ドイツ屈指のフットボールクラブチーム「バスタード・ミュンヘン」。その本拠地にある一際大きな練習場の前で、中に入りたくても入れない私はただの不審者だ。
いや、入場の許可はあるのだが、不安が私を襲って、動悸に冷や汗、もう少し近づけば過呼吸の症状まで出てきそうだった。
ただギムナジウムの同級生に言われて、フットボールの知識を叩き込んで作った演算プログラムを、こんな本格的な場所で使いたいなんて、割と本気で頭おかしいのか?と今でも彼のことは疑わざるを得ない。
時計の針が約束の時間に近付くにつれて、動悸は酷くなる。立っていられなくて壁際にしゃがむ。薬を飲もうと、リュックを下ろすと、影ができた。
「おい、大丈夫か?」
「っぁ!?」
「おいおい、ビビり過ぎだろ。お前がいつまで経っても入ってこねぇから、俺がわざわざ迎えに来てやったって言うのに」
「ご、ごめんなさい……」
「謝らなくていい……て言うか、お前、クソ顔色悪いぞ。本当に大丈夫か?」
「う、うん。薬飲むから、少し待ってて」
ピルケースを取り出して、幾つかの薬を飲む。薬を飲んだ安心感で、気分は少し回復した。しばらくすれば、汗も引き、動悸も収まるだろう。
「持病か?」
「えっ……と、うん、まあそんなとこ……」
「……そうか。いくぞ」
「あ、うん」
落ち着いた私を一瞥して、さっさと歩いていく彼の後ろを追いかける。
別に、疾患のことを隠すつもりは無かった。けれど、何故か彼には失望されたくなくて、言えなかった。
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「ひ、広い……」
練習場は思っていたよりも広く、1人で来ていたら迷っていただろう。
「オーナーとか監督に話はしてある。お前はその演算プログラムが役に立つ事を証明するだけでいい」
「うん……」
練習場の上階へ上がり、すぐ現れたドアを彼がノックした。
正直とても不安で仕方ないけれど、さっき薬を飲んだおかげで症状が出ることは無かった。
「ミヒャエルです」
「入れ」
部屋に入った彼に続いて私も進む。
部屋にはオーナーと監督らしき人と、ノエル・ノアがいた。
「こいつが、この前話した演算プログラムを使って、試合の動きを数値化してみせた……」
「ぁ、ガブリエラ・リヒテンベルクですっ」
勢いよく頭を下げた。
オーナー(多分)から頭上げて、と言われる。
座るように促され、オーナーたちの向かいに彼と座った。
「ガブリエラ、君のことはカイザーから良く聞いてるよ。お世話になってるね」
「いっ、いや、そんな……」
「その例のプログラムも、一日で仕上げたって話じゃないか。是非、見せて欲しいのだが、構わないかい?」
「あっ、はいっ」
リュックからノートパソコンを取り出して立ち上げる。
事前に作ってきたプログラムの入力されたファイルを開き、オーナー達にみせた。
「えっと、このデータは直近で行われたバスタード・ミュンヘンの試合映像からのデータです。選手の基礎データがカイザーくんのものしか手元に無いので、解析対象は彼のみになっていますが、他の選手の基礎データを入力すれば、それも反映されて、試合中のあらゆる行動が数値化されるようにプログラムを組んでいます。お恥ずかしながら、フットボール経験者では無いので、戦術など細かいところまではまだ反映できていないのですが……。今後は戦術含め不足している要素のプログラムを組み込むこと、バスタード・ミュンヘン全選手のデータの反映等々追加していきたいなと……」
「ほう……凄いね……」
「キック精度まで数値化されているのか……」
オーナーと監督はパソコンを見ながら感嘆の声を漏らす。
そして、ノエル・ノアだけは、私を見て言った。
「君は、このデータをどう解釈している?」
解釈。数字を噛み砕いて言葉にすればいいだけ。だがそれは、彼のプレーにフィードバックをするということ。ノエル・ノアは、フットボール初心者の私を、頭脳で試している。
「えっと……データ全体を見ると、カイザーくんのプレーや能力は文句なしだとは思います。ただ、この試合の相手が悪かったのでしょうか、心理の乱れがプレーに出てる場面が多々見受けられて、当然そこの数値も低下を見せています。普段はあまり相手の煽りには乗らない方だとは思うんですけど……」
チラリと彼を見る。はぁ……と大きく息をつく。
「相手の煽りが執拗くて、ちょっと強引なプレーに持ち込んだだけだ」
ふいっ、とそれだけ言ってそっぽを向いてしまった。
「……とまあ、私の解釈は以上です。数字は、真実を可視化してくれています。時に残酷であるとしても」
ノエル・ノアは静かに頷いた。
それを皮切りにオーナーが立ち上がった。
「君の開発したプログラムは素晴らしい。何より、カイザーも認める技術の持ち主だ。是非、我々バスタード・ミュンヘンに協力してくれないか?」
オーナーは私に手を差し出した。
認められたのだ、大好きな数学で。
極めたところで将来役に立つことは無いと、父に言われた数学で。
私も立ち上がり、その握手に応じた。
「私で、お役に立てるのなら!」
それから話はトントン拍子に進み、まだ学生という事もあるので、ギムナジウムを優先すること等の配慮もありつつ、このバスタード・ミュンヘンの練習場やスタジアムにスタッフとしての出入りを許可された。
オーナー達からの説明諸々が終わり、私は彼の練習を見せてもらうことになった。
部屋から出て、練習場へ向かう足取りはさっきこの廊下を通った時よりも軽い。
「カイザーくん、ありがとう。あの時、声を掛けてくれて」
「……別に、礼なんていい。俺は、お前のその頭脳が誰にも利用されないよりは、俺が使った方がいいと思ったから提案しただけだ」
「それでも、貴方のお陰で、首席以外の存在価値が出来たから……ありがとう、カイザーくん」
「ミヒャエル」
「?」
「いや……ミヒャ、だな」
「??」
「呼べ」
「えっ」
「ほら、早く」
「……ミヒャ……くん」
「もう1回」
「……ミヒャ、くん」
「そうだそうだ。クソいい子だなァ、ガビィちゃんは!」
「……は!?」
彼に、愛称呼びを強要された挙句、私もおじいちゃんやおばあちゃん、母親以外に呼ばれたことの無い愛称呼びをされた。
何が起こっているの!?と脳内が混乱する。
「これからもそう呼べ。俺のクソ可愛いガビィ?」
有無を言わさず、彼は私の顎に指を添えた。
真っ白にショートした脳は、ただ、彼の行動を待つしか出来ない。
「さぁ、楽しませてくれよ?子猫ちゃん」
耳元で、そう囁かれた後、チュッと頬にキスされた。
胸が、ドクドクと脈打って、うるさい。
この動悸は、疾患の症状でありますように。
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