青くゆれる夢

 日差しがコンクリートをじりじりと焼いていた。昼食を買いにコンビニへ足を運んで、その帰り道でディミトリを見つけたのは偶然だった。彼は運動場にほど近い体育館の入り口の階段に腰かけて、ただじっと何かを見つめている。じじ、と鳴く蝉の声に交じって吹く風が彼の金糸のような髪を揺らしていた。ベレトはふと買っていたラムネ瓶を手にすると、気配を殺してディミトリに近寄った。
 ディミトリは手の甲で汗を拭いながら、どこか疲れたように佇んでいる。ベレトは教師として教え子のそんな様子が気にかかって――、青いガラスがたっぷりと汗をかくほどに冷えたラムネ瓶を、彼の頬に押し付けた。
「うわっ!?」
「はは、良い驚きっぷりだ」
「せんせ、……はあ、もう、びっくりした」
 ディミトリは大袈裟なほどにびくりと肩を震わせると、そのまま恨みの籠った視線をベレトに投げかけた。ベレトはからからと笑ってディミトリの隣に腰を下ろす。コンビニのロゴがプリントアウトされたビニール袋がかさりと音を立てた。昼食を買ったときにキャンペーンだと言われて一緒に袋に突っ込まれた団扇をディミトリに手渡す。先生は暑くないのかと気遣うものだから、鞄から携帯扇風機を取り出して見せた。ずるい、と笑うディミトリの顔はまだあどけなさの残る青年の顔だった。
「何か悩んでいるのか」
 サンドイッチの包装を剥がしながらベレトはディミトリに問いかける。ディミトリは一瞬口を開こうとして、それから目を伏せて口を閉じた。ベレトも無理にディミトリの口を割りたいわけではないから、ちょっと前に彼の頬に押し付けたラムネを飲むように言ってサンドイッチを口にした。ディミトリはしばしきょとんと目を丸くして、それからぱっと綺麗な微笑を浮かべた。
 さく、と音を立ててみずみずしいレタスを噛み千切る。水気の多さが蒸し風呂のような暑さの中では逆にありがたかった。ベレトがサンドイッチをひとつ食べ終えるころにちらりとディミトリの様子を伺うと、彼は浮かべていた笑顔とは一転して、困ったような表情で手の中のラムネ瓶を見つめていた。
「壊してしまわないか心配なのか?」
「茶化すのはやめてくれ、先生。その、だな。どうやって飲めばいいのかわからないんだ」
 ディミトリの言葉に一拍置いて、ベレトはくすくすと笑い声を零した。ディミトリの白く透き通るような肌が、暑さからではないものでかあっと赤くなっていった。彼はいわゆる「いいところ」の箱入り息子で、ベレトも驚くような大人びたところがある一方で世間知らずでまだ幼さの残る部分も多くある。そのゆるやかな歪さをベレトは愛していたし、彼の危うい純粋さを守りたいと思っていた。
 すこし唇を尖らせたディミトリの手からラムネ瓶を受け取る。手のひらに包まれていた部分の結露が消えて、ぬるい体温が残っていた。栓の役割をするビー玉が日光を透かしてきらきらと淡い光を放っている。そのビー玉を玉押しと呼ばれる蓋の一部分で押し込むと、すとん、からん、と気持ちのいい音とともに炭酸が泡になってせり上がっていった。
「ありがとう、先生。手間をかけさせてしまってすまない」
「気にしなくていい。俺も、開け方がわからないって言ったときはジェラルトに笑われた」
「ふふ、先生とジェラルトさんの親子らしいところは珍しいな」
「ああ、確かに」
 ディミトリはくすりと笑って、ベレトから手渡されたラムネを傾けた。ベレトももうひとつの残ったサンドイッチを食べ始めて黙ってしまったから、しばらく二人の間には蝉の鳴き声と木々の揺れる音だけが響いていた。ベレトがサンドイッチに噛り付いているとふとからんとひときわ大きなビー玉の音がして、ベレトはそっとディミトリを見遣った。見られていることに気が付いたディミトリは慌てたように笑顔を作って、それから溜息を吐いた。
 実のところ、ベレトはディミトリの悩みを推察しかねていた。夏季休暇の期間に入ってディミトリとの教師と生徒としての交流が途絶えていたから、夏季休暇の間に例えば何か新しいことを始めていたとしても、それはベレトのあずかり知らない部分だ。教師失格だな、とベレトは苦笑した。大学で教職を志すまであまり人と関わってこなかったから、いまだに他人の機微には疎いことに自覚はあった。
「……先生相手に隠し立てしても仕方がないよな」
「言いたくないなら言わなくてもいいぞ」
「いや、いいんだ。その、夏休みになって、社会勉強も兼ねてアルバイトを始めたんだ」
「そうか。何のアルバイトを?」
「シルヴァンから、俺の怪力だとホールや料理はやめておいた方がいいと言われて。愛想笑いを作ることも苦手だから、家庭教師のアルバイトをすることにしたんだ。それで、……悩んでいて」
