「奈緒ちゃん、こっちこっち!」
「真緒くん、待ってよー」
 夏休み真っ只中の昼下がりだった。真っ青な空。綿あめのような入道雲。蝉の声がやけに煩かったのを覚えている。
 その日も俺は家の近くにある公園で弟と一緒に遊んでいた。高級住宅街にあるその公園は、夏休みにも関わらず全く人気が無い。近所に住んでいる子供たちは俺達とは違って、皆習い事や塾で忙しいのかもしれない。だから、その日も公園で遊んでいたのは俺達だけだったと思う。
 その日は砂場で大きなお城を作ろうという話をしていて、二人ともやけに張り切っていた。いつもは穏やかな弟の真緒もその日は珍しくはしゃいでて、俺は砂場に向かう真緒を必死に追いかけていた。夏の暑さなんて気にならなかった。弟と遊ぶ時間が何よりも楽しくて仕方なかったから。友達なんていらない。真緒さえいれば良かった。
「ねえ、奈緒ちゃん」
 先に砂場に着いた真緒が手を挙げて俺を呼ぶ。そんなに焦らなくても時間はたっぷりあるのに、と思わず笑って、「今行くから」と俺も手を挙げ返した。その時だった。
「――ッ!」
 いつの間にか真緒の背後には男が立っていた。帽子にサングラス、そしてマスク。自分は不審者だとアピールしているような装い。怪訝に思って声を掛けようとしたが、間に合わなかった。そして気付いた時には――その男は突然真緒を抱え込んで茂みに連れ込んだのだ。もちろん大声を出されないように手で口を塞いで。
「っ、ま、真緒くん!」
 そして目の前から真緒がいなくなった。叫び声だけが聞こえていた。どうしたらいいか分からなかった。あまりにも日常から掛け離れていて、パニックになっていたのだ。冷や汗が止まらない。手足が震えていた。どうしよう、どうしよう。とりあえず助けなきゃ。あと、誰か。誰か呼ばなきゃ。そう思っていたのに肝心な時に足が動かなくて、泣きそうだった。
「助け、呼ばないの?」
 そんな時、真緒を連れ込んだ不審者とは別の男が、ねっとりとした声で耳元で囁いた。不快な声だった。
「怖い? 怖いよねえ」
 背後に男が立っている。振り向けなかった。心臓の音が煩くて、このまま心臓が身体を突き破って死んでしまうと本気で思うほどだった。寧ろ、ここで死ねたら本望だった。しかしそんな非現実的なことが起こるはずもなく、ぽん、と両肩にそれぞれ手が置かれる。死刑執行の合図のように感じた。
「嫌だ! 助けて! 助けて、奈緒ちゃん! 誰か!」
 真緒の痛々しい悲鳴を聞きながら、俺は諦めたように目を閉じた。

 強姦目的で子供を拐う不審者数名が最近この辺を彷徨いているから、なるべく子供だけで歩かせないようにしてください。そう住人の間で声を掛けられていたことを知ったのは、その日の夜だった。母親が他の住人から嫌われていたせいで話を聞かされていなかったらしい。公園に子供が一人もいなかったのもそのせいだと、泣きじゃくっている母親から後から聞いた。

