未だ眩暈の途中
つめたい手が頬に触れた気がして、一氏はゆっくりとその瞼を開く。まだはっきりとしない視界に飛び込んできたのは、見慣れた寝室の板張りの天井と、それを遮るように覗き込む人影だった。どうして自分は寝室にいるのだろう、と一氏はどうにも働かない頭の中で考える。確か、自分は官兵衛と毛利勢の動向について話していて、それで。覚束ない記憶を手繰り寄せていると、視界を覆う人影がぴくりと動いた。
「あっ、よかった……! 起きたんだね、一氏くん」
人影はそう言って、大袈裟なほどにその眦を緩めて笑った。安心したように頬をなぞる手はつめたく、性別のあまり窺えない華奢なものだ。やわらかくあたたかいその声と仕草に、一氏は覚えがあった。一氏と主を同じくする軍師、竹中半兵衛である。現在は毛利との小競り合いを指揮しながら官兵衛とともに彼らを打ち倒すすべを考えているはずの彼が、なぜ一氏の枕元に座っているのだろう。一氏はそう問おうとして、しかしその言葉は声にはならなかった。代わりのようにその唇から、けほ、と乾いた咳が立て続けに零れる。にこにこと柔和な雰囲気を醸していた半兵衛は、その咳に顔色を変えるとその背を支えるように彼を起き上がらせた。
背後から抱きかかえるようにした半兵衛に凭れる格好になって、一氏はわずかに顔を逸らした。気まずさ、というよりは、彼に世話を焼かせてしまっていることへの申し訳なさのようなものだ。ようやく収まってきた喘鳴を慰めるように、半兵衛はゆっくりと一氏の背を撫でる。すみません、と掠れた声で詫びれば、彼はこちらを案じるように眉を下げながら首を振った。そんなことないよ、という声はどこまでもやさしく、どこか熱っぽい部屋の空気に溶けるようにやわらかかった。
「俺は、なぜ……」
「覚えてない? 一氏くん、熱を出して倒れちゃったんだよ」
ただの風邪だって見立てだけど、と半兵衛は続ける。一氏はその言葉にしばらくわずかに目を見開いて、脳裏で彼の言葉を復唱した。握って開いた手は緩慢な動きにしかならず、半兵衛の言葉が真実なのだと一氏に伝えている。しくじった。一氏は半兵衛の言葉からいくらか遅れてそう思う。半兵衛や秀吉、そして何より官兵衛にいらぬ迷惑を掛けてしまっただろう。急くように布団を蹴飛ばして立ち上がった一氏の身体は、しかし支えを失ってぐらりと倒れた。半兵衛は倒れかけた一氏の身体を咄嗟に支えると、自らより一回りは背丈の高いその身体の扱いに苦戦しながらも彼を褥へそっと横たえた。あんまり無茶しちゃだめだよ、と諫める声はどこまでもやさしい。
なすがままにされながら戸惑ったように半兵衛に目を遣る一氏を手で遮ると、彼はそのまま一氏の額に手を重ねた。あまり血の通っていないようなつめたい手に一氏はわずかな不安を覚えながらも、目を細めてそのつめたさを享受する。無理が利かないと悟ってしまえば一氏は存外素直なもので、熱に浮かされたこともあってか普段以上に無口になった。不調に陥った時にはじっと回復を待つのが得策であることを、一氏は嫌というほど知っているためだ。半兵衛はそんな一氏を案じるような表情を浮かべながら、脇に置かれていた桶から手拭いを取って一氏の額にそっと乗せた。
「まだ熱が高いから、しばらくはゆっくり休むこと。僕もそばにいるから、ね」
言って、半兵衛は複雑そうに眉を下げる。半兵衛の言葉に一氏はしばらく閉口して、それから朧気ながらもはっきりとした輪郭のある声音で半兵衛を諫めた。
「……しかし、それでは軍師にうつしてしまうのでは」
一氏の返答に半兵衛は予想外と言わんばかりにその透き通った目を瞬かせて、それからかすかに頬を染めて笑う。きれいな、やさしい笑みだった。端的に言えば、一氏は半兵衛のことを気遣っていた。なにせ、半兵衛はあまり身体が丈夫ではない。普段から病気がちである、というわけではないが、季節の変わり目などには折に触れて体調を崩すことがあった。半兵衛は秀吉たちの軍略の要でもあるし、何より一氏自身も彼に対して好感を抱いていたからこそ、その体調を案じる気持ちはけっして少なくない。自身が熱を出したことを棚に上げて、一氏は半兵衛の身体を案じていた。
