控えめな足音とともに耳心地のいい軽い音が聞こえる。同時に頭の中が眩しくなった。途端、冴えた意識が今まで自分が眠っていた事を悟らせる。思わずハッと息を吸い込んで、勢い余って噎せ返った。
��――!?��
誰かが誰かを呼んだ。咳き込んだ苦しさからか涙が溢れて視界が烟っている。目の前の誰かが何かを言っているがそれすら上手く聞き取れやしない。ただただ今は、苦しい。
ぼんやりとしていた白が、くっきりと輪郭を持つようなそんな感覚でわたしは目を覚ました。窓から差し込む光があまりにも眩しくて、暑くて、唸るように声をあげた、つもり。
あつい、ただその三音発するだけだというのに、わたしの喉から出たのは声ではなく掠れた空気。なんだこれ。一つの違和感に気が付いてしまうと、面白いもので次から次へとおかしな点が溢れ出てくる。というよりも、初めからこの空間自体がおかしかったのだ。
ここはどこ。
少し黄ばんだ白い天井、壁、清潔なままのカーテン、ベッド、大きな窓から見える空は青く澄み渡り寝そべったわたしからはちらりとしか見えない木々の頭部分、声を出そうとすれば痛む渇いた喉、気怠く重たい身体は疲労感に満ち、不健康そうな自分の手からは管が伸びている。揺れる眼球でそれを辿ればポタリ、ポタリ、と規則正しく落ちる点滴。
病院。
いま何時だ、というか今日はいつだ。時計もカレンダーも自分のスマホすら見当たらないこの空間に、時間なんて存在していない。
どうしよう、なにこれ、わたしはここで何をしているんだろう。
情報量はきっと十分だけれど、わたしの頭はなにも理解しようとはしなかった。まるで脳みその内側からなぞられるような奇妙な感覚が鈍い痛みとなってわたしを刺激する。思うように動かない腕で額に触れるとやけに疲れた。
不意に部屋のドアが開く音がした。スライド式らしいこの部屋のドアの音は少しだけ重たい。
「......なまえ?」
そう声を発したその人に一瞬、脳みそだけが宙に浮き上がった気がした。脳みそが不在のわたしの頭は考える事をやめたらしい。わたしはただ目の前の人を見ながらぼんやりとしていた。何の反応もしないわたしを不思議に思ったのか、その人は再び「なまえ、大丈夫?」と不安げに言う。そこでわたしはようやく我に返った。
「お母さん」
目の前の人は誰でもない自分の母だった。どうやらわたしの頭はまだ寝ぼけているらしい。何も考えられなかったあの瞬間、母の存在すらいまいち理解していなかった。目の前にいる人物として認識していただけだった。
今日はつくづく変だ。
「気分はどう? 気持ち悪かったり、痛いところは?」
「えっあ、あ...大丈夫、だけど」
「良かった。いま看護師さん呼んでくるから。」
そう言って部屋を出た母は何だかやつれて見えた。ここは、病院だ。
「通勤途中に倒れたと。覚えていませんか? 交差点の信号待ち中の事だそうですが。」
「...すみません、覚えていないです....」
まあ意識が朦朧としてたのでしょうね、とベッド脇の丸椅子に座る医師は言った。クリップボードに挟んだ用紙にわたしの様子が記入されていく。
あれから目覚めた後、看護師さんが二人ほど来室し、体温やら何やらを測った。そのデータを片手に病室へやってきたのが目の前の彼だ。医師や看護師の話によるとわたしは丸二日眠りこけていたらしい。
「軽い栄養失調による貧血、ホルモンバランスも乱れていますねえ。お仕事なんでしたっけ、忙しいんですか?」
「えっ、と.....」
向けられた問いに言葉が詰まる。
おかしなことだけれど、繋ぐ言葉が何一つ出てこないのだ。
黙ってしまったわたしに医師は言う。
「人間にはそれぞれ限界がありますからね。あなたの身体が悲鳴をあげていたんでしょう。何はともあれ目が覚めてよかったですね、ほんとうに。」
医師の言葉が頭にとどまることなく耳を通り抜けてゆく。ぼんやりした頭は妙に冷静で、この状況が他人事のように存在している。その割に身体は少し震えて、神経が敏感になっている気がした。まるで精神と身体が切り離されたようであり、まるで別々の生き物であるかのような感覚。しかしこの精神も身体も間違いなくわたしのものだ。その筈なのだ。
本当に?
