香りだけが残る

※同性のキャラクター同士の濃いめのスキンシップを含みます。苦手な方はご注意ください。

 ちゃぷん、と水の揺れる音がした。ベレトは湯船に浸かって温まりながら、凝り固まった身体を解すようにゆっくりと背伸びをする。湯船に浮いた柚子から漂う透き通った酸味を感じさせる香りがベレトの鼻腔をくすぐった。柚子湯、という異邦の文化らしく、傭兵として各地を転戦していたベレトも見た記憶がないような珍しいものだ。本来は冬に行われる文化だというが、帝国との決戦に臨む前のちょっとした餞別として季節を無視して行うことにしたのだと、この大浴場の掃除も担っているツィリルが口にしていた。
 不意に引き戸がからりと滑る音が響いた。入口の方を見遣ると、湯けむりの中で壁に掛けられたランプの明かりを反射して淡くきらきらと光る見慣れた金の髪があった。そういえば彼と大浴場で鉢合わせるのは初めてだったな、とベレトはふと思いながら、まだこちらに気が付いていない様子の彼に声を掛ける。
「ディミトリ、君も柚子湯に興味があったのか?」
「あっああ、先生か。先生が入っているなら俺はもう少し後に入ろうかと思う、んだが」
 ディミトリは背が高くしっかりとした身体つきだから、曇った視界の中でも彼の姿かたちは容易に推察できる。彼はベレトが湯に浸かっていることに気が付いてない様子で、ベレトが声を掛けると目に見えて動揺してしどろもどろに言葉を並べた。今すぐにでも来た方へと引き返してしまいそうな様子を不思議に思って、ベレトは湯から上がるとディミトリに近寄った。
 扉を開けて引き返そうとするディミトリの手首を掴んで引き留めようとしたとき、その腕に走る蚯蚓のようないくつもの傷跡にベレトは初めて気が付いた。ディミトリも戦いに身を置くのだから傷を負っていてもおかしくはないのだけれど、ベレトはその傷の原因に気が付いてくちびるを噛む。その傷は、戦いの中で負った傷にしてはひどく痛々しい形をしていた。
「見て面白いものではないだろう、先生」
 頭上からぽつりと降ってくる声には、かつて死者の声に囚われていた頃を思い出させるような冷たさと、突き放すような寂しさと、相手を気遣う不器用な様子とが混ざっている。ディミトリの表情を伺おうとこの五年でさらに背が伸びたディミトリをベレトが見上げると、普段は眼帯の下に隠されている肌には引き攣ったような傷がありありと残っていた。
 ベレトは胸の中がぐちゃぐちゃになったような気分がした。口を開こうとして、けれど喉元まで出かかった言葉は飲み込まれてしまった。代わりにそっと手を握って、口にできたのは何の改善にもならない言葉ばかりだ。
「……とりあえず、湯に浸かったらどうだ。俺に気遣いはいらないから」
 ベレトはそう言ってゆっくりとディミトリの手を離すと、ディミトリは申し訳なさそうに眉を下げて笑顔を作るものだから。その寂しい笑顔は余計にディミトリに気を遣わせてしまっているのではないかという苦々しい思いをベレトに抱かせて、ベレトは知らずのうちに手を固く握りしめていた。
 二人が湯に浸かると、波立った水面に揺られて柚子からふわりと甘酸っぱいような香りがして、ベレトは知らずのうちに大きく息を吐いた。ディミトリもゆっくりと息をして寛いでいるようだったから、ベレトはひとまずほっと胸を撫で下ろした。ディミトリの雪国育ちらしい透き通るような白い肌が、湯の熱に染まって赤みを帯びていく。ぱた、と滴り落ちる汗を手で拭うと、ベレトの視線に気が付いたディミトリは照れ交じりにくすりと笑った。
「その……先生。さっきは悪かった」
「いや、俺こそ不躾だった。すまないな、ディミトリ」
 ベレトは曖昧に笑うと、湯に浸かりきらなかったディミトリの長躯にぱしゃ、と掬った湯をかける。くしゃりと純朴な笑顔を浮かべるディミトリがベレトにはいっとう可愛らしく映って、ベレトは気を紛らわせるようにくっと背を伸ばした。ディミトリは水面に浮く柚子をひとつ手に取ると、もう片方の手で柚子を扇いで香りを楽しんでいる。その香りは湯気に乗って隣に腰を下ろしているベレトにも伝わって、甘酸っぱい透き通った香りは二人の口と気分を少しだけ軽くさせた。
 ベレトは徐にディミトリの手を取ると、その腕に這う傷跡にゆっくりと触れた。凸凹とした傷跡の奥にある血管は、確かにディミトリが命を繋いでいることを示すかのようにとくとくと脈を打っている。
「沁みたりしないのか」
「いや、それは大丈夫だ。形が悪いだけで、もう塞がっているからな」
「そうか……。この傷は、やっぱり五年前の王都で」