「心配してくれてありがとう、一氏くん。けど気にしないで、最近は調子もいいんだよ」
「そう、ですか」
半兵衛の返答に一氏はしばらく何か言いたげな表情をして言葉を探していたが、やがて諦めたように相槌だけを打って黙りこくった。言い返すことはできないだろうと悟ったためである。普段のやわらかくやさしげな印象からは想像もつかないほど、半兵衛は芯が強ければ口も上手い。一氏もたびたび彼の無茶に苦言を呈したこともあったが、そのたびに余裕ぶった表情を浮かべながら躱されてしまったのだから、一氏が半兵衛に口で勝つ日はきっと来ないだろう。熱を出して意識が朦朧としている中ではなおさらのことだった。
従順になった一氏に満足げに頷いて、僕のことなんて気にしないでしっかりと休むように、と口を酸っぱくして言い含める半兵衛はどこか年上のきょうだいのようにも見えて、一氏はふわふわとした不思議な気持ちになった。みつきは古なじみではあるが、彼女の性格ゆえにそういった落ち着いた関係からはほど遠い。みつきと比べずとも、思えば半兵衛との付き合いももう長いものだと一氏はぼんやりと思った。普段の意趣返しのように一氏を案じる半兵衛の言葉は、どこかくすぐったいやさしさが覗いている。
「軍師、仕事はいいんですか」
降り注ぐ言葉にたまらなくなって、一氏は逃れるようにぶっきらぼうな問いを投げかけた。藪から棒な問いかけに半兵衛はしばしきょとんと首を傾げて、それからふわりとその整った顔立ちを和らげる。花が綻ぶような笑顔だった。彼の表情の意図を掴みきれずに、一氏は不思議がった表情を浮かべる。半兵衛のこの表情が何かを楽しんでいる顔つきであることを、一氏はその短くない関係の中で推察できるようになっていた。そんな一氏の表情に何がおかしいのか半兵衛は口元を手で隠してくすくすと笑うと、いやに喜色ばんだ様子で口を開いた。
「ふふ、あのね、僕の仕事は官兵衛がぜんぶやってくれるんだって。代わりに一氏を気にかけていてくれませんか、って言われちゃったんだ。俺がいても一氏はあまり休まらないだろうから、だって」
あまりにらしくない物言いに、一氏は思わず目を見開いた。そんな官兵衛は知らない。一氏の知る官兵衛は謙虚だが自信家かつ不遜な性格で、特に一氏のことは極端に対等に見るような、そんな遠慮のないわがままな人物だった。主である秀吉や彼が先輩と呼び慕う半兵衛に対しては多少しおらしくなるところもあるが、そのかわいらしい感情の矛先が一氏に向かうことは考えも付かない。嘘を疑って詰め寄ろうとする一氏を、半兵衛は手拭いが落ちちゃうから、と慌てたように窘める。自分に関すること以外ではあまり嘘を吐かない半兵衛の言葉だとしても、一氏にとってそれは信じがたいものだった。
「ほんとうだよ。官兵衛、君に無理させてやいないかずいぶん心配していたんだから」
しかしその言葉に、一氏ははっとして視線を逸らす。言葉が喉の奥につかえて、うまく出てこない。一氏にとってそれは晴天の霹靂とも言える表現だったが、同時にどこか心の深いところを暴き立てられ白日に晒されるような、そんな反論できない正しさをはらんでいた。半兵衛は一氏の二の句の継げない様子に、いろいろな感情を綯い交ぜにしたようにそっと目を伏せる。知らず半兵衛にまで心配をかけてしまった、と一氏は己の思慮の浅さを悔いた。これではいずれ秀吉にも伝わってしまうだろう。一氏を気遣って態々町に連れ出すような彼に知られることは、あまり嬉しいことではない。
無理をしているつもりはなかった。ただ、官兵衛の働きぶりに影響されていたことは明らかだった。
羽柴の中では頭一つ抜けて中国地方の情勢に精通していた官兵衛と、情報戦に長けた忍びである一氏は、二人の望む望まずにかかわらず仕事の上では早いうちから協力することが多かった。初めは出会い頭の無礼な態度も相まって、一氏はある種馬鹿にするような感情を抱いて官兵衛に接していたが、しかしすぐにその認識を改めることになる。官兵衛は、疑いようのない天才だった。符術を使った戦いにも優れ、知略もまだ未熟さはあれど半兵衛と並んでも見劣りするところはない。一氏にとって打てば響く、という範疇をとうに超えた官兵衛の知性を一氏は肌で感じて、そうして思ったのだ。
