背後で、ギシッ、とベッドが軋む音がする。その音の主は分かりきっているので、私は黙々と作業を続けた。昨日の練習試合の映像とデータを照らし合わせながら、監督に提出するレポートを作成する。試合の次の日はオフになることが多いが、私にとっては一番忙しい日であると言っても過言では無いだろう。
「ガビィ」
「どうしたの?」
またギシッとベッド軋ませた彼が私に声を掛ける。
私はPCから目を離さずに返す。
「ここ、誤字」
そう言って、彼は私の机にタブレットを置いて指を指した。
「わっ、ほんとだ。直さなきゃ」
書いていたレポートを遡って修正する。これは昨日の深夜に書いたところだなぁ……と思っていると、ノートPCが閉じられた。
「休憩だ」
「いや、まだ……」
目標まで終わってない、とも言わせず、彼は私をデスクチェアから立ち上がらせた。
そのままソファに座らされたと思えば、彼が私をぎゅっと抱き締めた。
「わあっ」
「今日はオフだぞ?」
「そうだけど……」
「俺に構わないでどうする」
不貞腐れた声と共に、私を抱き締める力は増す。
データの整理してるよ、と前もって言っているし、承知の上で家に来ているはずなのに、すぐにこうやって私の計画を乱すのだから、本当に予測出来ない。
「ミヒャくん、くるしい……」
その筋肉の付いた身体でぎゅうぎゅうとされては、私の息が色んな意味で持たない。
悪い悪い、とひとつも思っていない声で彼は私から離れた。
「あ、ガビィ。ネイル、剥げてるぞ」
ふぅ、と胸元に手を当てて息を整えていた私のその手を取る。
「ほんとだ。この前塗り替えたばっかりなのに」
剥がれた所だけ塗り直すしかないか、と立ち上がって、ネイルラッカーの入ったケースを出す。少し窓を開けて、先にリムーバーで剥がれたネイルを取り、ソファに戻る。
彼はネイルラッカーに興味があるようで、ケースの中を見ていた。そして、おもむろに二色取り出した。
「ガビィ、手」
「えっ?」
「塗ってやる」
「……えぇっ!?」
そんなに、ネイルに興味があったのだろうか。そう言い出すのは、意外だった。
ケースから細めの筆を取り出して、彼に渡してみる。
「これですると、塗りやすいよ」
「あぁ。心配しなくても、綺麗にしてやる」
「心配……というか、ミヒャくんがネイルに興味があるとは思わなくて……」
「興味?別に興味は無いけど、ガビィはいつも爪を綺麗にしてるからな。そういうサロンにでも通ってるのかと思ってたけど、自分でやってるとはな」
器用でお洒落が本当に好きなんだな、と私の爪に筆を当てながら言う彼もまた器用だ。
チームのユニフォームカラーに合わせてクリムゾンレッドとブラックの濃い色で揃えていたのだが、一つだけ、鮮やかなブルーとゴールドのラメが光る。
「ありがとう、ミヒャくん!すごく綺麗!」
その指だけどこか特別な感じがして、見る度に今日のことを思い出してしまいそうだ。
「あ、ねぇ、ミヒャくんも手、貸して?」
「?あぁ」
先程まで筆を握っていた手を拝借して、同じ様にブルーのベースとゴールドのラメを彼の整った爪に重ねた。彼は、私の行動を止めることはせず、ただただ見ていた。
「ふふ、ミヒャくんはやっぱりネイル似合うなぁ。指長いし、爪の形も綺麗だし」
「……ガビィ、楽しいか?」
「えっ!あっ!ミヒャくん、嫌だった!?」
「いや、そういう訳じゃない。ガビィが随分と楽しそうにしてるから」
クソ可愛いと思って、そう言って彼は口角を上げる。楽しそうにしていた自覚がなかった私は、何だか恥ずかしくて、俯いて、彼の爪に色を重ねる。
「爪、お揃いだなぁ?」
「そ、そうだね!あ……ミヒャくん、これ、ノアさん達に怒られないかな?」
今日はオフだからいいものの、明日からはまたいつも通り練習がある。爪くらい、フットボールに直接は関係しないものの、風紀とかそういう点でどうなのだろうか。
「これくらい大丈夫だろ。まあ、何か言われても取る気は無いしな」
「案外、ノアさんも興味持つかな?」
「おいやめろ。想像したくない」
