レイター・レイター
ごう、と耳元で風が鳴る。フィガロの腰に抱き着くようにしたミチルの腕は、普段以上にやわらかな生地に包まれていた。南の国はほかの地域に比べて温暖な気候にはあるが、それでも秋に差し掛かった空はつめたい風を運んでいて、後ろに座るミチルもそのつめたさに負けないようにと防寒具を着込んでいる。防寒具を着込むように言ったのはフィガロだから、ミチルはその言いつけを素直に守っていた。いい子だ、とフィガロは思う。
ミチルを空の旅に誘ったことに、さして意味があったわけではない。たぶん、そうすべきだと思ったためだ。ミチルはまだ若く、魔法使いとしての経験も浅い。箒で空を飛ぶ練習をしたことは何度もあるが、ここまでの高所を飛ぶ経験は初めてだろう。触れるミチルの腕はかすかに震えていて、それ以上に高鳴る鼓動が背中越しに伝わった。その鼓動はきっと恐怖心だけではなくて、まだ見ぬものへの期待と興味をはらんでいる。ミチルは人間としては不相応にたくましい子で、そういうところにたまにチレッタの面影を感じることもあった。
ふたりの乗る箒を掠めるように、青い鳥が羽ばたいて去っていく。獰猛な目をしたその鳥にミチルは一瞬だけ怯えて、それから振り向いてその鳥を見送った。ミチルの恐怖心は、今は少しささくれ立っているのだろう。ミチルが兄と二人きりの家に閉じこもるようになってから、半年と少しが経った。ここ最近はやっと家から出てきてくれるようになって、以前のような笑顔もだんだんと戻っている。だから、ルチルが学校の手伝いをする合間を見計らって、フィガロはミチルを空の旅に誘ったのだ。
「フィガロ先生、どこまで行くんですか?」
風は変わらず、刺すようにふたりの肌を撫でていく。フィガロは身体を捻るようにしてくるりと振り返って、後ろに乗るミチルの姿を見た。その表情はあくまできらきらとして明るかったが、どこか翳りが残っている。フィガロの身体に押し付けるようにして抱き締めた鞄の中の小瓶が、明確な形を持って鞄の中を転がっていく。ころ、から、かち、と、大事に大事に閉じ込められた中身がぶつかる音がする。
「んー、ミチルはどこがいい? ティコ湖でも、レノのところでも、どこでも連れて行ってあげるよ」
フィガロはつとめて冷静に答えた。大きな円を描いて、ゆっくりと箒は旋回する。眼下に広がる緑は南の国にまだ手付かずの自然が残っていることをありありと示していて、それはフィガロの心のどこかを刺激した。ルチルとミチルはいずれ、この南の国に根ざした魔法使いとして生きていく。そうして長い時を過ごす中で、いつかきっとこの森を訪れることもあるだろう。ミチルは考えるような素振りで口を噤む。ミチルの淡い栗色をした瞳にも、そのいっぱいの緑が映っていた。
「……わからないです」
ミチルはしばらくして、フィガロの背にその額を押し付けた。囁くように、ミチルは答える。フィガロはその言葉に小さく頷いて、片手でそっとミチルの頭を撫でた。大ぶりな旋回を繰り返していた箒を操って、フィガロは太陽の方へと向かった。昼時を少し過ぎた程度の太陽は明るかったが、同時に冬めいて薄暗くもある。刺すような日差しとは無縁で助かった、と思いながら、ふたりの乗った箒は進んでいった。
フィガロは時に不用意なほどに騒がしいこともあるし、ミチルも年相応に明るくおしゃべり好きな子供だったが、今はふたりの間に言葉はなかった。口を閉ざしていたがるのはミチルの方で、フィガロは時に勝手に走り出すほどに達者な舌を封じられたことをやや不満げに思いながら、それでもミチルの希望通りに黙っている。ほんとうは、話したいことがたくさんあるのだ。レノックスが狼に噛まれて帰ってきて、大事はなかったけど名誉の負傷になりそうだと話したこと、診療所の二つ隣の家に住む女性の胎児は問題なく育っていて、ちょうどミチルの生まれた頃に生まれることになるだろうということ。フィガロはミチルが少しだけ距離を置いていた日常を味わわせたいと思っていたが、それは今ではないのだろうとも思った。
考え込みながら閉口したフィガロの眼前が、突然ぱっと開ける。想定通りの光景に小さくほくそ笑みながら、フィガロはミチルに呼びかけた。ミチルの背をとん、と軽く叩いて促せば、その通りにミチルは身を乗り出すようにしてフィガロの背から離れる。次第にミチルの目がゆっくりと見開かれて、ぽかんと空いた口からはやや掠れた歓声が漏れ出た。歓喜に満ちたミチルの瞳を嬉しく思うと同時に、心のどこかつめたいところがまだ素直で純朴だと皮肉げに囁いた。
「わあ、ボク、海は初めて見た……!」
そこは海だった。淡い水色の海は温暖な気候を映し出していて、吹く風につられるようにゆったりとしたうねりを生んでいる。そんな穏やかな海に反して海岸線は切り立った崖になっていて、そこにただの人間が立ち入ることは困難を極めるであろうことを感じさせた。道中もはっきりとした道があるわけではないから、ここはまだ南の国の人間の手が及んでいない場所の象徴のようなものでもある。フィガロはたまにこの海を訪れていたが、ここは故郷の北の海とは似ても似つかなかった。
