Serendipity
――これは夢だ。鬱屈とした働かない頭の中で考える。雨の多い東の国では珍しいような雲ひとつない晴天を彩るようにして、はらはらと色とりどりの紙吹雪が散って落ちていく。視界を覆いつくすように広がる光景に、ファウストはぱちりと目を瞬かせた。目の前は等間隔に並んだポールに繋がれたロープによって区切られていて、見れば不自然な空白を挟んだ向かいの道も同じようになっている。呆けたように棒立ちになったファウストの肩を押すように、どん、と誰かの腕がぶつかった。振り返ってみれば、そこは賢者がいつだったかに言っていた「すし詰め」という言葉が似合うような人混みで、腕の主らしき人間はすぐに人の波に揉まれてどこかへと離れていってしまっていたらしい。切れ切れに謝罪の言葉が聞こえるが、それがファウストへ宛てたものであるかすらわからなかった。
諦めてロープの方へと向き直ったファウストの耳に、パレードだ、と嬉しそうに話す声が届く。ファウストはその言葉に、密かに首を傾げる。ファウストにとって、この夢はひどく不可解なものだった。パレードの場に立ったことは過去に何度かあったが、それはたいていパレードの行列の中にあってのことで、こうしてひとりの観客として行列を待つことはそうない。それでもこの熱を持って浮ついた空気は、どうしても過去を思い出させて仕方がなかった。早く夢から覚めるように、と祈るファウストを遮るようにして、不意に軍楽隊の喇叭の音が響く。その音に、人々は一斉に道の向こうを仰ぎ見た。
(あ、)
その視線の先にある光景を見て、ファウストはいっぱいに目を見開いた。神秘的な森と半ば同化するように佇む城は、この日ばかりはきらきらと鮮やかに輝いているようにも見える。喇叭の音に重ねるようにして、高らかな蹄の音が透き通るように鳴っていた。心臓が痛いほどに跳ねる。喧騒の中に、ファウストのよく知った名前を呼ぶ声が聞こえた。ヒースクリフ様、と。
ブランシェット家の紋章を掲げた旗を持った兵士が真っ先に視界へと飛び込んでくると、人々は大きな歓声を上げてその兵士を迎えた。ブランシェット家らしい細やかな細工に包まれた儀礼用の鎧を身に着けた兵士たちは、纏うマントをはためかせながら歩いていく。濃紺のマントと鮮やかな水色の空のコントラストが、兵士たちの凛々しさをより強調しているようにも見えた。兵士を囲むようにして歩く軍楽隊の面々の中にも、だんだんと大きめの楽器を携えた者が増えはじめる。兵士の鎧がだんだんとより豪奢なものになって、やがてより階級が高いのであろう馬に乗った兵士たちが混ざっていく。早鐘を打つ鼓動を抑えるようにぎゅっと唇を噛み締める中で、不意にブランシェット城により近い道の人々がわっと溢れんばかりの歓声を上げる。その歓声はまるで波のうねりのようにこちらへと届いて、人々は花を投げ込むように行列へと声を掛けた。
「ヒースクリフ様!」
「俺たちの新たな領主様だ!」
「きゃあ、ヒースクリフ様!」
「凛々しいお姿、いつ見ても素敵だわ……!」
温かながらも確かな喜びが感じられる雰囲気とは対照的に、ファウストの指先はすう、と冷たくなっていく。呆然として立ち尽くしたファウストの視界に、いっとう豪勢で美しい馬車が現れた。いつかの中央の国でのパレードの際に乗ったものによく似た馬車には、不釣り合いなほどにはっきりとブランシェット家の紋章が刻まれている。ファウストはその整わない不快さに目を背けようとして、けれども目を背けられずにいた。人々の頭の隙間から覗いた馬車の窓が、ゆっくりとファウストに近寄ってくる。
(――ヒース)