 そう言って、ディミトリは炭酸の抜けかけたラムネを飲み干した。窪みに引っかかっていたビー玉が甲高い音を立てて落ちていった。アルバイトとはいえ教師という選択肢を選ぼうと思ったのは先生のお陰だ、と呟くディミトリの声がどこか遠くに聞こえた。じりじりと暑さが迫ってきて、ベレトは知らずの内にシャツの胸元を寛げた。
 嬉しい。ベレトは素直にそう思った。教職を志した理由はほとんど父の友人である女性からの勧めのようなもので、確かに誰かにものを教えることは向いているとは思ったが、実際に教師になって自分が何かをできたのかということには少し疑問を抱いていた。だからこそディミトリの言葉を聞いて、自分の心のどこかつめたく寂しいところにぱっと花が咲いたような気持ちになった。ベレトはくしゃりとディミトリの頭を撫でた。くすぐったそうに笑うディミトリの表情は無垢で可愛らしいものだ。
「わ、ふふ、やめてくれ先生」
「やめない。全部話してくれ、ディミトリ」
「っはは、うん。 ……先生には敵わないな」
 ディミトリは大きく息を吐くと、眉を下げて訥々と話し出した。
「俺が教えているのはまだ小さい、小学生の男の子なんだ。
 俺はまあ、先生も知っている通りあまり世間一般のことには触れずに育ったから……」
「うん」
「勉強の話はできるんだが、それ以外のことがまったく駄目なんだ。その子から今流行っているのだというヒーローの話を振られても曖昧に返すことしかできないし、その子の友人に会っても、どういう風に話を切り出せば喜んでもらえるのかわからなくて」
 そう話すと、ディミトリは諦めたような、あるいは自嘲するような、そんな笑みを浮かべた。手のひらのラムネ瓶から温くなった結露が滴り落ちていく。ディミトリは決して口下手な人間ではないが、相手を喜ばせようと相手の話題に合わせたりするような気遣いをしてしまいがちな人間だった。だからこそ何もできない自分のことをもどかしく思っているのだろう、とベレトは思った。そういう不器用なところがあるディミトリが、ベレトは愛おしくてたまらなかった。
 ベレトも元はあまり他者と関わりたがらない性質で、今のディミトリのように他者の話題についていけないことが多々あった。けれどベレトはそれを気にすることはあまりなかったし、だから同僚のマヌエラなどからは仏頂面とからかわれることもあった。活発に他人と談笑するようになったのは教職に就いてからのことで、そのきっかけは眼前の青年にあった。
「気を遣いすぎて自分の首を絞めるのは悪い癖だぞ、ディミトリ」
「え?」
 そう言って、ベレトはディミトリの額をこつんと突いた。途端にディミトリはきょとんとした表情になって、その鮮やかな変化が何よりも愛おしくて。
「申し訳なく思うなら、素直にその子にそれを伝えればいい。俺がコミュニケーションを君に教わったように、君はその子からそのヒーローのことを教わればいいんだ」
 ディミトリはベレトの言葉にその宝石のような碧眼を見開いて、それからふっと気を緩めたようなあどけない笑顔を浮かべた。曇りがちだった彼のかんばせに、その向日葵の咲いたような笑顔はよく映える。まるで日差しを通して淡く光るビー玉のように、その笑顔はきらきらと純朴に輝いていた。
 教師としてこの学校に赴任して、色々なことに雁字搦めになって悩んでいたディミトリを彼の幼馴染であるフェリクスから押し付けられたとき、初めてベレトは彼の助けになりたいと思った。君の悩んでいることを全部教えてほしい、なんて武骨な言葉しか掛けられなかったことがきっかけだった。だからこそ、自分の言葉でディミトリの助けになれることが嬉しいのだ。
「先生にはいつも、助けられてばかりだな」
「そんなことないって言っただろう」
「でも、お礼がしたいんだ」
 ディミトリはそう言うと、ベレトが何か対価として提案してくることを待っているようだった。ベレトは少しの間思案して、それからはっといたずらを思い付いた子供のようにほくそ笑んだ。
「そうだ、ディミトリ、一緒に夏祭りに行かないか? 生憎と俺は無愛想だから、誘うような女性もいないんだ」
 ディミトリは少しだけ驚いた風に口を開いて、それからくすくすと笑った。
「……はは、先生も冗談を言うようになったな」
「君のお陰だ、ディミトリ。それで、返事は?」
 ベレトはディミトリに手を差し伸べる。彼は照れと嬉しさと驚きと、たくさんのものが混ざった綺麗な笑顔を浮かべてベレトの手を取った。
「もちろん。俺で良ければ」

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