ホリゾン・ブルー
※シス×エッセルのカップリングを前提にしています。
霞む視界の中で、カーテンの隙間から滑り込むように差した陽光がやわらかく輝いている。
カトルは音を立てないように気を払って沈み込んでいたベッドから身体を起こすと、隣で眠る姉の髪にそっと指を通す。桜色の髪は白いシーツの海に浮かぶように散らばっていて、その髪が絹糸のような指触りを保っていることを密かに誇らしく思った。
ヘッドボードに背を預けると、カトルは眠る姉の顔を覗き込む。目元をくっきりと表す化粧を落とした表情はともすれば子供のようにあどけなくて、投げ出された腕は細く、指はシーツに溶けるかのごとく白い。所在なさげにゆるく敷布を掴むその指に、カトルはゆっくりと己の指を絡める。
まだ影のかかる薄明の中にあって、その光景はうすぼんやりと輪郭を溶かして浮かんでいる。
カトルたちを乗せる艇であるグランサイファーは騎空艇の中でも一線級の規模を誇るが、大人数で運用することを想定したつくりをしているため、ひとつひとつの部屋はそう広くはない。さしづめ秘密の箱庭みたいだ、と思い浮かべたカトルは、それから浮ついた気持ちと嫉妬心を綯交ぜにしたような幼い考えに苦笑した。
朝日が昇らなければいいのにと、カトルは半ば冗談ながら考える。慌ただしい朝の時間は長く引き伸ばされて、姉が健やかに惰眠を貪る環境を守っていた。
(姉さん、僕も「子供」じゃなくなったのかな、)
かすかに脈打つ指をぎゅっと握りしめて、カトルはカーテンで覆われた窓の外へ逃れるように視線を動かす。まだ宵闇の色をわずかに残した空を覆いつくすように、朝の支度を急ぐ足音が遠くに聞こえる。慌ただしいことだ、と嘲笑しつつも、その実その慌ただしさをカトルは嬉しく思っているのだ。
だって、今日は姉の晴れの日なのだから。考えて、また指先に力が入る。相変わらず男らしい節くれだった手のひらとは縁遠いカトルの指を辿って伝わる力に、姉はぴくりと肩を揺らした。
しまった、と思う。慌てて指を解けば、姉のけぶるような睫毛がふるりと震える。身体を捩りながらゆっくりと目を覚ました姉の秘色の瞳は、普段のきりりとして大人びた印象を与える様子とは一変して、微睡みに溶けるように所在なげな視線を漂わせている。
姉はやおら身体を起こしてその視界に戸惑ったカトルのかんばせを映すと、とろりとした瞳をいっぱいに崩して微笑んだ。カトルはどきりとする。寝汚く朝に弱いカトルと違って、幼い頃から姉はいつも冷静で落ち着いた「姉」だった。
カトルの心の中に、穏やかに差し込む日差しに似合わないほの暗い独占欲がまたも顔を覗かせる。だって、これから姉のこういった表情を見ることができるのは自分ではないのだ。
これからは、カトルにとって気に食わないあの男だけが、姉のことをひとりじめすることができる。それはカトルにとって腹立たしくて屈辱的で、けれどもどうしようもなく腑に落ちて、皮肉なほどに祝福できることだった。
「はやいね、カトル」
どろどろと蟠る胸中から逃げるように黙りこくったカトルのことを気にも留めず、カトルの双子の姉――エッセルは、未だ朝靄の中にいるような曖昧な表情のままぽつりと零す。
答えあぐねたままぱち、と目を瞬かせたカトルの頬にエッセルは手を添わせると、わずかに背を伸ばしてその額に口づけを落とす。そのまま下ろしていたカトルの髪を梳くようにゆっくりと指を通したエッセルに、ああ、僕らはやることなすこと似てるんだ、なんて不思議な感傷を抱いた。
寝衣の肩紐がエッセルの細い肩からはらりと落ちて、露になる四肢は女性らしい丸みを帯びている。
カトルは微睡みの間をふわふわと漂うエッセルの行動に溜息をつきながら、その身体に残る思い出に同じように口づけを落とした。エッセルの肌は白く滑らかで、顔を近づければかすかに花の香を練り込んだ石鹸の香りがする。
「姉さん、起きて。今日二度寝したなんて、つまらない冗談にもならないよ」
「ん……」
カトルの言葉にエッセルはぱちりと何度か瞬きをして、それからこくりと頷く。その表情は眠気とはまたべつのもので緩んでいて、気を許しきったエッセルの面差しにカトルはまた腹立たしさを覚える。