ファウストはきゅっと目を細めた。窓を縫うようにして吹き抜ける風で、よく整えられたひまわり色の髪がふわりと吹き上がる。ぱち、と瞬きをしたヒースクリフの瞳は、普段見るそれよりもずっと自信と誇りに爛々と輝いていた。大ぶりな耳飾りはほっそりとしたヒースクリフによく似合っているが、その線の細さもファウストのよく知るヒースクリフとは幾分か異なっているようにも見える。ああ、これは夢だ。それもいっとうひどい夢だ。だって、悪い夢ではないのかもしれないのだから。
目の前のヒースクリフからは、魔法の気配が一切しなかった。ヒースクリフはファウストの立つ側の窓から顔を出して手を振っていたが、その表情の中に曇りや躊躇いは見えない。誇り高いブランシェット家の貴公子らしい、凛々しい立ち振る舞いが印象的だった。いじらしさとわずかな幼さをにじませた可愛らしい笑顔を浮かべるヒースクリフとは似ても似つかない彼に、ファウストは心臓が凍るような気持ちになる。ヒースクリフはそのままファウストに気を留めることもなく通り過ぎて行って、後には後尾列を守る軍楽隊と兵士たちばかりが残った。そうしてファウストの視界からヒースクリフの乗る馬車がきれいさっぱり消え去ってから、ファウストはその場にへたり込んだ。夏の暑さに当てられたように、頭がくらくらとして仕方がない。
「おい、あんた、大丈夫か?」
遠くなった意識の中で、案じるようにファウストを呼ぶ声がする。緩慢な動きで振り向いてみれば、見慣れた誰かの面影を残した背丈の低い黒髪の少年がファウストに手を差し伸べていた。少年の身なりは素朴ながらも整った不足のないもので、その声音にもささくれだったような棘は見当たらない。ほんとうに、ほんとうにひどい夢だ。重ねることすらできないほどに遠い誰かが、けれどもファウストの夢をじりじりと焼き尽くすように侵食していく。断るようにゆるく首を振って、今度こそファウストは意識を手放した。
「夢、か……」
ちち、という鈴の転がるような鳥の声に背を押されるようにして、ファウストはそっと身体を起こす。そう暑くもない季節だというのに、シーツはぐっしょりと水を吸っていた。ファウストは布団をぐっと足元の方へと押しやると、身に纏ったナイトウェアのボタンをひとつひとつ、ゆっくりと外していく。けれどもその指先は寒さを主張するように小さく震えていて、少し伸びた爪が幾度もボタンにぶつかってはざらりとした不快な音を立てている。やがて露になったほっそりとした白い肌は汗で濡れていて、ファウストは汗を拭うように身に着けていた服を脱ぎ捨てた。
気分は最悪だ。耳の奥では今も人間たちがヒースクリフを呼ぶ熱狂的とすらいえるような声がこだましているように感じるし、視界の端には今も色とりどりの紙吹雪がひらひらと誘うように舞っている気がしてならなかった。ファウストは這い出るようにしてベッドから降りると、ぱちん、と指を鳴らして魔法を使って身支度をする。汗を吸った衣服はなくなったはずだというのに、ファウストの身体はひどく重い。悪夢に苦しめられることはファウストにとって日常茶飯事だったが、この日の夢は普段とは毛色が違うことさら悪趣味なものだった。
ぽん、と頭上に乗った帽子を押し込むように深く被ってから、部屋をほの暗くしていた遮光カーテンを開ける。途端にぱあっと不自然なほどに明るくなる室内の中で、不意に太陽の光を受けてきらりと輝くものがあった。窓際の机の上に置かれた鍵巻き式の懐中時計と、ひと揃えとなったその巻き鍵である。揃いのものとはいえその意匠は大きく異なっていて、銀色に淡く光る時計と真鍮の巻き鍵とではずいぶんと印象が食い違う。ふたつをじっと眺めるファウストの脳裏に、ふとあのひどい夢が蘇った。あの夢を見たことの直接的な原因はこの時計ではないだろうが、遠因のひとつではあるのだろう。ファウストは幾分か逡巡して、それからゆっくりと机の端に懐中時計と巻き鍵とを押しやった。まったく違うものが身を寄せ合うようにして触れ合っている様子は、どこか滑稽にも、あるいは温かくも見えた。