本当にこの精神も身体もわたしのもの? それは事実? これは現実? あまりに違和感がありすぎるのだ。
だってわたしには、通勤途中に倒れた記憶もなければいっそ働いていたという概念すらなかった。
あれ、そもそもどんな生活を送っていたんだっけ。あいうえお、かきくけこ、こんにちは、わたしの名前はみょうじなまえ、好きな食べ物はたくさんある、強いて言うなら今は出汁のきいた卵焼きでも食べたい気分、お気に入りだったマグカップが割れてしまったのはちゃんと覚えているよ、あれ、でもいつ割れてしまったんだっけ。
自分の名前も、生年月日も好きなものも、言葉だってわたしは忘れていない。
それなのに思い出せない事がある。確実にわたしの頭から抜け落ちてしまった何か。
身体が悲鳴をあげるような生活。
それどころか、日々のことがぼやけている。日々を生活していたという概念は存在しているのに、その詳細が分からない。靄にかかっている。不鮮明な記憶をいくら辿れど、見えてこないそれはいっそ何を忘れてしまったかさえ隠してしまう。
あ。
もしかして、という言葉がきっと相応しい。
思い返されるのはまだ新しい記憶だった。母が室内に入ってきた時の記憶。脳が浮くようなあの感覚。母を認識できなかったあの一瞬。あれは寝ぼけていたんじゃない。
忘れていた。
頭の中から母という存在が真っさらに消えていたのだ。
わたしは他に、何を忘れている?
様々な検査を受けた結果、心因性の記憶障害と診断されたわたしが最初に思ったのは、何を忘れてしまったかも定かではない記憶のことよりも検査にかかった費用のことだった。思い出せないことが不安でないわけがないけれど、存外まだあまり実感がないのかもしれない。仕方のないことだと思う。忘れてしまったことがどれほどあるかは分からないけれど、覚えていることがたくさんあるのだって事実なのだ。仕事に関しては不安しかないけれど、それでも生きていく上で必要な一般常識は忘れていないと診断された。
この点滴が全て体内に流れたら、わたしはもう退院だ。
「みょうじさん、点滴確認しますね。」
「あ、はい。お願いします。」
わたしを担当してくれている看護師さんが控えめな足音で近づく。あれ、何だろうこの感じ。なんとなく既視感を覚えた。点滴を確認する目の前の彼女をぼんやりと見ていると不意に目が合う。それを合図に「今朝は、」と彼女が言葉を繋いでゆく。
「今朝はびっくりしましたよ、様子を見に来たら突然苦しみ出したんですから」
「えっ」
「そのまま意識なくなっちゃうし。でもまた目覚めてくれて安心しました。」
ああ、思い出した。
控えめ足音と耳心地のいい軽い音、突然眩しくなった視界。今朝、わたしは一度目を覚ました。そのときあの場にいた足音の持ち主が彼女だったのだ。耳心地のいい軽い音というのはきっとカーテンを開ける音だったのだろう。
「ご迷惑かけてしまってすみません。正直わたしもびっくりしてました。」
「迷惑だなんて。あ、でもこれからはちゃんと身体を大事にしてくださいね。次運ばれてきたら一番太い注射刺しますから。」
「お、お厳しい...」
「あら、もしかして看護師のこと白衣の天使だとか思ってました? 残念ながら天使に看護師は務まりませんよ。私も今回そりゃもう改めて思い知りましたし...」
「え? あの、わたしそんなにひどい状態だったんですか..?」
「あらやだあなたのことじゃないの。どちらかというとみょうじさんも大変な目に遭っていた立場ですし、何ならこれからもあのゴミどもに...ああ、考えるだけでフキツ...」
段々と話の方向性が読めなくなってきた頃、母が荷物をまとめにやってきた。その瞬間に看護師さんは話をやめてしまったので結局、��ゴミども�≠フ意味も分からず終いというわけだ。
病室を出る手前、彼女はわたしの手を握って言った。
「本当に色々と気をつけてくださいね、油断しないで! 負けないで!」
えっ...いやいや待ってわたし一体これから何と戦うの? もしかして忘れているだけでこの世界って魔物とか存在しちゃうの? ヤ、ヤダァ、退院なんてしたくない秒で死んじゃう。
だなんて必死に頭を抱えたのも馬鹿らしく、病院の外に魔物などいやしなかった。記憶喪失ってすっごく不便。