 真緒はその日から喋らなくなった。


君が目覚めるのを待ってる



 ジリリリリ、と目覚まし時計が朝を告げる。無駄に大きい音に苛立って、俺は勢いよく目覚まし時計のベルを止めた。時計の針は七時を差している。二度寝したいのは山々だが、そろそろ起きなければ間に合わない。くあ、と欠伸を零しながら、俺は隣で寝ている男の肩を揺さぶった。
「真緒、起きろ。もう七時」
 しかし肩を揺さぶっても、ぺちぺちと頬を叩いてみても、男――真緒は起きない。これ以上無理矢理起こすのも可哀想なので、仕方なく俺は真緒を起こすのを諦めてベッドから降りた。
 陶器のように白く、きめ細やかな肌。長い睫毛。桃色に染まった頬に、キスしたくなるような形の良い唇。艶やかで細い黒髪はシーツによく映える。弟の真緒は兄の俺から見ても美しかった。まあ、一卵性双生児だから俺も同じ顔をしているのだが、それでも弟のほうが一段と綺麗だと俺は思っている。度を越えたブラコンなのは自覚しているし、それを変えるつもりもない。あの事件があったから尚更だった。
 十年前のあの日、俺達は見知らぬ男五人組に茂みに連れ込まれ、犯された。挿れるべきところではないところに慣らしもせず無理矢理突っ込まれ、入れ替わり立ち替わり中に出されたのだ。抵抗すれば殴られ、蹴られ、気を失っていた俺達を母親が見つけ出してくれた頃にはもうすっかり日が落ちていた。その頃にはもう既に男達はいなかったという。その時の俺達の格好は相当酷いことになっていたらしい。
 男達は無事全員捕まった。しかし、それから真緒は失声症を患い、塞ぎ込んでしまった。部屋から一切出ず、俺達家族とも顔を合わせようとしなかった。母親はそれを自分のせいだと責めてずっと泣いており、父親はこんなことになっても仕事ばかりで家に帰ってこなかった。
 こんなことになったのは全部俺のせいなのだ。あそこで諦めなければこんなことにはならなかった。俺はまだしも、真緒まであんな目に遭わなくても良かった。全部全部、俺のせいだった。だから、俺だけは正気でいなければならなかった。俺が落ち込んでいてもどうしようもない。俺は家族を――真緒を、守らなくてはいけない。
 そうして小学校に行かなくなって暫く経ったある日、俺達は母親にとある学園を紹介された。私立星蘭学園と呼ばれる小中高大一貫の全寮制の男子校で、御曹司ばかりが通う学園らしい。誘拐などの事件に巻き込まれないように山の上に建っており、簡単に外に出られない代わりに安全を保証してくれるのだと母親は言った。金なら死ぬほどあった。男しかいないというのは若干怖いが、それでも俺達と年齢はそれほど変わらない。二度とあんな目に遭わないだろう。そう説得され、俺達は実家を出て、その星蘭学園に通うことを決めた。
 そして現在。俺達は無事に高校生になった。美しい容姿と失声症のせいで真緒が男子生徒に狙われることも多々あったが全員俺が蹴散らした。おかげで高校二年生になった今では、いくらか平和に過ごせるようになっている。
 しかしそれでも俺はあの日のことを忘れられない。焼き付くような痛み。愉快そうに歪められたたくさんの瞳。下品な笑い声。俺達を殴る大きな手。――真緒の、悲鳴。
「――ッ、おぇえっ……!」
 急いでトイレに駆け込んだ。何度も何度も嗚咽を繰り返すが、胃液しか出ない。それでも吐けばいくらか楽になるので、喉に指を突っ込んで無理矢理吐き出す。あの事件のせいでスキンシップが怖くなっても、猜疑心が強くなっても、嘔吐癖が付いても、俺はしっかりしなきゃいけない。誰も信用出来ない。兄として、真緒を守るんだ。
 力強く口元を拭い、立ち上がる。トイレから出て、俺は二人分の朝食を作ろうと簡易キッチンへ向かった。

 十月にもなれば空気も冷たい。枯れ木に囲まれているせいで寂しい印象を受ける学園の外を、俺達は何人かの生徒を抜かしながら走っていた。急がなければチャイムが鳴ってしまう。
「急がないと間に合わねえよ、真緒!」
 そう真緒の手を引きながら声を掛けるが、相変わらず彼は返事をしない。振り向いても目も合わないし、聞いているかどうかも分からなかった。昔とは比べ物にならないほど変わってしまった弟に胸が痛くなるが、俺は気にしないようにして校舎に駆け込み、靴を履き替える。真緒が話せないことはもう諦めている。真緒が喋れなくても、今彼が俺の傍にいるだけで幸せだと思わなければやってられなかった。
「奈緒」
 そうして靴を履き替え終えて、再び走ろうと真緒の手を強く握ったその時だった。背後から名前を呼ばれ、振り返る。
「湊……」
 赤みがかった茶色のストレートヘア。睫毛で縁取られたアーモンド型の瞳。制服をきっちり着こなしている姿は性格が出ている。目立つような容姿ではないが優しそうな顔をしている彼は、佐倉湊。俺の幼馴染みである。その隣には無造作に跳ねさせたダークベージュの短髪に、冷たい雰囲気を感じさせる切れ長の瞳。背が高く、そこにいるだけで威圧感を感じさせる湊の友人――遊間優希が立っていた。二人に行く道を阻まれ、俺はつい眉間に皺を寄せる。最悪だ。
「何。急いでんだけど」
 玄関で待ち伏せしていたのだろうか。俺は真緒の手を強く握り、彼らを睨みつける。そんな俺の態度を見て湊は困ったように苦笑し、「ごめん。こうでもしないと話してもらえないと思って」と返した。優希は腕を組みながら俺たちの様子を一歩下がって見ている。道を塞ぐ二人に無性に苛々して、俺は彼らを威嚇するように靴箱を勢いよく蹴りつけた。ダンッ! と響く重たい音。
「時間見ろよ。何で今? 間に合わないんだけど」
「あ、それは大丈夫。俺から先生に伝えておくから」
「いや、そういう問題じゃなくてさあ」
 苛々する。なかなか本題に入らない湊をキッと睨みつければ、湊は傷付いたように苦笑して「まあ、何となく察してると思うけど」と前置きをする。