ファウストは何かを振り払うようにゆるゆるとかぶりを振ると、しっかりとした足取りで扉へと向かっていく。あの巻き鍵に似た鈍い銅色のノブを捻って扉を開けると、ぱちり、と視線がかちあった。ファウストはふっと詰めていた息を漏らす。光を透かすようにきらきらと輝く青灰の髪とやや猫っぽいようなところのある黄色の瞳は、ファウストにとって見慣れたものだ。けれどもその見慣れた姿にあの夢を思い出してしまって、ファウストは一瞬だけやりきれないような気分になった。
「ネロ?」
考えを自ら遮るようにして問いかければ、ネロはばつが悪いような表情を浮かべて、それから諦めたようににっと笑う。ネロの笑顔はさらりとして平坦にも見えるが、時にこうして言い訳をする子供のようなあどけなさを覗かせることもあった。
「……おはよ、先生。起き抜けにアレかも知れねえけど、ブランチでもどう?」
ネロはそう言うと、手に持ったバスケットをかさりと揺らした。ファウストが覗き込んでみれば、そこにはいつかに食べたものと似たキッシュやつやのある林檎が丁寧に並んでいる。きゅう、と空腹に疼く腹にそっと目尻を緩めて、ファウストはネロを部屋へと招き入れた。ネロは慣れたように床に置かれた藁人形やナイフを避けてベッドへ腰かけると、懐から取り出した果物ナイフの鞘を払ってするすると林檎の皮を剥き始める。そんなネロを横目に、ファウストも紅茶を淹れる。普段はすべて魔法で済ませてしまうその作業は、ネロがいるときはなんだか手作業で行わなければならないような気がしていた。べつに、後ろめたさからのものではない。ただ、料理人としてのネロの誠意に答えるための、いわば自己満足のようなものだった。
紅茶を蒸らす間にくるりと振り返ってみれば、ネロはもうすっかり皮剥きを終えてしまったらしい。房状に切られた林檎はトレーに乗った白い皿の上に並んでいて、そのうちのふたつには上部に飾りのついたピックが刺さっている。キッシュも切り分けられて同じように白い皿の上に乗っていて、そちらにはひと揃いのフォークとナイフが添えられていた。ネロは肘をついてファウストをじっと見つめていて、ファウストが視線に気付けば悪戯っぽく笑ってみせる。まるで遅いと催促されているみたいだ。ファウストは咎めるようにじとりと目を細めて、それから二人で顔を見合わせてくすりと笑みを零した。ファウストはそれだけで、心臓の奥に蟠っていたものがゆっくりと溶けていくように感じる。考えて、不思議だ、と思う。同じ賢者の魔法使いである、というだけで繋がれた縁がここまで温かなものになるとは、きっとネロもファウストも思ってもみなかったことだろう。
「ほら。きみは食べないのか?」
「俺は林檎だけでいいや、朝飯は食ったから。どこかの誰かさんと違って、な?」
「まったく……」
ファウストの呆れたような態度にネロは愉快そうにけらけらと笑って、ファウストから差し出されたティーカップをそっと傾けた。ファウストもネロに倣うようにベッドに腰かけると、膝を揃えて机替わりのようにトレーを置く。滑らせるようにゆっくりとキッシュにナイフを入れれば、さくりとした触感に胸が期待で高鳴った。ネロの料理はいつも美味しい。夢と厄災の傷によって薄暗く鬱屈としていた部屋が、太陽の明かりよりもやわらかい何かでふんわりと彩られていくみたいに。キッシュは生地こそ薄いが中身の具はたっぷりと詰め込まれていて、小ぶりながらも満足感は大きかった。
