どこにもいないかたちを探している
「……迷っている」
から、と網を挟んだ向こうのジョッキに入った氷が音を立てて融けた。吉継は目を伏せてわずかに杯に口を付けた。向かいの左近は驚いたようにかすかに瞬いて、それから首元を戒めていたネクタイを解いた。じゅう、と肉の焼ける音がした。焦げ色のついた肉は食にさほど頓着しない吉継にもたいそう質の良いものだと解るもので、吉継は一旦心持ちを切り替えてトングを掴んだ。左近がネクタイと上着をハンガーに掛けてしまう頃には吉継がもうある程度の肉を取り分けてしまっていたから、二人はまず両手を合わせて食前の挨拶をした。静かだが暖かい沈黙だ、と吉継は思った。
吉継は大学生、左近は商社勤めのサラリーマンである。今の世で左近と幾度目かの出会いを果たして以来、こうして食事を共にすることは多々あった。今日は左近がこの焼肉屋を見つけてきて吉継を誘ったが、反対に吉継が店を探して左近を誘うこともあった。気前の良い左近はよほど時間などが切迫したときでなければ食事代をすべて払ってくれることを覚えて以来、少々厚かましいところのある吉継は彼を連れまわしていた。もっとも、左近もまんざらでもないのでは、と吉継は予想してさえいた。だって、吉継は三成の友なのだ。
「吉継さんが迷ってるなんて、珍しいですね」
今日は吉継にとって渡りに船だった。
「今年の”贈り物”についてだ」
吉継が現在迷っていることを打ち明けられる人間は、この世に左近ただひとりだった。吉継と左近は同じ過去と秘密を抱えていた。二人はあの日から繰り返し何度も何度もこの世に生を受けては、それを満喫してゆっくりと死んでいっていた。ある時は徳川によって築かれた太平の世の最中に、ある時は異国文化が花開いた大正の世に、歴史をなぞるように吉継は生まれては死んでいた。その中で古い知人に出会うことは何度かあったがそれはまばらなもので、次の生でまた出会うことができる確証はなかった。けれども左近とはどの生においても出会った。輪廻の輪を巡るなかで記憶が失われていない限り、左近とは本当に毎度出会っていた。三成とは、一度も出会っていなかった。
いつ、どちらが言い出したのだったか、吉継はゆうに百年を超えてあやふやになってきた記憶を手繰るようにタレに絡めた肉を食べながら、この不思議な慣習が生まれたきっかけを思い返していた。一旦口を噤んだ吉継を見て、左近もしばらくは焼肉を味わうことにしたらしかった。こういったところが女性を手玉にとる理由なのだろうし、三成が信頼していた理由なのだろうと吉継は密かに思っていた。
初めに新たな生を受けたのだ、と自覚したのはいわゆる江戸時代の頃だった。吉継は京に住む薬師の息子として産まれた。ある日吉継の住む近辺で火事が起こり、そこに火消しが駆り出されたのだが、その中で軽く火傷を負って吉継の家を訪ねた者がいた。それが左近だった。左近とはその際に打ち明け話をして以来、友人とも共犯者ともつかない奇妙な関係を築いていた。それから数年後の秋に、吉継と左近はある噂を聞いた。
――三条大橋の橋のたもとに、死に装束を着た男性らしき幽霊が立っている。焦げ茶のよう色の髪で顔は見えないが、男性のうなじにはまるで生気を吸い取っているかのような椿が赤々と咲き誇っているという。その異様な外見に反して、幽霊は人を襲うでもなくただ立っているのだ。
その話を聞いたとき、二人は直感的に知ってしまった。知って、どうすることもできないと思った。三条大橋のたもとに訪れてみたが、その幽霊は二人の前に姿を現さなかった。ただ、いやに鼻に付く血の匂いがあたりを包んでいたことだけを覚えていた。血の匂いが夕日に混ざってかすかに満ちる中で、二人はどちらからともなく三成が長い休みを取っているのだと考えた。以来、その時期になったら身体が許す限り二人で三条大橋に訪れては、三成の心が休まるような”贈り物”をそっと置いていくのが習わしになった。この生でも、その習わしのせいで左近と幾度目かの再会を果たすことになった。
「偶にはストレートに花にしようかと思ったんだが」
吉継は一旦言葉を切ると、杯にあるだけのありったけの酒を煽った。喉を焼くようにして通っていくきつい酒が、なぜだか心地よく感じた。吉継はずっと昔から酒には強く、これは何度新たな生を受けても変わることはなかった。左近は唐突に話し出した吉継に過剰な反応を返すでもなく、じゅう、と肉汁の弾ける肉を箸でつまみながら吉継の話を聞いているようだった。