「もっと、やれるだろう、と」
それは、一氏の本心だった。その傲慢不遜な物言いに腹を立てることも両の手では足りないが、それでも官兵衛は羽柴に必要な人材である。誰かに頼ることを知らず、自分ひとりで突っ走りがちな官兵衛の性質を活かすにはこうするしかない、という言い分のもと、一氏はその任務にいっそう注力した。それでこうして調子を崩してしまっては世話ないが、それでもなおそれが正しさだと一氏は思う。訥々と言い募った一氏の胸中を聞いて、半兵衛は驚きながらもどこか納得したように口を開いた。
「実は、倒れた一氏くんをここまで運んだのは官兵衛なんだ」
こくり、頷く。一氏もそれは察していることだった。最後の記憶が官兵衛と毛利の情勢について話しているところで途切れている時点でうすうす思っていたことではあったが、同時にそんなことをするだろうか、という考えが邪魔をしていたのだ。彼、すごく慌てていたよ、と半兵衛は言う。曰く、官兵衛は気を失った一氏をなかば引きずるようにして背負いながら、こいつの部屋はどこですか、と半兵衛に開口一番問い糾したらしい。具体的なその光景は、一氏にも想像のできるものだった。なにせ官兵衛はまだ年若く、一氏から見ても青いところは多い。
「うまくいかないね、二人とも」
「……はい」
うまくいかない、というのは言い得て妙だと一氏は思った。友情とか信頼とかそういうことへ段階を進める前に、官兵衛と一氏はうまくいかない。互いの性格がいやに気に障ることが多いために反目し合っているという面は大いにあるだろうが、それを差し引いてもどこか溝のようなものを感じることが多かった。むつかしいのは、おそらく官兵衛はその溝をあまり感じていないだろう、ということである。直情的でまっすぐな官兵衛とやや斜に構えたところのある一氏では、物事の感じ方はそれぞれに異なっていた。うまくいくといいね、とささやく半兵衛の表情は、どこか遠くを見ているような雰囲気をはらんでいる。
「ほんとうはね、官兵衛は別にそばにいてやってとは言っていなかったんだけど」
「え」
かすかに憂いを帯びた表情から一転して楽しげに笑った半兵衛に、一氏は目を瞠った。結局、今度も一氏は半兵衛にうまく誤魔化されて言い負かされたのだ。それならば態々枕元に座っている必要はなかったのではないかと思うし、そういうところは主たる秀吉によく似ているとも思う。けれども心やさしい半兵衛は、きっと官兵衛から言われなくともそうしただろうとも考えてしまうのだ。さまざまなものがくすぐったくて、一氏はたまらなくなった。
「でも、いろいろ聞けてよかった」
そう言って、半兵衛はすっくと立ち上がる。なぜ、と訊ねようとして、一氏は一対の足音が近づいていることに気がついた。半兵衛はおもむろに屈んで一氏の短く堅い髪にそっと指を通すと、まるで幼い子供を慰めるようにその頭をゆっくりと撫でる。普段ならばぎょっとしてしまうであろう振る舞いを、しかし一氏は驚くことなく受け入れていた。こういうとき、半兵衛はたまに兄らしい顔を覗かせるのだ。他人よりもつめたい指先は、しかし一氏に触れてかわずかに温くなっていた。
「ゆっくり休んで、十分元気になったらまた一緒に頑張ろうね、一氏くん」
言い残して、半兵衛は障子の奥の廊下へと去っていった。半兵衛の姿に気付いたらしい足音の主は、ぴたりとその歩みを止めて半兵衛と二言三言言葉を交わしている。どこかふわふわとして覚束ない意識の中にあっては一氏もその会話の内容を聞き取ることはできなかったが、けれども不思議と歯痒さのようなものは湧いてはこない。やがて満足したのか、疎らな足音が再び響きだした。その頃にはもうずいぶんと近くなっていたが、一氏の寝室から離れるように歩く半兵衛の足音と反響して混じっているせいではっきりとはわからなくなっていた。そろそろか、と一氏はあたりを付ける。一氏がまだ鈍い身体をおしてゆっくりと起き上がるのと、す、と控えめな音を立てて障子が開くのとは同時だった。
敷居を隔てて見える官兵衛は、一氏の知らない表情をして立っていた。
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