ネロはまるで酒を飲むように紅茶と林檎をつまみながら、ファウストは小さく切り分けたキッシュを口に入れながら、ぽつぽつと話をする。話題はだいたい魔法舎に暮らす面々、とりわけ同じ東の国の魔法使いであるヒースクリフとシノのことばかりだったが、ファウストもネロもそれを苦痛には思っていなかったし、無理に自分を話題として切り出すこともしなかった。ファウストはもともとそう積極的に喋るわけではないし、ネロもそれに合わせてか話のペースはそう早くはない。それでも確かに感じられる穏やかな空気が、人嫌いで孤独を好む東の魔法使いたちを繋いでいるのだ。
「そうだ、先生」
食べ終えたキッシュの皿とカトラリーをバスケットへと仕舞ったファウストに、ネロがふと思いついたというように声をかける。振り返ってみれば、ネロは愉快そうににいっと口角を釣り上げて足を組んでいた。ファウストは眉根を詰める。ネロがこういう表情をするときはたいていよからぬことを考えているときで、こういうときばかり年上の顔をするネロのことをファウストは密かに恨んでいた。恨む、と言っても、そんなにひどいものではないけれど。
「その時計、買ったのか?」
その問いかけに、ファウストはあからさまに苦い顔をした。ネロはファウストが机の橋へと追いやった一対の時計を指さして、さも何も知りませんという風に首を傾げている。ファウストが自ら進んで懐中時計を買うような人間ではないことは、ネロも知っているだろう。そのうえで尋ねるのだから、おそらくネロの中にはある程度の答えの目星がついているらしかった。まあそうだろう、とファウストも諦めたように溜息をつく。ファウストはべつに時計などの装飾品にまったくと言っていいほど興味がないというわけではないが、それでもそう詳しくはない。そんなファウストの手元に見覚えのない時計があるとなれば、考えられる理由はずいぶんと絞られていた。
「……貰いものだ。ヒースからの」
ファウストの答えに、ネロは眩しそうにきゅっと目を細める。やっぱりなあ、とだけ呟いて、ネロはけらけらと笑った。その表情は揶揄するような意地悪な部分を多分に含みながら、それでもどこか優しさをはらむようにやわらかい。ファウストはネロのそんな嬉しそうな表情にぱちり、と瞬きをして、それから手にしていたフルーツピックを置いて立ち上がった。かすかに揺れるカーテンの下で寄り添う一対の時計と巻き鍵は、穏やかな時間を享受するようにほのかに輝いている。ファウストはそれらを大切そうに、その細い指でそっと掬い上げた。
ヒースクリフがファウストに声をかけたのは、昨晩のことである。鍵がないことで欠陥品とされていた時計を見つけてから、ヒースクリフはその鍵穴に合う鍵をずっと探していたらしい。先生に似合うと思って、と言ったヒースクリフの言葉通り、上質な銀の時計はファウストの普段の装いにもよく馴染んでいる。花が綻ぶような笑顔とともに渡された時計をファウストは大切に思いつつ、けれどもどう触れていいのか計りあぐねているところもあった。
「へえ、ってことはこれが巻き鍵?」
「ああ」
そういった経緯をかいつまんで話せば、ネロは今となってはそう多くはない鍵巻き式時計という存在に目が向いたらしい。ファウストから差し出された巻き鍵を太陽に透かすように翳して、そうして窓からやわらかく差す陽光を受けた真鍮は銅よりも鮮やかに鈍く光っている。巻き鍵にうっすらと施された蔦のような細工が、温かな太陽の光の下で露になって浮かび上がっていた。くるくると不規則な方向に伸びた蔦の文様は繊細な線で彫られていて、真鍮の鍵の高級感をいっそう高めている。過度に華やかなわけではない、質のいいものであると一目でわかるようなひっそりとした美しさは、ヒースクリフらしい気遣いによく似ていた。
