真夜中にきみの輪郭が騒ぐ
「初恋の人だったの」
盃に映った孫尚香自身のかんばせを彼女がどう思っているのか、孫権には見当もつかなかった。月がたっぷりと光を与えていた。孫尚香の耳で、普段は付けないような華奢な耳飾りがちりりと揺れた。妹が嫁ぐのだというのに、孫権はどこか話の外に立っているような感覚を持っていた。それは自分のすべてではなかったが一部ではあった。父や兄ならどう思っただろうか、と、盃に問いかけてみたくなった。祝福している自分がいるのは確かだった。花吹雪は妹によく似合っていた。
耳の奥底に、かすかな琴の音色が沈んでいた。赤壁での戦いの戦勝祝の折も彼は琴を爪弾いていた。もっとも、その大半は諸葛亮という劉備の軍師と気難しいことを話している風だった。孫権にはそれが少し悲しかった。呉の酒宴で、美周郎の琴はひとつの演目だった。孫権はその琴の音色を片手にたくさんの人と笑い合って、叱られて、屈折したところのないままに青年を抜け出したものだから、その音は思い出のひとつになっていた。孫権は目を伏せた。孫尚香には兄がなにを思い浮かべているのかということが手に取るようにわかった。周瑜が毒の矢に倒れたときの震えた手を思い出しているのだろうと思ったし、それは事実正しかった。
「だって私の近くにいたのって、黄蓋とか程普とか韓当とか……ううん、彼らを貶したいんじゃないんだけど」
「ああ」
「策兄様はああだし、権兄様はだいたい、そんな感じじゃなかったから」
「きついことを言うな」
「まあね。だから、うん。そうなの」
妹の言う初恋の人が孫権には痛いほど理解できた。女性のような恋愛に直結する感情ではなかったが、孫権も似通った思慕を抱いていたことは確かだった。憧れだった。だって兄はああだ。愚か、とか、そういう言葉とは対極に位置するような兄だったが、孫権にとっては飛び出しがちで頻繁に父に窘められている印象が強かった。だから、周瑜に憧れを押し付けていた。彼の弾く琴が好きだった。しなやかな体躯をいっぱいに動かして、優雅に敵を屠っていくさまをずっと見ていた。周瑜は兄でも父でもなくて、どこかもっと遠い場所にいたような気がした。
孫尚香は窓の外に目を向けた。兵士の詰所にはまだぱちぱちと音を立てるような篝火が灯っていた。明日にはこの景色を見られなくなるのだと思った。身分を隠して薬屋の三男だという兵と弓の腕を競うことも(たいてい孫尚香が打ち負かして彼を悔しがらせている)、近くの畑で獲れた甘い果実を頬張って練師に叱られることももうないことを感じていた。きっと劉備のもとは良い場所だろうが、その良い部分はこの建業とは離れていた。
酒杯がだんだんと掌の温度でぬるくなっていると孫権は感じていた。普段なら酒に味を占めて浴びるように飲んでしまうのだけれど、いまは一滴も喉を通る気がしなかった。反面、妹はよく飲んだ。とぷん、と酒杯の酒が揺れた。孫尚香のこういう思い切りのいい部分はきっと孫策に似たのだろうと思った。強かで時勢を見る目がある点は父に似ていた。孫尚香はたくさんの人から愛されて、そのまま真っ直ぐに育った。孫権の大切な妹だった。
「周瑜にあんなことを言われて悔しいか」
「ううん。そうね、いつかそうなるんじゃないかって思ってたの」
「……周瑜はたまに、私たちにはわからないようなことを言う」
「かもね。きっとそういうところを策兄様は気に入ってたのよ」
孫尚香の口から孫策の名前が出て、孫権はぞくりとわずかに肌を震わせた。たぶん、周瑜は傷を持て余していた。政務とはまったく関係なく単に臣下と主として話すときにも、周瑜は時たま檻に入れられた獣のような飢えた瞳を晒すことがあった。孫権にとって、そういった周瑜の姿ははじめて見るものだったが、同時にどこか共感ができた。自分に対してのやり場のない怒り、憤り、失望感、そういったものを紛らわすために自分自身に噛みついているときの、きつい目をしていた。
兄上ならどうしているだろうか。孫権は知らずのうちにいまは亡き兄のことを思い浮かべた。建業はたっぷりとした夜に沈んで、朝に引き上げられることを拒んでいるような気がした。孫権は、明日が来ないでほしいと願っているわけではなかった。ただ、その時間がひどく倦んでいるように感じられた。星の動きまでゆったりとしていて、それを祝福ととるか皮肉ととるかは孫権にはわからなかった。
(いやな予感がする。ぞわぞわと這うような、拒むことも受け入れることもできない感覚だ)
歩くよりも遅い速度で、夜は過ぎていった。
***
矢に貫かれた左腕が焼けるように痛かった。毒がじくじくと傷口を蝕んでいた。周瑜は寝台の上で身体を折って、暴走するような熱を抱えていた。切れ切れの吐息が、周瑜ひとりの部屋にかすかに木霊していた。孫権と話した日の夜には、いつもこうなった。重い傷を負った身体に無理を強いているから、という理由もあるのだろうけれど、いちばんは孫権を欺いているという罪悪の感情からだった。それは周瑜自身がいちばんに知っていた。それに、きっと孫尚香に対してはそうは感じないだろうとも思った。心の片隅で望まざる婚儀ではないという彼女の言葉に縋っている節があることも知っていた。