ベッドサイドのテーブルに積まれていたエッセルの衣服を彼女の胸元へと押し付けて、カトルはふいと背を向けた。僕と姉さんは異性なのだから、と言い訳をする。エッセルに着替えるように促したのは自分自身なのに、エッセルの触れる手の温かさを追想するばかりの手持ち無沙汰な気分を覚える。
そんな理不尽な感情を押し殺すようにカトルも用意していた私服に袖を通そうとして、ふとカトルの背後からくすくすというやわらかい笑い声が零れ落ちた。カトルははっとして振り返る。
「カトル、そんなにシスのこと、嫌い?」
言葉とは裏腹にエッセルの瞳は細められて、唇は愉快そうにゆるく弧を描いている。その言葉にカトルはかっと頭に血が回ったような気分がして、それから大きく息を吐いてその感情を呑み下す。
腹の底から沸々と湧き上がる感情が嫌悪でないことを認めたくなくて、けれどもエッセルの口からシスの名が出たことに腹が立つのも事実だった。エッセルとシスのことをいちばんに祝福したのはカトルであるはずなのに、カトルの胸中ではいまも燻ぶった炎が消えない。
――シスとは、カトルとエッセルも身を置く「十天衆」という組織に所属する、いわば同僚である。二人と同族であるエルーン族の男で、年齢はおそらく二人より年上だろう。おそらく、というのは、彼自身も己の年齢を知らないためだ。
暗殺者の一族に生まれた彼は幼い頃からその鬼才を発揮し、瞬く間にすべての暗殺術を修めたために、長く幽閉されて育っていた。その後、彼は様々な要因により環境への恐怖と苦痛を爆発させ、その有り余る力により自らの一族郎党を皆殺しにしたのだという。
曰く付きの経歴を持ってはいるものの、彼自身は生真面目で穏やかな性格をしていて、幽閉されていたために起こったコミュニケーションの不得手と相まって、彼が荒っぽいような人物であると感じることはそう多くなかった。
だからこそ、カトルは腹が立つのだ。
「……気に食わないって反応をして当然だろ、あんなやつ」
苦虫を噛み潰したような表情で呟くカトルに、エッセルはいっそう笑みを深くする。
エッセルとシスはこういうところで似ている、とカトルは思う。理由はそれぞれ異なるものの、こうして投げかけた言葉の刃をあっさりと受け流されてしまうことは、カトルにとってフラストレーションを溜める要因になるのだ。
エッセルの反応はそれが意図的なものであることに反して、シスの反応は暖簾に腕押しと言わんばかりのものであるからこそ、一層腹が立つのだけれど。
ほんとうは、べつに嫌いではない。
無論手放しで好きと言えるはずはないが(そもそもカトルにとって、そういった無償の愛を注げる存在はエッセルただひとりである)、けれどもまるでシスの一挙手一投足に石を投げるほどに毛嫌いする理由はカトルにはない。数年前に起こった事件以降、腹を立てることこそあれど、カトルはむしろシスのことを信頼していた。
それでもこれほどまでに複雑な感情を持て余すのは、ひとえにシスが姉であるエッセルと結ばれる――、ありていに言えば、結婚するのだと決まったからだ。
今日は、カトルにとってたったひとりの姉の結婚式だった。式は大掛かりな会場を借りることはなく、自分たちが身を置く騎空艇グランサイファーの一角を使った小規模なものにすると決まっていた。
「ん……。ねえカトル、さみしくなるね」
「……はあ?」
レース生地でできた黒いジレベストに袖を通しながら口にされた言葉に、カトルは思わずぽかんと呆気にとられたような反応を返す。さみしい、というエッセルの意図をカトルは掴みかねて、ともすれば傲慢でぜいたくな言葉のようにも感じてしまったのだ。
だって、さみしいのはカトルの方だ。エッセルはたったひとりの姉だった。物心ついた時から二人だけで生きていた、ほんとうに信頼できるただひとりの人物だった。
それがこうしてシスと結ばれて、けれども二人の関係自体を否定する気はさらさらなくて、責任感の強いエッセルと生真面目なシスの相性がいいことはわかりきっていて、そもそもエッセルの人生にカトルが過剰に干渉することができるはずがないというのに。
それでも許せないのはただただカトルが幼くて狭量だからだと、突きつけられるみたいでいやだった。それが事実であると認めている自分が誇らしくて、同時に誰よりも嫌いだった。
それなのに、さみしいなんてどの口で言うのだろう。エッセルはこれから永遠に寄り添って生きていくことができる人がいる。けれどカトルは、欠けた穴を埋めるすべを持たないのだ。
