手首と熱
ぎい、と板張りの床が軋む音がする。村正が月を見ていたかんばせをふい、と逸らせば、そこには徳利と杯を抱えた歌仙の姿があった。普段の戦装束とは打って変わってすらりとした印象を持たせる軽装を身に纏った歌仙は、言葉なく村正の隣に腰かける。その頬には浅い裂傷がぱっくりと残っていた。曰く、手入れで治るのは刀の傷だけであり、人の身に刻まれた傷は人間の何倍もの治癒力で目まぐるしく治していくほかないのだという。
この日の出陣は、いっそう激しいものだった。突破することが難しいと報せのあった、難易度の高い戦場に挑んだのである。突破は叶ったものの、歌仙も村正もひどく傷を負った。特に歌仙は重傷まで追い込まれた。それでも、苦痛などありはしなかった。なんとか敵を倒し息も絶え絶えに本丸に戻った中で、けれども二振りの目はぎらぎらと妖しく輝いていたのだ。
「どうだい、月見酒というのは」
問いかける形で、しかし歌仙は村正の返答を気に留めずに徳利を傾ける。
「ええ、せっかく用意してくださったのでショウ? ありがたくご相伴にあずかりマスよ」
村正はかすかに微笑むと、差し出された杯を受け取った。白磁の杯にはうすく桜の絵が施されていて、それは透き通った酒によく似合う。杯から離された歌仙の手は手首こそ細いものの、浴衣の袖に包まれた先はしなやかな筋肉に包まれていて、村正は彼が文系と自身を称しながらも、それに反してかなりの戦好きであることを改めて感じる。戦好き、というより、その根が戦場に生きているのだろう。風流を、と謳いながら戦場を愛するその有様を村正はずっと解せずにいたが、修行を経て極となって、ようやくその一端が掴めたような気分がした。
たぶん、それは歌仙も同じことだろう。極となる前、歌仙は村正に対してややよそよそしい、というよりも接し方を計りかねているようだった。当然だ。何せ村正は、この本丸に顕現してこのかたひとを煙に巻くような言動ばかりを繰り返していたのだから。むしろ、理解されてたまるものか、くらいの気概で牙を剥いていたような気分すらする。主に言わせれば天邪鬼と表現される村正の態度と、それに反する戦の際の高揚を、歌仙はおそらく計りかねていた。
懐かしいデスね、と村正は独り言ちる。村正が修行へ旅立ったのは、もうずいぶんと前のことである。不思議そうに首を傾げた歌仙に薄く笑って、村正は杯を傾けた。傾けて、――思わず目を見開いた。
「うわっ、なんデスこれ、ずいぶん辛いじゃないデスか」
「はは、今日は少し趣向を変えてみたんだ」
村正ははっとして、濡れた唇を気にも留めずに声を上げた。ごくりと飲み下した酒はかあっと焼けるように喉を通り過ぎて行って、舌にはいまでもぴりりとした痛みが残っているように錯覚するほどだ。隣でくふくふと笑う歌仙は村正の様子など気にせずに変わらず酒を煽っていて、その減りはひどく早い。ここに来る前に一杯すでに飲み干してきたのではあるまいか、と訝しむ村正に、歌仙はからりとした表情を浮かべて見せた。
「べつに、僕もこういったものが好みというわけではないさ。ただ、勧められたんだ」
「誰に?」
「太郎太刀に、さ」
歌仙の弾んだ返答に、村正は乾いた息を零した。なにせ、太郎太刀は蟒蛇である。しかも、それは極となってより拍車をかけた。普段は弟の次郎太刀の方がよく飲むために気付かれることは少ないが、特に難しい戦場を突破した際に隊の面々だけを招いて行われる小規模な酒宴では、いつも彼が酔い潰れたものたちを回収しては自室に送り届ける役割をしているのである。村正も酒には強い方ではあるが、それでも太郎太刀の世話になったことは一度や二度ではないのだ。そんな彼が勧める酒とあっては、納得をするしかない。