「俺にセンスがないせいで、馴染みの花屋でないとニュアンスが伝わらない。俺はあいにく京には住んでいないから、京に馴染みの花屋なんてものはない」
言い切ると、左近はまあ時間はあるしゆっくり決めればいいと思いますよ、と鷹揚に頷いて塩を振った肉を食べた。やっぱりここは質がいいと呟いている左近のビールジョッキが空になっていたから、吉継はベルで店員を呼んで酒を注ぐように言った。左近はちいさく目を見開いていた。今日はやけに左近の酒の進みが早いことに吉継は気が付いていたし、その裏にきっと何らかの出来事があって、それが暴飲と自分を誘った理由なのだろうと感じていた。けれども問い詰めることはせず、相変わらず眉一つ動かさないまま胡椒で味付けをした肉を頬張った。肉は舌に乗るとじわりと溶けるようだった。さすが高給取り、と吉継は心の中で左近を揶揄った。
「というか、馴染みの花屋なんてものがあったんですね」
地味に失礼なことを言うな、と吉継はちいさくくちびるを尖らせるような仕草をした。吉継はさほど情緒や風流を解する人間ではなかったが、それでもあの時代に必要とされたある程度の教養は持ち合わせていた。
「細川忠興の妻とその父が経営しているもので、近所にあるから馴染みがあるんだ」
「ああ、なるほど」
花屋の店主についてはあまり顔を合わせたことのない吉継から見ればそうとしか表現できなかったのだが、おそらく彼の駆け抜けるような生を見たことのある左近には、もしかしたらまた違った情景が見えているのかもしれないとも思った。
「ちなみにたまにいわゆるビジュアル系バンドのような格好の男が入り浸っている」
「それはまあ、十中八九」
「おそらく、これも流れだ」
言って、吉継は話を切るように肉を口にした。もぐもぐと肉を咀嚼しながらちら、と左近の様子を伺ってみる。じゅうじゅうと音を立てる肉をトングで器用にひっくり返しながら、二杯目となったビールジョッキを傾けていた。吉継は内心で形ばかりの謝罪の言葉を呟いた。吉継が”贈り物”を花にすべきかということで悩んでいるのは半分は真実だが、半分は嘘だった。吉継が暮らしている近くに細川忠興の妻とその父の経営する花屋があるのは嘘ではないが、正しくはもし花を贈るならどの花がいいだろうと迷っているくらいで、実際には花は”贈り物”の選択肢からはなかば外れているようなものだった。けれどもその話を出したのは、ひとえに左近に揺さぶりをかけるためのものだった。
頭上に照らされた橙色の電灯が、かすかに白濁した酒の水面にてらてらと反射していた。左近は自身に負けず劣らず何を考えているのかわからない飄々とした男だが、だからこそ吉継にはひとつの確信があった。それは、左近はきっと三成に関わることでないとここまで調子を崩すことはないだろう、というものだ。自分がそうであると感じているからこそ、百年をゆうに超える時間を共有している左近もきっとそうであると思ったのだ。おおかた、三成についてなにか考えるきっかけがあったのだろう。そういえば先月の半ば頃からしばらく出張に行くと言っていたから、それで何かあったのかもしれなかった。
気にししいだと言われればそれまでだ。けれども吉継と左近は、いまだ出会うことができていないのだ。彼らは再会を果たすことが叶っていた。考えると、悲しいともつらいとも違う不思議な感情が吉継の胸の中を支配した。まるで広い草原にひとりで投げ出されたような、埋めようのない感情だった。
(――ああ、これが)
寂しい、というのだ。
「仕事で島根の方に行ったんですよ」
「……ほう」
吉継の見立て通り、しばらくして左近は話し始めた。もっとも、しばらくというのは網の上にあった肉を焼く作業が一区切りついた頃のことで、結局口を閉ざしていた理由は肉にあるのか当人の感傷にあるのか吉継にはわからなかった。負けたような気がする、と吉継は思った。タレは肉汁が絡んで独特の風味を醸し出すようになっていた。それだけ話し込んでいたのか、と吉継は少し驚いた。酒の中身が少なくなっていることに気付いて、吉継は先ほどと同じように店員を呼んで注ぎ足してもらった。とぷん、と水滴は揺れていた。
「そこで、阿国さん、……伝わりましたっけ」
「ああ、何度か死んだときに会った」