「姉さんには、シスがいる」
吐き捨てた声音は地を這うように低くて、胸の中のさみしさと独占欲と愛おしさを混ぜたどす黒い感情をはらんでいる。
エッセルはカトルの言葉にびくりと肩を揺らして瞠目して、それからまるでちいさな花のように微笑んだ。その瞳には慈愛と余裕がいっぱいに満ちていて、カトルの胸中を暴くようなその視線が堪らなく苛々して、同時にとびきり怖い。
エッセルにはシスがいる。シスは世間知らずで融通が利かないが、他人の悩みを放置するほど薄情な人物ではないし、懐に入れた人物への愛情と敬慕は信じられないほどに深い。
きっとシスなら大切な姉を隣に置くことに足りるだろうと考えて祝福したのはカトル自身であるのに、けれどいざカトルの手からエッセルの手が離れる日が迫ればカトルはその事実にどうしようもなく嫉妬した。エッセルとカトルは良い姉弟だったが、伴侶として共に歩むにはなにもかもが鏡合わせすぎるのだ。
シスにないものねだりをするのは何度目だろう、とカトルは考える。全空の中でも随一と言える格闘術、暗殺術に通じ、自分がどれほどの屍を積み上げてもなお渇望する力を持っていた時からずっと、カトルは永遠にシスに妬ましさと羨ましさの混じった感情を抱いている。
真一文字に唇を引き結んだカトルに対して、エッセルはあくまで普段通りの立ち振る舞いを崩さないで、美しい微笑をたたえたままにそっと呟く。
「そんなことないよ」
嘘だ。カトルは叫びたくなる。
姉さんまで「大人」みたいな舌触りのいい言い訳をするのか――、と口にしそうになって、やっと自分たちがもう「大人」と言えるほどに年齢を重ねていることに気が付いた。
時間の流れは万能の魔術や無敵の計略のように、二人の間を取り巻いている。複雑な表情を浮かべたまま黙りこくったカトルは、しかし継ぎ足された言葉に今度こそいっぱいに目を見開いた。
「だって、私にとって、カトルはたったひとりの弟だから」
カトルはずっと、今日が来なければいいと思っていた。今日のことを、自分の身体と心のすべてから「姉」を切り離す日だと思っていたのだ。
気付けば、カトルの目尻をつう、と透明な雫が伝っていた。声もなくはらはらと涙を流して、それからやっとカトルは自分が泣いているのだと自覚する。驚いて目を見開いてもとめどなく涙は流れ続けていて、頬を辿って泣き笑いのように上向いた唇に吸い込まれた涙はたまらなく塩辛い。
胸が張り裂けるほどの切なさを抱えたまま、それでもどうしようもなく嬉しかった。涙の膜の張られた目をきゅっと細めれば絞り出すようにいっそう涙は零れて、その雫は火照った体を冷ますようなつめたさを持っている。
カトルは泣き虫な子供だった。スラム街を取り巻く大人のことを恐れ、怯えていつもエッセルの陰に隠れていた子供は、姉を守るための力を手にして虚勢を知った。
幼い頃に二人だけで身を寄せ合って暮らした中でカトルが涙を零していれば、エッセルはその子供らしく丸い指でそっと目元を拭ってくれたけれど、いまはただ微笑んでいるだけである。それは二人の間に流れる時間をすべて詰め込んだような、神秘的で秘密めいた静寂だった。
身にまとったオーバーサイズのシャツに涙が吸い込まれていくのを見て、ああせっかく着たのに着替えないと、とカトルはぼんやりと考える。エッセルはふらりと立ち上がると、壁に据え付けられた箪笥から純白のタオルを取り出してカトルへ差し出す。
ぱちくりと目を瞬かせる中でも涙は加減を知らずに流れ続けていて、エッセルの手からひったくるようにタオルを受け取ったカトルは、外聞をかなぐり捨ててそのタオルに顔を埋める。
毛足の整ったタオルはふわふわと優しげな手触りで、カトルの涙をゆっくりと吸い上げていく。それは幼いエッセルの指先ではなくて、その事実がどうしようもなくカトルを安堵させた。
自分たちは変わった。時間とともに成長して、ひとりでも生きてゆけるようになった。補い合って生きていかないで、ひとりでも生きてゆけるほどに自分たちは幸せで、けれどもそのうえでまだ姉弟であることに価値を置くのは、きっと幼い頃に身を寄せ合ったこととは別の意味を持っているのだ。