「えぇ」
「あの合理主義者がネイルに気付くかも怪しい」
「そ、そう……?この前、ノアさんに、ユニフォームの色だなって言われたよ」
「……」
彼はうげぇとでも言い出しそうに顔を歪めた。
確かに、機能・効率重視の傾向があるドイツでは、ファッションに疎い……というか興味が無い……というか。派手に着飾ったりするという文化は薄い。だから、メイクやネイルをしている人は多くはない。
「ミヒャくんは、オシャレだよね。小物類の合わせ方も上手だし、何着ても似合うし……」
「そうか?まあ、何着ても似合うことは否定しないが……」
「しないんだ……」
その自信が羨ましいよ、と返す。
「ガビィだって、ちゃんと自分の似合う服をわかって選んでいるんだろ?」
「うん、まあ……ちゃんと似合ってるかどうかは別として、着たい服を選んでるし、似合う様に他のアイテムも合わせたり、努力はしてる……と思う……」
「俺からすれば、ファッションに対して努力しようと思って実行している事は凄いと思うぞ?その努力は充分ガビィの自信になるだろ」
「あはは、ありがとう、ミヒャくん。ミヒャくんにそう言って貰えるだけでも嬉しいし、頑張ってる甲斐があるよ!」
オシャレをする事は、元々好きだったけれど、今は彼の隣に立っても恥ずかしくないように、と頑張っている部分もあるので、本人からそう言って貰えるのはとても嬉しい事だった。
「次のオフは、ショッピングでもするか。そろそろガビィに新しいアクセサリーをプレゼントしようと思っていたから、一緒に見に行こうぜ」
「ショッピングは全然いいんだけど……その、プレゼントも嬉しいんだけど、あんまり高価な物は……ね?大丈夫だよ……?」
「高価?俺はガビィに似合うと思って選んでるだけだが?」
平然とそう言ってのける彼。やはり、年俸3億の人間は心持ちが違う。
「いや、まあ……それでも、身の丈というものが……」
「ガビィには充分合ってるだろ」
「えぇ、そうだといいけど……」
「ガビィが好きな服を着て、高価なアクセサリーを付けて、何が悪い?他人の目なんて気にする事ない」
「ミヒャくん……」
「ガビィはそんな事気にして、お洒落する事を諦めるのか?違うだろ?」
「うん……私は……私の意思もあるけど、その、ミヒャくんに可愛いと思って貰いたいから、お洒落をするの諦めないよ」
その言葉に、彼は少し目を見開いた後、再び私を抱き締めた。
「あぁ、お前がこれ以上可愛くなってしまったら、俺はお前を外に出せなくなるなぁ」
「えっ!?」
冗談だ、と笑う彼だが、割と本気のトーンで言っていたので、少し冷や汗が滲んだ。
話題を変えようと、視線を宙に浮かせると、かなり秒針の進んだ時計が目が入った。
「わっ!もう休憩おわり!本当に、レポート間に合わなくなっちゃう!」
そう言って彼から無理くり抜け出し、デスクに戻る。
「ガビィ……」
「な、なに?」
不服そうな顔をした彼が、近付く。
抜け出したのは、不味かっただろうか……と思っていると、不意に唇が塞がれた。
息が続かなくなりそうになって、もう終わり、と両手で押し返すと、案外すんなり彼は離れた。
「み、ひゃくん……?」
「いつ終わる?」
「?夜までにはおわれると思うけど……」
「手伝えることは?」
「えっ、手伝ってくれるの?」
「2人でやれば、すぐ終わるだろ」
「ありがとう!すごく助かるよ!」
「その代わり……分かるよな?」
「えっ」
彼はにこりと笑って私の頬に指を滑らせる。
そして、上機嫌にタブレットを持って、再びベットを軋ませた。
数拍置いてから、分かりませんけど……!?と心臓が幾分か速く脈打つ。
「ガビィ?早くしないと終わらないぞ?」
「う、うん……」
顔の熱をどうにかしようとすっかり冷めたコーヒーを飲んで、彼の鼻歌に冷や汗を流しながら再びレポートに取り掛かった。

この後の展開に、予想もつかないまま。
 

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