人

 



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