ネロもその細工に惹かれたのか、彼は感心するような上ずった声を上げて巻き鍵を指先でゆっくりと撫でる。詰まったようにところどころに引っかかる指は水仕事の多さも相まって男性らしさが強かったが、それでもほっそりとした印象の強い巻き鍵にはなぜだかよく似合った。それを眺めて、ネロはよりいっそうきらきらと目を輝かせる。きっとネロの経歴を踏まえると(ファウストはあまり積極的に詮索することはないが)、こういった価値のあるものに対してはある程度の慣れがあるのだろう。愛おしむように鍵を撫でるネロは、誰に聞かせるでもないようにぽつりと呟いた。
「なんだか、俺たちみたいだな」
「は?」
「……時計も鍵も不揃いでさ、偶然出会っただけなのに」
脈絡のない言葉に思わず険しい語調で聞き返せば、しかしネロは気に留めないままにざらりとした声を零す。その返答で初めて、ファウストはネロの言う「俺たち」が何を指すのかを理解した。理解して、じんわりと胸の奥が温かくなるような気分になる。こつ、こつ、と定まった時間を刻む時計の針の音が、懐中時計を握るファウストの指先から滲んでいた。ファウストは嵐の谷で賢者と交わした言葉を、ふと思い出す。嵐の谷で暮らすうちに自分の時間が止まっていた、と話したファウストに微笑んだ賢者の表情が、どうしてか克明に浮かんだ。
「ずいぶんと詩人めいたことを言うんだな」
口元にゆるく弧を描いたファウストの言葉に、ネロはぱち、と瞬きをして、それからはっとして俯いた。はらはらと零れる青灰の髪から覗く耳はかあっと赤みが差していて、口元には隠すように手が添えられている。投げ出されたもう片方の手に握られていた巻き鍵が、ころころとベッドの上を転がっていった。ネロの大人げない悪戯好きな部分はシノを思い出させたが、羞恥心にいつまでも慣れていないところはヒースクリフに似ている。ファウストのことを先生と呼んで慕うようないじらしさが、今のネロには見え隠れしていた。
「っ、あーー、ったく……忘れてくれ……」
「ふふ、忘れるわけがないだろう。いい気味だ」
ファウストはそう言って背を伸ばすと、置いていたフルーツピックを手に取った。時間を経てわずかに酸化した林檎はそれでもみずみずしく、噛めばさくりとした触感が舌に溶けていく。普段はネロに振り回されてばかりだから、こういうところで仕返しをしてやるのは気分がいい。ネロはブラッドリーに対するそれとはまた違った意味でファウストに容赦のないところがあるし、ファウストもそれは似ている。だからこそこういった軽口の応酬のようなことは稀にあって、その遠慮のなさはファウストにとっても得難いものだった。
「……アンタもだいぶ気安くなったよな」
「そうかもね」
ネロの言葉に、ファウストは呆れとも諦めとも付かないような吐息混じりの声で答える。その声はかすかに上ずっていて、頬はわずかに緩んでいた。ネロはファウストの表情を見てくしゃりと笑うと、もうぬるくなってしまったティーカップに手を伸ばす。傾けたそれからは茶葉の香りが立ち上ったが、その香りは淹れたてのものに比べれば鈍くなってしまっている。それでも、ネロは嬉しそうに紅茶に口を付けた。機嫌がいいな、とファウストは愉快そうにその光景を眺める。ぱち、とかち合った金色の瞳が、まるで琥珀のように透き通って閃いていた。
「なあ先生、アンタ今気分がいいんだろ」
「さあな」
「はは、洗濯物でも取り込んどくか」
空になったティーカップをファウストにつき返しながら、ネロはにっと笑った。しがらみのない笑顔が、昼時の陽だまりに溶けるように浮かぶ。笑う声ははっきりとして大きいものではなくて、けれどもその声は二人らしい穏やかな時間によく似合った。