フィガロは身体を捩って箒に横座りになると、ちらりと横に座るミチルの様子を覗き見た。いっぱいに見開かれた瞳は海というものへの好奇心に爛々と輝いていて、かすかに浮かぶ恐怖心も未知のものへの健全なものだ。フィガロはその顔を見て、なんとなくすとんと腑に落ちるような気分を覚える。はっきりとした悩みがあったわけではなかったが、それでもこの半年は息が詰まるような気分だったのだ。
しばらく押し黙ってその光景を見つめていたミチルが、不意にフィガロの瞳を覗き込むように視線を向けた。次いでミチルはきょときょとと視線を逸らすと、うっすらと頬を赤く染めながら鞄から小瓶を取り出した。フィガロは自分の知覚がぐっと遠くに行ってしまうような感覚を覚えながら、にっこりと笑みを浮かべてみせる。フィガロ先生、と何度か言い淀みながら、ミチルはその瓶の蓋をそっと開けた。中に詰まった飴やお菓子はルチルとフィガロの魔法で防腐処理が施されているが、その実、ルチルとフィガロ、そしてレノックスは、その瓶が空になることを望んでいる。
停滞したふたりの会話を煽るように、びゅう、とひときわ強い風が外套をはためかせて吹き上げていく。慌てて瓶の口を手で押さえたミチルに今度は本心からくすりと笑って、フィガロはミチルの頭をゆっくりと撫でる。ミチルはくすぐったそうにかすかに身を捩って、それからようやっと決心したように口を開いた。
「その、この景色、瓶に入れられないかな、って……」
ぱち、とフィガロは瞬きをする。一拍遅れた反応をからかわれたと取ったのか、ミチルは頬を膨らませてその小さな指でフィガロを小突いた。いてて、とわざとらしく笑って見せれば、ミチルの唇にも明るい笑みが浮かぶ。じゃれ合うようにミチルと笑い合いながら、フィガロはミチルのその魔法使いらしいアイディアに心の底で安堵していたし、それ以上にその小瓶にこの光景が入ることを嬉しく思った。ルチルやレノックスはともかく、少なくともフィガロはその小瓶に入れてもらえることはないと思っていたのだ。
けれども、それにはひとつの問題があった。ミチルは景色を閉じ込める魔法をまだ知らないのだ。今教えてしまってもいいが、それはミチルにとってはひどく高度な魔法に見えてしまうだろうから、箒の上という安定しない場所で教えるのは得策ではない。持続する時間が短ければそう難しい魔法ではないのだが、きっとミチルが望むのはそういうものではないだろう。フィガロにとっては躊躇うほどの魔法ではなかったが、なにせミチルにとってフィガロは「南の優しくてちょっとだめなお医者さん」なのだ。ミチルの抱く印象を自ら壊してしまうようなことはしたくないし、かといってミチルの期待を裏切るようなこともしたくはない。考えた末に、フィガロはぱちりと片目を瞑ってみせた。
「うん、俺が魔法でこの景色を閉じ込めてあげることもできるよ」
「わっ、やった!」
嬉しそうに華やいだ笑顔を浮かべたミチルの口元に、フィガロはぴんと立てた指を添えた。日が翳るように、ミチルの瞳が不安げに揺れる。
「でも、長くはもたないかなあ」
その言葉に、ミチルは目に見えて落ち込んだ。鮮やかさを保ったままころころと変化していく表情が愛おしくて、フィガロはミチルの手に自らの手を重ねてみる。ミチルは瞬きをして、フィガロの方をそっと覗き込んだ。ミチルの手はまだフィガロの手の半分にも満たないほどに小さくて、それでも赤子特有のふやけたような柔らかさはもうとっくの昔に消え失せている。ある程度の年を経た魔法使いにとって時間は瞬きほどに速く過ぎていくが、それでもフィガロにとって、ここ十数年は時にぐったりとしてしまうほどに長い時間だった。
「だから、ミチルが大きくなったらまた来よう。それで、今度はミチルが自分でやってみるんだ。それでいいならやってあげるけど、どうする?」
フィガロは悪戯っぽく笑う。ミチルの面持ちは途端にぱあっと明るくなって、その指先は瞬く間にフィガロの指を振りほどいた。
「お願いします!」
ミチルの弾むような声音は、吸い込まれるような秋の空に溶けていく。急かすようにフィガロの服の袖を引っ張るミチルに苦笑しながら、フィガロは自室に置き去りにしたアミュレットを思い出した。あのアミュレットをミチルに見せたことはない。ルチルは何かの拍子に見ているかもしれないが、ルチルと話す中で話題に上がったことも一度たりともなかった。あれはべつに、いい思い出だけで形作られたものではない。つめたくてさみしくて限りなく無為な、つまらない記憶を詰め込んだものでもあるのだ。
だから、フィガロは意図して自分のアミュレットのことを頭の隅へと追いやった。今思い出すべきはそのアミュレットを作る際になぞった手順で、今考えるべきはこの隣に座る子供の幸せなのだから。呪文を囁く唇はいつになく甘く、それでいて切ない香りがした。
back