ここが個室のある店でよかった、と少し遅れた安堵の息を零した。左近が三成に信頼されていたのは、こういった点からなのだろうと感じた。何も言わずにただ必要なことだけをやり遂げる仕事ぶりは、三成によく似ていた。
少し、羨ましいと思った。
「さすが吉継さん。なら話が早い。……彼女、まだだ、って言ってました」
「……」
吉継は押し黙った。手元の杯に注がれた酒は、くしくも吉継の表情をはっきりと映し出すことはなかった。曖昧な気持ちを打ち消すかのように吉継はごくりと酒を一息に飲みほした。かあっと熱いものが身体を廻っていく感覚が、いまばかりはきつく、けれども心地よく感じられた。吉継の指先はこれまでにないほどにつめたくなっていて、酒の熱と指先の冷えた感じはよく整えらた対比のように見えた。つくねやら牛タンやら、単純な肉ではないものを焼き始めた左近を尻目に、吉継は空の杯を両手で包むようにしていた。
そういったことだろう、と吉継は目星をつけていた。左近の言葉は茫洋としたところがあったが、それでも吉継にはそれがなにを指しているのかがすぐにわかった。さすがに「出雲」の人である阿国と顔を合わせたということは予想外だったが、内容は半ば予測ができていた。ただ、予測ができていても。
かちん。トングの歯がぶつかる音で吉継ははっと意識を戻した。見れば、先ほど網に乗せたばかりだと思っていたつくねやら牛タンやらにいい焼き色がついていて、左近は一足先にそれらを味わっているようだった。ずるいぞ、と言って吉継も箸を伸ばす。箸を使って半分に割ったつくねは中までしっかりと火が通っていて、タレに漬けてもまだその熱さを保ったまま吉継の舌を喜ばせた。もう片方もタレの入った小鉢に沈めながら、今度は牛タンに狙いを定めた。平皿に移し塩を振ると、牛タンはそれだけで極上の味を作り出すのだった。
(左近が勝手にやったこととはいえ、待った甲斐があった。待った、……そうか)
吉継は牛タンを噛みながら、酒の熱とは違うじんわりとしたものが身体を駆け巡っていくのを感じた。
「待つのは、楽しい」
「と、言うと?」
突然投げかけられた脈絡のない言葉にさすがの左近も面食らったようだったが、ほんの一瞬で普段の調子を取り戻して吉継を揶揄うように笑っていた。本当に左近と三成は似ている、と吉継は思った。
「待って望みの物が得られた時の喜びが膨れ上がるからな」
言葉にして、吉継は自然と自分が微笑んでいるのを感じた。だって、嬉しいのだ。吉継はいままで流されるままに生きていた。けれど長政や三成の熱情に触れて、それを尊いものと思った。彼らの激情に、吉継は触れている。彼らのように、吉継は自分の運命を掴むことを諦められない自分にようやっと気が付いた。吉継はいつだって、彼らの熱情が嫌ではないのだ。
「同感です。部下としてはまあ、もうちょっと早く帰ってきてくれてもいいんじゃないか、くらいは思いますけどねえ」
左近の気の抜けた言い方に、吉継はとうとうくすりと声を零した。牛タンが一寸前よりもとびきり美味しいものに感じられて、吉継は現金なところのある自分に苦笑を漏らした。自分がなぜ笑っているのか、吉継でさえはっきりとしないくらいだった。それでも解っていることと言えば、自身と左近は三成のことを待っていること、いま口にしている牛タンが美味しくて頬が溶けてしまいそうなこと、その程度だ。けれどもそれでいい、と吉継は思った。酒を追加するために鳴らしたベルのりん、という音が、凛として美しく感じられた。
「俺は友だから、あいつを長く休ませてやるのも悪くはないか、と思うのだが」
「吉継さんは殿を甘やかしすぎですよ」
吉継と左近ははそれぞれなみなみと酒の注がれた酒杯の縁同士を、かちんと透き通った音を立てて触れさせた。お互いの酒杯は形から注がれている酒からなにもかも異なっていて、吉継はこの乾杯に三つ目の酒杯が増えている光景を幻視した。その形はワイングラスにひどく似ていて、中には葡萄色をした液体が注がれていた。ああ、お前らしい。吉継はそう思いながら、祈るようにそっと目を閉じてゆっくりと酒を口にした。
「他の者たちにも幾度となくそう言われたな」
二人は三成が新たに生を受けることを、光に満ちた生を抱くことを、ずっと願っている。
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