カトルは手にしていたタオルを顔から離すと、不意にベッドの縁に腰かけていたエッセルの腕を巻き込んで白いシーツの海に身を投げる。わ、と驚いたような声を上げて一緒に倒れ込んだエッセルの桜色の髪がベッドに散らばって、それはカトル自身の杜若の色をした髪と混ざり合っていく。
カトルは変わらず一生分の涙を枯らすように涙を零し続けていて、わずかに空いたカーテンの真下に位置するベッドはきらきらと鮮やかな朝を告げる光が差し込んでいる。ぱたりと落ちて染みをつくる涙が、どうしようもなく鮮明に輝いていた。
「姉さん、昔はこうして一緒に寝ることが当たり前だったよね」
「でも、二度寝なんてできなかった」
「うん」
天井を見上げてぽつりと呟いたカトルの言葉に、エッセルはそっと手を絡めながら言葉を重ねる。
式の前夜は一緒に寝よう、と持ち掛けたのはカトルの方だった。それはエッセルとシスが結婚することを決めてすぐに、とにかく言わなければいけないという焦燥に引っ立てられて口にしたことだ。その時はなぜそれほどまでに焦るのかがわからなくて、焦りを抑えるように自分とエッセルは双子の姉弟なのだから、とずっと考え続けていた。
たぶん、焦っていたのではない。祝福する自分の中に嫉妬心と独占欲を持った自分がいることが耐えきれなくて、それを消し去ってしまいたかったのだろうと、いまなら思う。
ぜんまい仕掛けでこつこつと時を刻む時計は、もう朝の支度も終わるような時間を示している。扉の前をばたばたと駆けていく足音も二度三度のものではなくなっていて、しかしこの部屋の扉が叩かれることは一度もなかった。カトルが必死に守ろうとした朝の微睡みは、カトルの意志以上に誰かの愛情によって形作られている。
「ねえ、カトル。シスがね、昨日教えてくれたんだ。団長さんに『さみしい』って言われたって」
エッセルの言葉にカトルはほんの少しだけ驚いて、それからかすかに目尻を緩める。困り果てていた、と付け加えたエッセルに、カトルはたまらなくなって噴き出してしまう。
昨日はエッセルとシスは遅くまで式の打ち合わせをしていて(身内だけのちいさな式なのだし用意することもそう多くないだろうに、とばかにしていたけれど、いま考えればきっとこれも妬心だ)、エッセルがカトルの苛立ちを逆撫でするかのようにさみしいと口にしたのは、きっとこのせいだ。
団長さん、とはこのグランサイファーを管理する騎空団の団長のことを指し、シスとは父親絡みで浅からぬ因縁を持っている。エッセルが無条件の信頼と無償の愛をカトルに躊躇いなく明け渡すように、シスにとっての団長もそういった存在なのだ。エッセルはカトルに弱いし、シスは団長に弱い。
シスを打ち倒すような力を持ちながらも常人然として当たり前のように振る舞う団長に、カトルは隔たりを感じることもあったが、いまばかりはそっくり心の形を重ね合わせたような共感と、それから実際にそれを口にしてしまえる勇気に対する羨望を覚えた。
「どう返せばいいのかわからなくて、『嬉しい』って返事をしたら怒られた、って言ってた」
シスらしい、とカトルは思う。シスはその生い立ちから他者とのコミュニケーションを不得手としているが、シス自身はそのことにあまり自覚的ではない。例の事件以降はその無遠慮かつ自分を顧みないさみしい物言いも改善傾向にあったが、なおもこうしてたまに顔を覗かせては誰かの腹に火をつける。
そのことを語るエッセルの声音はやわらかく、シスを心から愛おしく思っていることがありありとわかるような声音で、それは電流を流すようにカトルの悪戯心を刺激する。ほんのちょっぴりの良心を押しのけて、カトルは意地悪な笑みを浮かべて口を開いた。
「姉さん、なんであいつなんかと?」
言葉とは裏腹にその声にはなくて、どちらかといえばばかにするような、揶揄うような、そんな冗談を言うような軽やかな雰囲気を纏って音は弾んで消えていく。
「ん……。いちばんは、シスの瞳が優しくてきれいだったから、かな」
その声音は花が咲いたことを喜ぶ無邪気な子供のように明るくて、まるで恋に恋する少女のように夢見がちで甘い。カトルはゆるくかぶりを振ってようやっと起き上がろうとして、――。ふと見上げたエッセルの瞳に彼の持つ水晶のごとく透き通った色が被さったように見えて、それから、ほんとうに叶わないんだと思って、そっと目を伏せた。
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