教本代わりの魔導書をぱたん、と閉じると、それだけでシノはあからさまに明るい表情を浮かべた。ヒースクリフとシノの手元には薬包紙に似た薄い紙が広がっていて、その上には形も大きさも様々なシュガーが散らばっている。ネロはもう既に自分の作ったシュガーをもう瓶に詰めてしまって、後方の空いた場所でコーヒーを淹れていた。ふわりと立ち上る香りは今朝飲んだ紅茶よりも渋く、きっと作ったシュガーはコーヒーの中に吸い込まれていくことになるだろう。ファウストはそっと目尻を緩めた。シュガーには各々の魔力の違いが出る。ヒースクリフのシュガーは舌に乗せればすぐに溶けてしまうほどに繊細で、甘さもそう強い方ではないが、シノのシュガーは単純に甘く、それでいてくどくならない爽やかさがあった。
魔法には座学も必要だし、同じように実地訓練も必要である。ただ、ヒースクリフとシノは以前の師から魔法の基礎すら教わっていなかったから、こうして基礎的な座学を反復することが多かった。シュガー作りは細かな集中力を必要とするし、特にシノにとっては欠けた部分を補う良い訓練になる。昔から魔法を実践的に使用していたシノとネロは座学を嫌うが、東の国の魔法使いを取りまとめる教師役はファウストである。諦めることだ、と思って、ファウストは小さくほくそ笑んだ。
「ネロ、コーヒーはまだか」
「へーへー、シノはせっかちだな」
シノはずいぶんと大雑把な手つきでシュガーを瓶に詰めると、ぐっと身を乗り出すようにしてネロににじり寄った。ネロはシノをひらりと躱して諫めると、振り向きざまに茶菓子のつもりだったマカロンをシノの口に詰める。突然入り込んだ異物にもごもごと口を動かすシノを見て、ヒースクリフは物理的な口封じだと言ってと笑いながらシュガーの瓶の蓋を閉めた。先生、と控えめな声とともに差し出された瓶をざっと検分して、ファウストはこくりと頷く。わずかに高い位置にある頭をそっと撫でてやれば、ヒースクリフはかすかに赤らんだ頬を緩めて微笑んだ。
からかうようにファウストに倣ってヒースクリフの頭をくしゃりと撫でたネロからコーヒーカップを受け取って、四人はくるりと同じ卓を囲んだ。苦いのだめなおこちゃまに、と、ネロはいつの間にかファウストの手元からくすねていたらしい瓶を掲げる。おこちゃまという言葉にむっとしたシノは初めそのまま口を付けて、それから観念したようにネロの手から瓶を受け取った。ヒースクリフはくすくすと笑いながら、シノに入れ終わったら瓶を渡すように言っている。ざらりとコーヒーの水面へ滑り落ちていくシュガーは、互いにぶつかって角が取れていた。
「そうだ、昨日、父様から手紙があって」
シノから瓶を受け取りながら、ヒースクリフはふと思い出したかのように顔を上げた。シノは敬愛する主人の名前にぴくり、と肩を揺らして、話の続きを今か今かと待っている。露骨だな、とファウストとネロは目線だけで笑って、それからコーヒーカップを傾けた。雑味のないコーヒーはおそらく上質な豆を使っているのだろう、苦みの中にしっかりとした旨味がある。ヒースクリフにシュガーの瓶をこちらへ回すように言って、ファウストも話の続きを促した。
「また何かの異変か?」
「ええと、そうじゃなくって……。みんなをまた個人的に招きたい、って、連絡があったんです」
ヒースクリフの言葉に、ファウストとネロは揃って目を見開いた。招かれるような大層ことをした覚えは、ファウストにもネロにもない。以前オルゴールの異変を鎮めるためにブランシェット城を訪れた際には盛大な歓待を受けたが、おそらくはそれともまた違った目的なのだろう。唯一シノだけがまだ何もわからないくせに胸を張っていて、ヒースクリフはそんなシノを宥めながら手紙を取り出した。
「……魔法使いに対する正しい知識を得るため?」
「あのクソ師匠、旦那様にも嘘を吐いていたのか」