「生徒会、入る気ない?」

 出た。生徒会の勧誘。
「はあ……またあの話かよ。何回誘われても入んねえっつってんだろ」
「奈緒、もう一度しっかり考えてみて。真緒の世話ばかりしていたら奈緒だって疲れちゃうでしょ。少しでも離れる機会持った方がいいと思うんだよ」
「は? 疲れねえよ。何俺のこと分かったように喋ってんの? 何様のつもり?」
「何様って……俺は一応幼馴染みとして心配してるんだけど」
「幼馴染み? ちょっと家が近かっただけだろ。偉そうに口出しするなよ。迷惑」
 俺は衝動に任せて湊に吐き捨て、真緒の腕を引っ張って二人の横を通り過ぎる。知ったような口を利きやがって。むかつく。苛立ちを隠そうともせずに、俺は大きな足音を立てながら再び走る。湊がどんな気持ちでいるかだなんて、考えようともしなかった。

「っ、おい……!」
 優希は去っていく奈緒を止めようと手を伸ばすが、俺は「優希」と名前を呼んでそれを止めた。去っていく奈緒と真緒。その姿をぼんやり見つめている俺に、優希はもう我慢が出来ないというように声をかける。
「湊。もう春瀬のことは諦めた方がいいって。あんなことまで言われて、気にかける必要無いだろ」
「……奈緒は本当はあんな子じゃないんだよ。きっと話せば分かってくれる」
「そう言ってもう何年経ってんだよ。そろそろお前も現実を見た方がいい」
 ほら、俺たちも行くぞ。そう俺の腕を強引に引っ張る優希に、俺は諦めたように「うん」と返す。大切な幼馴染みを救いたいだけなのに、どうして上手く伝わらないのだろうか。俺が所属している生徒会に奈緒も入ってくれれば、きっと真緒中心に動いている奈緒の人生も少しは変わってくれるはずだ。そう考えて声をかけているだけなのに。はあ、と俺は溜め息をついて、優希に引きずられるまま教室へ向かった。
「佐倉くんに対して何なの、あの態度」
「調子に乗ってるよね。生徒会に勧誘されるなんて名誉あることなのに」
「ちょっと自分の立場分からせてあげようか?」
 端でそんな会話が繰り広げられていることに、気付かないまま。