その情報によりいっそう訝しんだ村正が目を凝らしてみれば、やはり歌仙の頬は月夜の下ではわかりづらい程度にほんのりと赤らんでいた。歌仙の肌は白くはあるが、それは健康的な肌色の範疇である。だからこそわかりづらかったのだろう。歌仙はひどく上機嫌だった。ぽつぽつと話をすれば、そのたびに声を上げて笑っては酒を継ぎ足していた。緩んだ頬を隠しもせずに、歌仙は上ずった声で歌うように口を開く。酔っ払いの対処は任せろ、と。アナタが酔っ払いデス、とは口にしなかった。歌仙はそのまま、からからと笑った。
「それにしても、今日は気分がいいねえ。難敵を打ち倒してやるのは、気分がいい」
歌仙はそう言って、月を見上げて笑った。今日は満月である。夜闇のなかにぽっかりと浮かんだ月は、満天の星々を背負って煌々と輝いている。古来より月の光はひとを狂わせるというが、それが少し理解できるような夜だった。村正は同じように月を見上げながら、歌仙の言葉にはっきりと頷いた。菫色の髪がふわりと揺れる。
「ねえきみ、せっかくだ、手合わせをしないか」
しかし、さも当たり前のように続いて放たれた言葉に、今度は村正は首を縦には振らなかった。
「酔っ払いの手合わせなど、傷を増やすだけデスよ。それが許されるのは酔拳だけ、デス」
その返答に歌仙はぱちくりと瞬きを繰り返して、それからぷっと噴き出した。村正は腹を抱えて愉快そうに笑う歌仙に、はあ、と溜め息を洩らす。芸術家とはそういうものだ、と以前歌仙が申し開きしていたが、彼は時たま突飛なところがあるのだ。それは酔っていなかろうが垣間見えるものではあったが、特に酔っているときには存分に発揮された。
なにせ歌仙は酒に弱い。いや、特筆して弱いわけではない。ただ、歌仙を囲む第一部隊の面々は揃いも揃って酒に強いのだ。太郎太刀や村正、鯰尾もそうである。短刀としてこどもの姿をしている信濃や後藤も、普段は飲みはしないものの二振りとも弱い方ではない。そのため相対的に、歌仙は酒に弱いと評されるのだ。
歌仙は笑いを収めるようにさらに酒を煽って、それから村正に向き直った。玻璃の瞳は酒精によってとろりとして、頬はいっそう上気している。上機嫌に浮かべた笑みはややひとを煽るような部分もあって、気に障るようなことはないけれど、と村正はそっと息を吐く。
「まあ、手合わせは冗談だけれど。きみこそ、冗談なんて言うんだね」
「人並みには言いマスよ?」
「それはそれは。ひとつ収穫だな」
笑いながら、歌仙はまた酒に口をつける。いったいどれほど酒を飲むつもりなのだろう、と村正はうすら寒いような気分がしたが、同時にその飲みっぷりを愉快に思う自分もいた。村正自身、戦のあとの高揚が抜けきっていないのかもしれない。村正は酒に強いということもあるが、それ以上にうまく酔うことができない性質でもある。制止がかかるような気前のいい飲みっぷりは、村正にとっても心のどこかをすっと明るくするような部分があった。ぐい、とめいっぱい杯を傾けて底に溜まった酒を飲み干した歌仙は、くだを巻くようなべったりとした声音で訥々と言葉を紡いだ。
「だって、僕はきみのことをほとんど知らない。戦場のきみしか、僕は知らないんだ」
その言葉に、村正ははっとした。お互い相互不理解を抱えていたと過去形で表しつつも、その実どこか一線を引いたように冷めた目で自分を見下ろす自分に、村正は自覚的だった。きっと、うまく酔えないのもこういう冷めきった部分のせいなのだ。おそらくは、それを歌仙にも気取られてしまっているのだろう。誤魔化すように飲み下した酒は、変わらず痛みを伴うような辛さをもって喉を通り過ぎていく。
「正直ね、きみのように言うなら『脱がせて見極めてやろう』というか……。そういう気持ちも、なくはないさ」
「そうなんデスか?」
「だって、なにせきみは主の寵愛を一身に受けているだろう」