開け放った窓からはすこしだけ蒸した夏の香りのする風がするりと滑り込んで、行き場をなくして部屋を漂っていた。周瑜は知らずのうちに手を伸ばしていた。誰かに掴んで欲しかったのかもしれないし、これから最大の罪を犯そうとする自分を孤独に突き落として戒める意味もあったのかもしれなかった。周瑜にとって、ここ数日のことは自分の心境ばかりがひとり歩きした現実味のないことだった。自分の麾下の兵たちに話を付ける間、周瑜はずっと昔のことを思い返していた。私兵に自ら指示を出すことは、昔なら常の事だった。
不意に、こつん、と低い靴の音がした。武芸の型にのっとった几帳面な足音を、周瑜は知っていた。靴音の主に対してどちらかといえば複雑な心境もあったから、手を取ってほしかったわけではなかった。けれど、かすかに安堵した自分がいることもまた事実だった。周瑜が熱を身の内に収めてしまおうと奥歯を噛んだ間に、木の軋む音を立てて扉は開いた。周瑜はゆっくりと瞼を空けた。燭台の灯がいやに目に痛かった。はたして、周瑜の予想とまったく同じ人物がそこにはいた。
「周瑜」
「っ、程普殿。こんな夜半に、いかがされたのですか」
「ただの散歩だ」
寝台の傍に近寄った程普は、周瑜を見下ろして口を開いた。周瑜は程普に見下ろされていると感じることがなにより苦痛だった。程普のことを嫌っていたわけではなかったが、孫家に仕えるものとして張り合うような気分を抱いていたことは確かだった。程普に一方的な対抗心を抱いていた頃を思い浮かべるたびに、並んだ馬の蹄の音を思い出した。周瑜の中で拠り所としてぼろぼろになった記憶だった。
程普はもしかしたら、自分を許してくれるかもしれないと思った。程普は昔から周瑜に対して厳しいところのある人だったが、同時に意見は同調することが多かった。周瑜にとって、程普は合理的な人だという印象が強かった。だからこそ、自分がいまから犯そうとしているおおきな命令違反、革命、そういった手のことに関しても黙っていてくれるのではないかと期待してしまった。けれど、どこかでそれは甘えであるとも思っていた。この責任は呉の宿将である程普が背負うにはあまりに血に濡れていた。それでも。
(身を委ねてしまいたくなる。若輩者だと私を詰る言葉の、その鋭さに)
誰かにこの行為を許してほしいわけではなかった。けれど罪悪は膿んだ熱という形をとってひどく周瑜のことを責め立てた。それに程普を巻き込むことはできなかった。周瑜と程普は孫家に同じ夢を見ていたけれど、その夢の源泉は異なっていた。周瑜はかすかに自嘲した。一寸前にだれかに対して手を伸ばしたときに、本当にこの手を掴んで欲しかった存在は周瑜自身がなによりも知っていた。知っていたからこそ、その夢を見ることはできなかった。自分が縋った夢を、自分自身で壊したくはなかった。
「起こしたな。 ……身体に障る、無理はするな」
「程普殿が、そんなにお優しいことを仰るなんて」
「馬鹿にするな、痴れ者が。貴様の双肩にのしかかるものは何であるかを自覚するのだ」
周瑜は周瑜は微笑を浮かべて、痛みに耐えるように左腕を抱え込んで目を閉じた。周瑜に対して優しい人はたくさんいた。けれど、対等な人は少なかった。いままではずっと孫策だけだと思っていた。けれども、眼前の程普の瞳は底まで澄んでいた。寝具を周瑜の胸元まで軽く引き上げた手は、皺が目立ちながらもごつごつとして胼胝の多い武人の手だった。質実剛健で実直な印象はどこか孫策と重なった。自分に気を払ってくれて、それだけでいまの周瑜には十分だった。自分が噛みついた傷を代わりに埋めてくれた気がした。それは、明後日のない道を歩む周瑜に対してのいちばんの手向けになった。
魯粛には悪いことをしたものだ、と周瑜は唐突に思った。魯粛は敏いから周瑜の企てに気が付いているかもしれないが、政務に忙殺されているのなら気が付いていないかもしれないとも思った。そのどちらであったとしても、魯粛はただ事実だけを受け入れ、眼前の出来事を処理して前へと進んでゆくことができるだろうと思った。不思議と、彼を欺いているという感覚はなかった。周瑜ははじめて魯粛と語らった晩のことを思い出した。周瑜は魯粛を信頼していた。だから、きっと魯粛も孫策のことを気に入るだろうと思っていた。彼もまた孫策を知らないのだと思うとすこしだけもったいないような気がして、周瑜はかすかに笑みを浮かべた。彼ともっと昔の話をしたかった、とも思った。
「程普殿。明日は、尚香殿の婚儀ですね」
「ああ。貴様が提案したのだ、這ってでも見よ」
「それは……手厳しいことだ。そうだ、あなたが手を引いてくださいませんか」
「ふん、本来ならば逆であろう」
「耄碌された程普殿は、思い浮かばないもので」
皮肉を言うと、程普は吐息のようなささやかな笑い声を零した。それがなによりも嬉しくて、周瑜は収まりつつあった熱を抱えて目を閉じた。地平線では夜が白むような、そんな頃だった。
title -
エナメルback