「……ああ。彼らは、王子である俺に傷を負わせて、自らの征服欲を満たしたかったんだろうか」
 目を伏せてディミトリはそっと呟いた。ベレトは軽く握っていた手をするりと離すと、何かを考えるように黙りこくった。二人の間からはふっと言葉が消えて、ざあ、と湯が汲み上げられた出口から流れる音と、ぱたり、と湯船の枠に水滴が滴り落ちる音だけが言葉に取って代わるように響く。帝都での決戦に向けて大修道院を包んでいたどこか浮足立つようなざわめきは、今ばかりは遠くに聞こえた。
 今までディミトリと大浴場で鉢合わせることがなかったのは何も偶然ではなかったことにベレトは気が付いて、はっと顔を上げた。ランプのほのかな明かりを受けて淡く光る柚子と、それを浮かべてゆらゆらと揺れる水面と湯けむりに満たされたこの大浴場の中で、ディミトリの引き攣ったような傷の多い身体はひどく浮いている。ベレトは知らずのうちにディミトリをじっと見つめていて、ベレトの視線に気づいたディミトリはくすりと笑って足を伸ばした。
「実はな、先生。この五年間、俺が他人といる中で全身裸になったのは初めてなんだ」
「え」
「王族はみだりに肌を見せるものではないし、それに、追われているときはおちおち水浴びもできなかったからな」
 ディミトリはどこか冗談めかしたような、こちらを揶揄うような笑顔を浮かべながら言葉を続けた。右目に走る傷跡がいくら痛々しく異質なものに見えたとしても、その笑顔はベレトの目にはとても可愛らしく映った。
「大修道院に辿り着いて、先生や王国の皆と再会したときも、ゆっくりと風呂に浸かる気にはなれなかったし……。それに、こんな傷跡、寛ぐための浴室には似合わないと思っていたから。だから、いつもツィリルに頼んで時間をずらしてもらっていたんだ」
「でも、きっと君と一緒にこういった時間を過ごしたいと思う人がいるはずだ。そうだろう?」
 たまらなくなってベレトは言葉を挟んだ。湯の暖かさに釣られてふわりと淡く赤みを帯びた耳や、あるいは湯気から水を含んでしっとりと濡れた髪、水滴を弾いてかすかに跳ねる睫毛は、この湯船に不釣り合いなはずがないのだから。食い気味に言葉を挟むベレトにディミトリは少しだけ驚いたように目を丸くして、それからきゅっと目を細めて笑った。僅かに火照った頬は、今は火照りだけではない要因でほのかに赤く染まっていた。
「ふふ、そうだな。俺はずっと、無駄に気を遣ってばかりだ。先生、改めてありがとう」
「ん、何がだ?」
「今日この時間に風呂に入ろうと思ったのだって、ツィリルに柚子湯は浴室が開いている時間だけだと言われてなんだ。俺はそれだけ空回った気遣いを働かせてしまう人間だから、もしも他の誰かと鉢合わせて、この傷跡に関して心配されたら、きっと俺はとても申し訳なく思ってしまうから」
 途端にしどろもどろになったディミトリに訝しむような目線を投げかけると、彼は慌てたようにわたわたと手を振っている。ぱしゃ、とそれにつられて湯が跳ねた。そのしぐさは上背のある青年にしてはどこか幼くて、ベレトは彼が自分の守るべき生徒であることを改めて認識するとともに、心のどこか奥の方がきゅっと締め付けられるような、そんな不思議な気分になった。
 もうそろそろ夕食、ひいては大浴場を閉める時間になってしまうだろうから、この浴室にも誰かが見回りに来るかもしれないが、もう少しだけディミトリと一緒にこの空間で穏やかな時間を過ごしていたい、とベレトは強く思った。
「――だめだな、素直に伝えよう。気遣いはいらない、と言ってくれたことが嬉しくて……先生には、その、甘えてしまうんだ」
 そう言って恥じらい交じりに笑ったディミトリが何よりも可愛らしくて、ベレトはここが大浴場であることを忘れて眼前の青年をぎゅっと抱き締めた。突然抱き締められたことに慌てるディミトリの背に腕を回して彼の身体を抱き寄せると、彼の白い肌の奥でとくん、とくん、と刻まれるディミトリの鼓動が、ベレトの肌を伝って直に伝わってくる。
 悪戯っぽい笑顔を浮かべながらディミトリの様子をちらりと伺うと、ディミトリはここが大浴場だとしてもそうそう見ないような真っ赤な顔で俯きながら、逆上せてしまうから、とかき消えそうな声で呟いた。ベレトは何かが満たされたような気持ちで、こつん、と自分の肩に額を当てるディミトリの頭をゆっくりと撫でる。水を含んでなお絹のような金の髪からは、かすかに柚子の香りがした。

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