ずるい、と歌仙は口を尖らせる。村正はこの本丸で初めて修行へと行き、極となった。そのことを寵愛というかはともかく、審神者と村正の間に得難い信頼が結ばれていることは事実だった。村正はこの本丸が本格的な戦線に参入してからこのかた、最前線に立って第一部隊をで戦ってきた。審神者にとって村正はいちばんに信頼のおける臣下であり、村正にとってもまた審神者が最上の主であることは間違いなかった。
「デスが、それを言うならアナタもそうでショウ?」
村正の返答に、歌仙はきょとんと首を傾げた。その反応が演技なのかそれとも素なのか、村正はわずかに測りかねた。歌仙は聡明だ。たとえ酔いが回っていたとしても、彼の口からは様々な歌が一字一句の間違いなく滔々と流れていく。あるいはたまに、自作の歌を披露してくれることすらあった。そんな歌仙が蒙昧な反応を寄越すことが、村正は少し意外だった。
「だって、あのひとは刀を修行に出すことにずいぶんと厳しいデス。そんなあのひとが、あの熊本での件を経ただけでアナタに修行の許可を出すなんて、そうそうないデスよ」
答えを得るべきだ、と言った審神者の表情を、村正はよく覚えている。熊本での特命調査を経て、審神者は歌仙兼定を修行に出す決意を固めた。鳩すら飛ばしてみせた。あのひとの心を動かす何らかを、歌仙はあの短期間で示して見せたのだ。それは村正にはできなかったことだ。村正は顕現した際には、審神者に期待などしていなかった。だから、今の審神者との信頼関係は、九分九厘審神者の歩み寄りによるものだ。厳しくも優しいかの主を村正はひと並みに理解しているつもりではあったが、それでも、それは村正にはできなかったことだ。
そこまでの文脈を読み取ったのだろう、むう、と歌仙は唸る。たぶん、目の前に机があれば突っ伏していただろうと言わんばかりの風である。そうやって知った風な口を利くのが気に入らないんだ、と吐き捨てて、歌仙はとうとう杯の酒を一息に飲み干した。破れかぶれになっているのだろう、酔いの回った歌仙はもう呂律も怪しい。杯を持つ手がぐらりと揺れて杯が滑り落ちそうになって、村正は初めて歌仙の手首をはっしと掴んだ。ごつごつとした凹凸のある、おとこの手首である。自らの手を支えた村正に歌仙はぱちくりと目を見開いて、それから意地悪に笑った。
「そう、でも、なんだ、きみ、今日はずいぶん素直だね」
その言葉に、今度は村正がきょとんと瞬きを繰り返す番だった。
「べつに、望んで杯を割る趣味はないデスよ。ワタシはそこまで馬鹿じゃないデス」
それを聞いた歌仙はたっぷり三秒口を閉じて――、それから、大きな溜息をついた。ともすれば剣呑とも表現できるほどに透き通った瞳から酒気は一気に失せていて、わなわなと震える唇は酔いによるものではなかった。なにか、いままで得ていなかった見地を得たような、しかしそれにしては呆れも混じっているような、そんな表情である。村正は首を傾げる。だって、ほんとうに理解ができないのだ。特筆するような意地の悪いことを言った覚えも、世紀の大発見になりえるような新事実を教えたつもりもない。
歌仙はことりと木目の床に杯を置くと、完全に据わった目で村正をじっと見つめた。思わず村正はじり、と後退する。なんというか、そういう目は苦手なのだ。まっすぐに自分の腹の底を覗き込むように注がれる視線は、村正の肌をぞわりと粟立てさせた。修行に行く前であれば、嫌悪すらしていたかもしれない。そんな様子にいっそう歌仙は眉を顰めると、生ぬるいような呆れが混じった表情でを浮かべて口を開いた。
「…………きみ、何か趣味を作りなよ」
「は?」
思いがけない言葉に、村正の口からは思わず素っ頓狂な声が零れる。
「そしたらもっと、話のきっかけが増えるだろう」
続けざまに重ねられた歌仙の声に、村正はきゅっと眉根を寄せる。なぜワタシが、とありありと書かれたかんばせに、歌仙は今度こそ堰を切ったように笑いだした。
back