まだ風の冷たい2月。吉川は乗り込んだタクシーの中で隣に座る少年に話しかけた。少年はまだ先ほどの対局を思い出しているようで少し上の空と言った様子だった。囲碁に出会ってから、棋士になるまで。壁にぶつかりながらも一直線に進んできた少年は少し夢中になりすぎるきらいがあった。
「清春」
「っ、あ…ハイ」
清春と呼ばれた少年は肩に触れられてようやく吉川に顔を向けて返事をした。先ほどの対局がよほどいい対局だったのだろう。危なっかしいながらも挑戦的な打ち方は何とも清春らしかった。春に開催される北斗杯の前哨戦として東京に連れてきたがなかなか出足は好調のようだ。
「ちょっと腹空いてへんか?」
「え、まあ」
「宿戻る前にちょっと付き合ってくれへんか」
駅の手前でタクシーを降り、夜が深くなってきた東京の街を歩く。見慣れない町に学生服で歩いていることに少し背徳感を感じたが、次第に嗅ぎなれたにおいが清春の鼻孔をくすぐった。大通りから少し薄暗いわき道に入る。細い道を抜けると、また車の通れる少し広めの道に出た。街頭もまばらだったがその匂いの漂う先はすぐわかった。店先には少し褪せた藍色の暖簾。明かりの漏れる窓。そして漂うソースのにおい。
「東京まで来てお好み焼きて」
「なじみの店やねん、堪忍してや」
吉川は少し申し訳なさそうな顔をしながら暖簾をくぐった。少し呆れていた清春も続いて店の中に入った。
吉川はまた気の抜けた様子で店員に声をかけるとまっすぐカウンターにむかった。席数も少ないこじんまりとした店だったが、どこか大阪に戻ってきたような心地がして、息をついた。吉川に倣って椅子を引いて腰掛けるとあっと小さな声が上がった。カウンター越しに立っている、少し小柄な女が発した声らしい。少し長い前髪をピンでとめて、薄手の長袖を腕まくりしている。年は、自分より少し上だろうか。
「君が吉川先生のお弟子さんやね」
東京のど真ん中だというのに聞きなじみのある関西弁を聞いた清春は少なからず驚いた。まあ、と小さく返事をすると女は優しく笑って初めまして、と言った。
これが社清春と、ナツの初めての出会いである。
狭い店内だったがテーブル席は埋まり、カウンター席も残り一席と繁盛しているようだった。女将もといナツの母親も気立てがよく、よく気を回してくれているし、ナツ自身も客に話しかけられたりと客に愛されていた。吉川が贔屓にするのも分かる。清春の視線に気付いた吉川は女将と話していた目線を清春に向けてすまんすまん、と謝った。
「冬子さんにはまだやったな、これ社清春言うて今度プロなんねん」
「ナツから聞いとりますよ」
まだ15歳やのにすごいねぇ、と女将、もとい冬子は目尻を下げた。笑い方がどことなくナツに似ているような気がした清春はペコリと頭を下げると視線を漂わせる。自分くらいの歳で、いや自分より年下の人間で既にプロになっているやつもいる。決して褒められたものではない。これから、本当の勝負が始まるのだ。すこし視線を上げた瞬間にぷしゅっと音がして、すぐごとりとコーラの瓶が置かれた。
「はいっサービス」
「…どうも」
ナツは屈託のない笑みでどういたしまして、というとカウンターの中に入り冬子と吉川の会話に入っていった。詳しいことを何も聞いていなかった清春はやけに親密な様子の3人を見て、どことなく置いてけぼりになったような心地がした。置かれた瓶からはぱちぱちと音が鳴っていた。
二人が来た時刻が遅かったこともあって店に人もまばらになってきたころ。閉店時間が近づいてきたこともあって、吉川は「お暇する前に…」と厠に立った。すこし手持無沙汰になった清春は手元のコーラの瓶を見つめた。中身がなくなって向こう側が見えるほど透き通った瓶。緑がかった店の店内が見えた。するとよこからぬっと逆さまになったナツが現れた。
「うわッ」
「っふふ…」
ごめんごめん、と言ってナツはカウンターの向こう側から清春の横に移動し、椅子を引いて座った。突然となりに座ってきたナツに清春は戸惑いつつ、大丈夫ですと返した。
「ごめんね、身内話してもて」
「いえ…先生とは長い付き合いなんですか」
「…吉川先生ね、うちのお父さんの友達で…
そのころからご贔屓さんやねん」
父のことを思い出すようにナツはゆっくりと語った。少し蚊帳の外だった清春はナツに最初いい印象を持っていなかった。それをゆっくりとほどいていくように、自分と、自分の家族のことを話し始めた。
この店にはナツと冬子のほかに誰も店員らしき人の影はいない。会話に出てきた父と言うのも姿がないのだ。どう言葉をはさんでいいものか考えていた清春はナツの次の言葉を待った。
「お父さん、もう亡くなって三年になるんよ」
「ちょうど私が君くらいの年にね」その言葉に言葉を失った清春ははっとしてナツの表情を見た。清春が聞いたことにどこか居心地の悪さを感じていたにもかかわらず、ナツは柔らかい表情をしていた。受け入れて、前に歩んでいる人の目。
「お店辞めよか、ってお母ちゃん言っててんけどね
続けることにしてん」
父の作り、母が守った店。
修業に出ている兄のこともあったし、彼が戻るまで店を守ろうと思ったのだ。父が残した店をやめたくなかった。なくなってしまうと、父の面影が消えてしまう気がして。
「この店継いで、世界一おいしいお好み焼き作んねん
それが、夢で目標」
「ちょっと変な自己紹介おわり!」そう言うとナツはにこりと笑って席を立った。清春はナツが店の人に、吉川に、大事にされる理由が分かった気がした。強い決意と、屈託のない笑顔。店と、父を大切に思っている彼女は皆に愛されている。
「君は?」
「え、」
「君はなんで棋士になったん?」
その言葉に、とっさに清春は何も返せなかった。
緩やかに、それでも鋭く放たれたナツの言葉は、清春に深いしこりを残した。
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