白銀の蝶は雪解けの夢を見るか

 稀に、あるいは酔いに呑まれるようなたちではないとはいえ、オズは人並みに酒を嗜む。カインやリケなどの年若い魔法使いには驚かれることもあったが、そう不思議なことでもないだろう、とオズは思う。魔法使いにとって、酒精はある種の道具でもあった。もっとも、そう問いかけたカインとて、気分よく瓶を開けては赤ら顔で寝こけていることもあるのだ。さして問題の質は変わらないだろう、と返せば、リケは頬を膨らませてカインを問い詰めていた。
 無造作な形に削られた氷が、からりと手の中のグラスで音を立てた。注がれる酒は透き通った麦色に輝いていて、暖炉の熱を受けてたっぷりと汗をかいている。オズはそうして、初めて自分が酒杯を手にしたまま黙り込んでいたことに気が付いた。ぞわり、と胸がいやな音を立てる。北の国で長く過ごしたオズは寒さには慣れ切っていたが、その分、春先になって緩むような気候は新鮮で、まるで古傷のように不思議と痛む部分もあった。心のやわいところに刺さった棘が、きっといつまでも抜けていないのだろう。オズは何かを振り払うようにゆるくかぶりを振って、機械的にそのグラスに口を付けた。
 グラスは精巧な大輪の花の細工が施されていて、薄く削られたガラスは多面的な表情を生み出している。麦色の酒と暖炉の炎と、それからいやに煌々と輝く大いなる厄災の光を受けて、その花はどこかかつて見た花に似た鮮やかな赤色に見えた。己の名前を関する、毒の花に。オズは考えを振り払って、再び酒を流し込む。喉を焼く粗悪な酒精と単調な苦みのある味は、少なくとも今日の夜にはずいぶんと不釣り合いなものだ。栓を抜いたまま放っておいていた瓶を封じ込めるように、オズはその瓶にそっと蓋をする。ぱちぱちと音を立てて弾ける酒は、次第に弱ったように口数を減らしていった。
 ――突如、夜のつめたい静寂を裂くように、こつん、と戸を叩く音が響く。その音にオズは目を見開くと、普段の鈍重な所作が嘘のようにはっとして振り返った。けれどもふわりと翻る宵闇のような髪に反して、扉が開かれることはない。薄い木板ひとつ隔てた廊下の先は、足音ひとつ聞こえない静寂に包まれていた。それなら、とゆっくりと視線を戻したオズの視界の中に、不意に見慣れぬものが飛び込んできた。
 それは蝶だった。白い翅と細い脚を持ったはかなげな蝶は、オズの部屋の窓に張り付くようにして震えている。オズはふらりと立ち上がると、油の切れた機械のようなたどたどしい所作で窓際へと近寄った。近寄ってまじまじと見ればその蝶はずいぶんと大ぶりで、後翅にはまるで精巧な細工のような模様が浮き上がっている。ふるり、と震える翅が窓にべったりと張り付いた鱗粉を散らして、それはまるで花かけらの波のようにも見えた。
 ごう、とオズの耳元で風が鳴る。風が強い夜だった。それが己の溢れる力であるのか、それとも単なる天候であるのかはわからない。それでも、その風にあおられて震える蝶はひどく哀れに見えた。オズはずくりと痛む胸をおして、透き通ったガラスの窓をそっと開く。吹き付ける風に乗って、白い蝶は舞い上がった。雪解けの季節にしては不自然なほどにつめたい風だったが、春先の風が時に刺すほどのつめたさを伴うことをオズは知っている。これもまた、アーサーとともに過ごす中で知ったことだった。記憶を閉じ込めるように、扉はばたんと音を立てて閉まる。
 覚束ない足取りでふらふらと飛ぶ蝶に指を差し出せば、それは疑うことなくオズの指へと足を下ろす。振り払ってしまえば無残に地べたを這いずることになるような、軽い身体だった。感傷、とは、おそらくこのことを言うのだろう。彼は今日は朝から不在にしていた。おそらくは城に泊まることになる、差し迫った公務が群れを成して襲ってくるのだ、と気の置けない表情でカインと笑いあっていた。さして柔らかくもなければ太さだって足りないというのに、それでもこの蝶の足は――。
