カラメルからめてからまって

 かちゃり、と軽い音を立てて目の前に置かれるレモンパイに、シノはあからさまに目を輝かせた。ファウストはそんなシノに苦笑しながら、教本として扱った辞典の類を机の端へ押しやってやる。魔法舎の中で教室として扱っている部屋はそう広くはなく装飾も少ないが、清潔感を失わないさっぱりとした内装はファウストにとってもちょうどよかった。紅茶を淹れてくると言って離席しているヒースクリフを待つことに飽きたのか、シノはさっさとレモンパイを切り分けてしまうようにネロに強請っていて、苦笑したネロは魔法で灯した火にそっと包丁を翳している。
 東の国の魔法使いたちの授業が行われたあとは、たまにこうしてそのままアフタヌーンティーに縺れ込むことがあった。べつに、はじめからそうであったわけではない。以前に訓練の中でヒースクリフとシノが驚くほど良い成果を出して、その時にふたりを労うためにティータイムを開いたことがあったのだ。それに味を占めたシノはことあるごとに褒美としてレモンパイを欲しがるようになって、渋々折れたファウストやネロのためにヒースクリフが紅茶を用意してくれるようになって。ほんとうに、いつの間にか。冬の夜に身体を寄せ合って暖を取る猫のように、東の国の魔法使い同士の距離感はひどく不器用で、ひどく静かだった。
 ネロがレモンパイに包丁を入れたところで、からりと扉が開く。鼻腔を擽る紅茶の香りに釣られて見れば、そこにはヒースクリフが立っていて、その傍らにはやや大振りな木製のトレイがティーカップとティーポットを乗せてふわりと浮いていた。たちまち部屋はわっ、と活気づいて、特にシノは主君であるヒースクリフに対して恐れ多くも遅かっただろうと文句を言ってすらいる。ネロも包丁を置いて近寄ると、トレイを受け取ってティーカップを机の上へと置き始めた。食堂ではとくにそういう素振りは見せないが、ネロはティータイムに、というより自分の食事を食べさせる環境に何らかの拘りがあるらしく、それを知るほかの魔法使いたちは配膳はいつもネロに任せることにしているのだ。
 遅くなってすみません、と言いながらヒースクリフはファウストの隣に腰を下ろすと、安堵したようにゆっくりと息を吐いた。――この日の授業は、物体を意のままに扱う魔法についてだった。集中力と精密さを重要視する分野はシノは不慣れだったが、その分ヒースクリフが優れている。それでもヒースクリフは勤勉な生徒で、訓練の中で言われたことを実践してみようとしたのだろう。紅茶のカップを手に息をつくヒースクリフの頭を、ファウストはそっと撫でた。
「え、その、ファウスト先生……?」
 途端にヒースクリフは慌てて、大袈裟な音を立ててソーサ―にカップを戻した。そうしてあからさまに動揺するヒースクリフがなんだかかわいらしくて、ファウストはくすくすと笑いながらその金糸のような髪に指を通す。慈しむように、ゆっくりと。
「教えた通り、うまくできていた。きみはいい生徒だな、ヒース」
 その言葉に、ヒースクリフはぱっと大きく目を見開いた。きっとトレイを魔法で運んだ意図には気付かれていないと思ったのだろう。白い頬をかすかに赤く染めたヒースクリフは、はにかみながらありがとうございます、と口にする。今日は機嫌がよかった。今日は機嫌がよかったのだ、と言い訳して、ファウストはヒースクリフを撫でる手を止めなかった。
「おふたりさん、パイ切ったぞー。このままじゃシノが全部食っちまうぜ?」
 にやにや、と効果音が付きそうなほどに口角を上げたネロの言葉に、今度はファウストの方がかあっと顔を赤らめる番だった。ヒースクリフも恥じらいを残しながら、そっと切り分けられたレモンパイに手を伸ばしている。何も知らないシノばかりがもぐもぐと調子よくレモンパイを貪り食っていて、きょとんと首を傾げたシノはすでに三切れ目に手を出していた。これはほんとうにすべて食べられかねない、と思ってカトラリーを使って取り分けたレモンパイは、食べられることを待ち望んでいたかのようにてかてかと光っている。
 訓練のあとのティータイムはご褒美のようなものであることも相まって、話題はたいてい穏やかで温かいものが多い。訓練のここがうまくいかなかった気がする、とか、反対にうまくいったときはシノが誇らしげな顔をして褒め言葉を待っていることもある。自分らしくない、とファウストは思うが、けれどもこのティータイムから立ち去る気はまったく起きないのだから不思議である。ファウストにとっても、同郷の魔法使いたちと過ごすティータイムは壊すことのできない時間だった。
「……うん、俺、今日はひと切れでいいかな」
 だから、ヒースクリフがそう言ってフォークを置いた時には少なからず驚いた。シノほどではないにせよ、ヒースクリフもレモンパイが好きだし、ネロの料理も同じように好んでいるはずである。何か気に障ることを言っただろうか、と即座に記憶を手繰るファウストの対面では、驚きからぱち、とネロが目を瞬かせていて、その隣でシノはただリスのように口を動かしてばかりいる。こういう時に話に切り込むのはだいたいシノの役割だが、この調子ではまともに喋るにはまだ時間がかかりそうだ。周囲の驚ききった様子を見てか、ヒースクリフは慌てたようにぶんぶんと手を振った。