 腹が立つ、腹が立つ。腹が立つ! 何なんだよ、あいつら。俺の邪魔ばっかりしやがって! 俺は苛立ちをぶつけるようにシャープペンシルのノックボタンをカチカチカチカチと繰り返し押し続ける。教師が説明している数学の公式なんて全く頭に入ってこない。浮かぶのは湊と優希への恨み言だけだ。我慢しきれずに俺は小さく舌打ちをする。腹が立って仕方がない。
 湊とは実家が隣同士で、引っ越してからずっと付き合いがある幼馴染みである。特に親同士の仲が良く、何かにつけて俺たちは一緒にいた。学校だってずっと一緒だったし、長期休みは家族で旅行へ行ったりもした。――でも気が合ったのは両親だけで、俺と湊は全く気が合わなかった。
 湊はきっとそれでも俺たちと仲良くしたいと思っていたのだろう。そうすれば両親も喜ぶと思っていたのかもしれない。あの優等生は自分がどう見られているかどうかも把握した上で動いている計算高い奴――実際はどうかは知らないが少なくとも俺はそう思っていたし、今もそう思っている――だった。だからあいつは小さい頃から俺たちにしつこいくらいに声をかけ、優しく接していた。俺はそれが凄く嫌で、ずっと反発していた気がする。だけど俺と違って人見知りで引っ込み思案だった真緒は、自分たちを気にしてくれている優しい湊に少しずつ気を許し始めていて、俺はそれが心底不愉快だったのだ。元々ああいう誰にでも好かれるような男は嫌いだった。人はそれを妬みというのかもしれないけれど。
 そんな湊も、俺たちが事件に巻き込まれてからは一切俺たちに話しかけなくなった。家族ぐるみの付き合いも無かった。「そっとしておいてあげましょう」だとか、そんなことを親に何か言われたのかもしれない。人の目が気になって声をかけられなかったのかもしれない。でも、理由なんてどうでもいい。俺たちがどうしようもなく辛い時期に、あいつは何もしてくれなかった。それだけが事実だ。そもそも湊たちが不審者が出るという噂を教えてくれれば、それだけで済んだ話だったのに。結局湊だって厄介事に首を突っ込みたくなかったのだろう。
 それなのに何故か今更俺たちと同じ学園に入学して、幼馴染み面をして世話を焼こうとしているのだ。――もう何もかも遅いっていうのに!
「くそ……」
 俺たちがどんな思いでここまで這い上がってきたと思ってるんだ。本当はこんな狭い教室の中で、大人数の男に囲まれている今の状況も辛くて仕方がない。俺の考えすぎだってことくらい分かっているのに、それでも男たちの視線が気になって気になって、吐き気がする。それに、真緒を隣の教室に置いてきたことも不安で仕方がなかった。俺の知らないところでまた襲われているんじゃないかとか、色々、考えてしまって。
「――ッ、う……っ!」
 ごぽり、と胃からせり上がってきて、俺はガタンと音を立てて席を立った。咄嗟に口元を押さえる。気持ち悪い、気持ち悪い。一気に視線が俺に集まる。奇異なものを見るような目。その目のせいで更に吐き気が込み上がってきて、俺は担任に何も言わずに慌てて教室を出た。「春瀬のやつ、大丈夫なのか?」という担任の言葉を扉越しに聞きながら。
 授業中というのもあって廊下は静かだった。廊下に出ているのは今のところ俺だけである。俺は自然と早くなる呼吸を押さえつけながら、駆け足でトイレへ向かう。教室から出たからか吐き気はいくらか落ち着いてきたが、腹を蠢く気持ち悪さはまだ残っている。ここまで来たら吐き出してすっきりしてしまいたい。俺はなるべく足音を立てないように廊下を走る。そこまで遠くないはずなのに、やけに距離を感じた。正体不明の焦燥感と不安感。そんな中、目に入ったのは隣のクラス――真緒がいる教室だ。トイレに向かうには必ず通らなければいけない場所。
「……」
 足を止めた。ごくり、息を呑む。そこから微かに聞こえる教師の声。例外なくこの教室内でもいつも通り授業が行われているのだろう。……大丈夫。真緒がいなくなっているわけがない。ちゃんといるはずだ。俺は自分に言い聞かせるようにそう繰り返しながら、さり気なく教室の中を覗き込んだ。このどうしようもない不安は杞憂だという確信が欲しかったからだ。吐き気はいつの間にか忘れていた。
 ――だが、そこから見た真緒の席は、空っぽだった。
「っ……!?」
 ど、どうして!? 何で!? 朝、真緒を教室まで連れて行って、席に座らせたはずなのに! 教室の壁に飾られている時計を見ると、現在午前十時。朝真緒と別れてから一時間半も経っている。いつだ? いついなくなった? 自分で保健室かどこかに向かったのか、或いは、考えたくないけど――連れて行かれた?
『嫌だ! 助けて! 助けて、奈緒ちゃん! 誰か!』
 瞬間、真緒の悲痛な叫び声がフラッシュバックする。ぶり返す吐き気。死ぬほど頭が痛い。早く探さなきゃ。手遅れになる前に。今度こそ俺が真緒を助けてあげなきゃ。俺は無性に泣きそうになりながら、足音なんて気にせずひたすら廊下を走った。早く、真緒の顔が見たい。今すぐに安心が欲しかった。