整った書体で書かれた文面に大まかに目を通したファウストの言葉に、シノは吐き捨てるように同調した。確かに、ヒースクリフとシノの前の師の教育はひどいものだった。ろくな知識すら教えず、いい加減な呪文と張りぼての魔法で二人の才能ある少年を従えた気分になっていた。棘のある言葉にヒースクリフも苦笑を浮かべて、ただひとり、彼と面識のないネロだけが首を傾けている。そんなにひどかったのか、と問いかけるネロに答える者は誰もいなかったし、それが何よりの答えだった。
そんなずさんで粗悪な前の師の印象に反して、手紙には訓練や討伐の任務などで予定が埋まっているのであれば気にする必要はない、という但し書きの上で、おそらくあちら側のスケジュールに基づいたのであろう日程が指定されていた。ヒースクリフの両親は温かく律儀な性格をしていて、それでいて思慮深く領主としての威厳と誇りを兼ねた人物でもある。人間としては理想的なほどに整った性格をしていて、息子への愛情も深い。誰に対してでも敬意を払う性格はヒースクリフに似ていて、それは文面からでも容易に読み取れることだった。ファウストは細く息を吐く。
「わかった、行くよ。前にあれだけ盛大にもてなされたんだ、無下にはできないだろう」
「ありがとうございます……!」
書面から視線を上げたファウストの返答に、ヒースクリフはぱあっと面持ちを明るくして微笑んだ。ファウストはばつが悪いような表情をして、逃げるみたいにコーヒーカップに唇を寄せる。こくり、と飲み込んだコーヒーは、苦みの中にふわりとした優しい甘さのシュガーが溶けていた。嵐の谷でかつて助けた人間もそうだけれど、誠実な人間は苦手だ。どうしても無下にできなくて、結局ずるずると絆されてしまう。ヒースクリフに対しても、初めはそういうところがあった。
「ネロは?」
「じゃあ俺も、ご紹介に甘えることにしようかな」
そわそわとした雰囲気から逃げるように話を振れば、ネロも明るい諦念を乗せてぱっと花が咲くみたいに笑った。ヒースクリフとシノも嬉しそうに笑顔を浮かべて、シノなんか誇らしげに拳を作ってすらいる。だしにされてるぞ、と明け透けに耳打ちをしてきたネロにくすりと笑って、またコーヒーカップを傾けた。開いた窓から吹き込んだ風は、春風のように甘く温かな香りをはらんでいる。するりと頬を撫でて飛び去って行く風の感触は、どこか精霊たちのするようなささやかな祝福の手触りに似ていた。
「腹を空けておけ、奥様のパイはうまいぞ」
「ふーん、それ俺に言う?」
「当然だろ。食ってみろ、頬が落ちる」
悪戯っぽくにっと笑ったシノの頭をくしゃりと撫でながら、ネロは再びその口にマカロンを詰め込む。シノは今度こそ不服そうにネロに噛み付いていて、ヒースクリフはそんなシノを案じるように眉を下げながら、それでもどこか楽しげだった。シノの取り分だけがどんどんと減っていくマカロンにするりと手を伸ばせば、もごもごとまごついた声でシノからの怒声が飛んだ。腹に入れば同じじゃないのか、と笑うネロに頬を膨らませて、シノは音を立てて椅子へ腰を下ろした。気安くて穏やかな時間が、ゆったりと東の魔法使いを包んでいる。
ファウストはこれから訪れることになるブランシェット城の風景を思い浮かべようとして、ふと拭い去ったはずの今朝の夢を思い出した。軍楽隊の高らかな喇叭はヒースクリフに似合うとは思うけれど、きっとその横には魔道具の大鎌を構えた誇らしげなシノがいるだろう。思い浮かべて、じんわりと心の奥が温かくなる。あれは夢だ。ぞっとするほどつめたいガラス細工の夢は、怖いくらいに綺麗なままでファウストの記憶の深くへそっと仕舞い込まれていった。
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