「あっ、その、違うんだ。何か嫌なことがあったとか、レモンパイがおいしくなかったとか、そうじゃなくて……」
 取り繕うように言い立てたヒースクリフは、不意にばっと視線を逸らしてしまった。けれども、髪の合間から見える耳はかすかに赤らんでいて、そこからファウストにはヒースクリフがどういう表情をしているのか、容易に想像ができてしまうのだ。シノの喉がごくりと上下したのを見て、ヒースクリフはかき消えてしまいそうな声で白状した。
「魔法舎に来てから、ちょっと、食べすぎかなって……」
 ――数秒置いて、ファウストとネロは同時に噴き出した。口いっぱいに詰め込んだレモンパイを飲み込んだシノは、ずいぶん繊細だなといけしゃあしゃあと言ってのけている。愉快がる周囲の反応にヒースクリフはいっそう顔を赤らめてしまって、結局ファウストとネロは揃ってヒースクリフを宥めることになった。ネロなんか、太った、は料理人にとっては誉め言葉だ、と自分で言い切ってしまって、それがまた面白いのか、シノが愉快そうに指摘しては笑っていた。
「っくく、あはは、別に気にすることないだろ。むしろヒースはもっと肉を付けた方がいいと思うぞ?」
 いまだに尾を引く笑いをむりやり抑えながら言ったネロに、ヒースクリフは困惑しきった様子を見せた。それは先ほどの羞恥心とはまた別の、本当に単純な困惑らしく、少し引き気味に相槌を打ちながらそっとティーカップを傾けていた。ヒースクリフの用意したティーカップの持ち手部分は細く華奢なもので、そこには金で装飾された蔦が這っている。その持ち手を掴むヒースクリフの指はほっそりとしていて、まるで描かれた蔦をなぞるようにその指先にすっぽりと収まっているのだ。ヒースクリフの指先をまじまじと眺めたファウストは、感慨深げにぽつりと呟いていた。
「確かに……。ヒースクリフ、きみ、もっと食べたら」
「え、ええっ⁉」
 さも当たり前のことのように言い放ったファウストに驚いて、ヒースクリフは後ずさるように身体を引いた。まるでキュウリを前にした猫のようだ、とファウストは思う。べつに、ヒースクリフにぱっと見て判別できるほど肉がついたわけではない。ファウストとて、腕や腹回りのぜい肉が露骨に増えるようなことがあれば不快に思うものの、そうではないのだから。ヒースクリフはファウストと比べてもそう変わらない程度には小食であるし、実際、この場の中でいちばんの健啖家であるシノは話しながらもレモンパイを食べることは忘れていない。
 ――むしろ、食事量が増えたか否かを気にすべきなのはシノの方なのでは? 訝しむように顔を上げたファウストの視界へ、楽しそうににかっと笑ったネロの顔が飛び込んできた。
「そうは言っても、あんたも似たようなもんだぜ、先生」
「は?」
 挑発するような色を伴って耳に届いた声に、ファウストは間髪入れずに反応を返した。その眉は不愉快そうにきゅっと歪んでいて、自分は不機嫌であるとあからさまに主張している。しかし、ネロはそんなファウストの反応を見てけらけらと笑っていて、シノもレモンパイを頬張りながらも頷いている。いっそう眉間の皺が深くなったファウストのことを普段は諫めるヒースクリフは、驚くことにこの機にと言わんばかりにファウストに食ってかかった。
「そ、そうですよ! 先生だって、普段は服に隠れてわかりづらいですけど、ほんとはびっくりするくらい細くてすらっとしてるんですから……!」
「そうだな、ファウストはスタイルがいい」
 震える声で言い放ったヒースクリフを援護するように、頬張ったレモンパイを飲み込んだシノが重ねて口を開く。ふたりの抵抗を見てネロはいっそう笑い声を深くして、機嫌がいいのかふたりの皿に気前よくレモンパイを乗せている。ファウストはといえば、年若いふたりの無邪気な言いように毒気を抜かれたように黙りこくって、それからゆっくりと紅茶に口を付けた。苦みが少なく、果実のようなほのかな甘みが残る茶葉はファウスト好みのもので、それがさらにファウストをリラックスさせた。
「……おまえたち、それは褒め言葉じゃないのか?」
 呆れ混じりに指摘したファウストの言葉に数秒遅れてはっとしたヒースクリフは、今度こそ視線を阻むように顔を手で覆ってしまった。細い指先の合間からは林檎のように赤らんだ美しい顔立ちが見えて、ネロはそれを見てまたにやにやと笑っている。ファウストもティーカップを傾けながら、それでもその口元には確かに笑みが浮かんでいた。けれど、シノだけが普段と変わらないような白々しい顔をしていて。
「褒めたつもりだが?」
 何の躊躇いもなくそう言い切ってしまうのだから、周囲はたちまち苦笑を浮かべてシノの頭をくしゃりと撫でた。



title - 白鉛筆

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