 昼休み。とあるトイレの個室。「だからもう無理なんだって」と優希は呆れたように呟く。そんなの、言われなくても薄々勘付いている。ただの幼馴染みでしかない俺には、決してあの双子を救うことは出来ないことは。
「真緒、真緒……っ、ごめん、ごめ……ゆるして、真緒……ッ」
 奈緒は美しい顔を涙でぐちゃぐちゃにしながら、真緒を抱えてひたすら謝っている。嗚咽を交えた謝罪の言葉は痛々しくて、聞いているこっちも泣きたくなる。奈緒は俺たちに気付かず、ただただびしょ濡れの真緒を抱きしめていた。
 話によると、朝授業が始まる前にクラスメイトが真緒を教室から連れ出したらしい。真緒は当然抵抗せず、そのまま連れて行かれた先はトイレの個室。そこで乱暴にされて、最終的には便器に顔を突っ込まれたまま今まで放置されていたらしかった。それを奈緒が見つけたのが何時頃なのかは分からない。探してすぐに見つけて今まで泣いていたのかもしれないし、ついさっき見つけたのかもしれない。それを奈緒に直接聞く資格を、俺は持ち合わせていない。
「春瀬にとってこれが幸せなんだろ」
 呆然と立ち尽くして奈緒たちを見つめている俺の手を握り、優希はそう俺に声をかける。分かってる。分かってるけど、俺にはこれが幸せだとは思えない。こんなの、自滅するだけだ。だって、だってもう。

「真緒はもうとっくに死んでるのに」

 ――あの事件後、確かに真緒は失声症を患っていた。そんな真緒を心配して二人でこの閉鎖的な学園に入ったことも事実だ。しかし男だらけという空間に加えて、異質なものを見るような不躾な目。自分の思いを伝えられないストレス。そして何よりあの事件のせいで抱える羽目になった消えない痛みと今後ずっと付き合っていけるほど真緒は強くなかった。真緒は高等部に進学して五ヶ月ほど経った頃、遺書を残して自殺した。自殺場所は寮の自室。首吊りだった。
 死に顔を見た。葬儀もした。奈緒の精神安定の為に真緒の席は置いてあるが、名簿には「春瀬真緒」の名前は既に消えている。だが、真緒の死を受け入れられなかった奈緒は、真緒の葬儀の日からおかしくなってしまった。
 なあ、奈緒。確かに俺はあの事件の後、奈緒たちを避けていた。あんな事件に遭った奈緒たちに、なんて声をかけたらいいか分からなかったからだ。見せかけの同情をするのは簡単だ。でも、きっとその気持ちを本当に分かってあげることは出来ない。本当の意味で、双子の気持ちに寄り添うことなんて出来ない。
 だけど、真緒が死んでおかしくなってしまった奈緒を見て、そして葬儀の日に奈緒たちの母親から「奈緒を助けてあげて」と頼まれた日から、俺は今度こそ奈緒を、そして真緒を守らなくちゃいけない。守ってあげたい。そう思って、今まで行動してきた。
 奈緒はそろそろ真緒のことを忘れて、奈緒のための人生を歩むべきなんだ。真緒はもう死んでいる。その事実はどうやっても覆ることはない。
「俺は、春瀬の言う"真緒"が、ただのくまのぬいぐるみにしか見えねえんだけど」
 淡々と呟く優希に、俺は目を伏せる。気づけばトイレに集まってきていた俺たち以外の野次馬も、「また始まったよ。あいつの奇行」と呆れた様子だ。
 そうだ。朝奈緒と手を繋いでいるのも、教室の椅子に座っているのも、今奈緒に抱きしめられているのも、俺にはぬいぐるみにしか見えなかった。

 俺は昔から奈緒に好かれてはいなかった。真緒が俺に懐いていたから、ずっと一緒だった真緒を俺に取られて嫉妬していたのだろう。それでも俺はあの頃が一番楽しかった。言いたいことを言えて、それでも離れずに三人で色んなところに一緒に遊びに行った。あの頃に戻りたい。普通に会話が出来たあの頃に。そしてあわよくば、奈緒が真緒以外の世界を見てくれるようになれば、それでいい。
 そう思いながら俺は今日も、君が目覚めるのを待ってる。


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