 目を伏せたオズを遮るように、今度こそ扉を叩く音がはっきりと響いた。くすり、とオズは笑みを零す。気配が浮ついているのだ。ああ、もう、声を聞かずともノックの主が理解できるのだ。オズはぱちぱちと弾ける笑いを噛み殺しながら、扉の向こうへと声をかける。その声音は優しく穏やかで、聞く者が聞けばぞっとするほどに美しかった。
「入れ、アーサー」
 その声に釣られるように、ノブを捻る低い音が部屋を満たしていく。やがてちらりと扉の隙間から見えた白銀の髪は、やはりこの蝶によく似ていた。扉を隔てて繋がる廊下は等間隔にぽつぽつと灯る橙色の明かりこそあったが、夜に似合って薄暗くもある。その中で、アーサーの細い髪はいっそうきらきらと輝いていた。オズはアーサーの姿を見るたびに、北の国に降り積もる雪を思い出す。ある時まで煩わしいものだったそれは、いまはオズの記憶を鮮やかに彩っていた。
「オズ様、夜分に失礼いたします」
「構わない」
「よかった。オズ様の部屋に明かりがついているのを見て、どうしてもお話ししたくて」
 アーサーはそう言ってにっこりと笑う。マントを外し上着を脱いだ軽装のアーサーは、それだけで肩の重荷が降りたように年相応に見えた。オズはふわりと笑って腰を上げると、今まで座っていたソファのより端の方へと腰かけた。一瞬きょとん、と首を傾げたアーサーは、それからぱあっと笑みを浮かべていそいそとオズの隣に腰を下ろした。アーサーは机に置かれたままになっていたグラスを目に留めると、苦笑とも呆れとも付かないような表情で笑ってみせた。咎められているわけではないのだろう。ただ、アーサーも言葉が見つからないのかもしれない。その迷った視線を遮るように、オズはそっと蝶の乗る指先を差し出した。
「わ、この蝶は……?」
 案の定、アーサーはきらきらと目を輝かせてその蝶に釘付けになる。カインから男児は得てして虫が好きであると聞いたのはここ最近のことだったが、例に漏れずアーサーは虫が好きな子供だった。虫というより、生物そのものに興味があったのかもしれない。その頃のオズにはまだその違いは薄らとしかわからないものだったことを、ふと思い出す。蝶はアーサーの視線から逃れるように二、三度翅を動かして、それでも細い足でしっかりとオズの指に捕まっていた。
「窓に張り付いていた。お前が帰る、ほんの少し前のことだ」
 その言葉とともに鱗粉の残る窓を指させば、アーサーは腑に落ちたというようにこくりと頷いた。アーサーに似ている、と思ったことに限っては固く口を閉ざす。オズは元来、寡黙な人間である。一言二言、欠けた言葉があったとしても誰も気が付くことはない。アーサーは恐る恐るといった風にその白い指先を伸ばして、千切れそうなほどに薄い蝶の輪郭をゆっくりとなぞった。
「そうか、お前もこの空を飛んできたのか」
 アーサーが動物に話しかけることは、当時からよくあった。動物に限らず、花や食器、時計、果ては柱にまで、アーサーはまるで友人のように親しげに声をかけた。それでも、この声はどこか異なった響きをはらんでいるように思う。とくり、とくり、と鈍く聞こえる鼓動がいやに響いている。
「春の空は寒いだろう。春は優しいばかりの季節ではないのに、お前は勇敢だな」
 そう言って、あくまで無邪気な表情で蝶を労うアーサーに、オズは知らずのうちに唇を噛み締めていた。暖炉のやわらかな輪郭の光に浮かされたアーサーの表情は、どこか遠くに見える。雪の中に閉ざされ、あるいは今後閉ざされるような夢心地のような色が浮かんでは消えていく。オズはこれが夢ではないかと疑った。自分は眠っていて、悪い夢を見ているのではないか、と考えた。そうしなければ、張り裂けそうなほどに痛みを主張する胸を見過ごすことはできなかった。
 ――だって、きっと、この蝶も、オズが救わなければ死んでいたのだ。

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